百式重爆撃機・呑龍どんりゅう


呑龍 平成21年3月1日

パプアニューギニア独立国・マダン・アレキシス飛行場跡


アレキシス飛行場跡


アレキシス飛行場跡
(パプアニューギニア・ニューギニア島マダン)

旅日記参照


(平成21年3月1日)
爆弾穴 池のように見えるのは、爆弾で出来た穴に水が溜まったものだという。

中島キー49 一〇〇式重爆撃機「呑龍」

九七式重爆撃機の後継となるべき、高速、重武装の重爆として開発され、昭和14年8月に試作1号機が完成。
昭和16年3月に正式採用。
昭和19年12月までに計796機が生産された。
初陣は昭和18年夏のポートダーウィン攻撃であるが、重武装、高速のわりには爆弾搭載量が不足で戦果も少なく、稼働率の低さと相まって現地部隊では意外と不評であった。
最後には武装を全部はずし、乗員2名のみで特攻機となったものも多い。

全幅 20.424m
全長 16.808m
自重 6450kg
発動機 中島ハー109(離昇出力1520馬力)×2
最大速度 492キロ/時/5000m
武装 20mm砲×1(後上方)
    7.7mm銃×5(機首、両側面、後下方、尾部)
爆弾 750kg(最大1000kg)
乗員 8名

(参考:月刊雑誌『丸』別冊 『日本兵器総集(昭和16年〜20年版)』 昭和52年発行)

この百式重爆は、中島飛行機が作った唯一の正式重爆撃機で、その試作命令が出たのは1938年(昭和13年)のことだった。
さっそく中島では西村節郎技師を中心にして設計に取り掛かり、入社して1年もたたない渋谷巌技師が胴体の設計にあたった。
彼は強度計算に強く、重爆で初めて後上方の20ミリ機関砲、それに尾部砲塔を付ける機体を、世界一軽く設計しようと心掛けたという。
その結果、風体だけで360キロという軽い胴体を作り出した。
また本機の特徴となった長弦中央翼は、設計の初期にはなく、燃料の搭載量が少ないことに気付いたため、終戦後にロケットで有名になる糸川英夫技師の提案で、元の翼断面の前にフェアリングを付けたように前に張り出す形となった。
これは結果的に、当時はやりはじめた層流翼の形となり、その効果は狙い通りだったという。
1939年(昭和14年)8月に試作第1号機が完成し、競争試作でもなく、戦況もさほど厳しくなかったためか、八木斌少佐や酒本英夫大尉らによって、ゆうゆうと審査が行なわれ、1941年(昭和16年)3月に「百式重爆撃機」1型として採用された。
ハ41発動機(離昇出力1250馬力)付きの1型は129機生産された。
部隊の機種改変直後はエンジン多く不評で、パワー不足であり、試作命令が蘭州攻撃などの戦訓が出る前であったためか、航続距離、爆弾搭載量も九七式重爆なみで、九七式重爆よりいい点は武装の強さにあったが、それも動力砲塔でもなく、十分に発揮できなかった。
更にエンジンをハ41の発展型のハ109に換装した2型が1941年(昭和16年)末に完成し、これが1942年(昭和17年)8月以降、1型に代わって1944年(昭和19年)12月まで601機生産された。
1型は重爆が重爆として活躍できた南方進攻作戦に間に合わず、殆ど実戦の参加はなく2型に改変され、その2型もオーストラリア作戦、ニューギニア作戦、ビルマ作戦、フィリピン作戦と投入されているが、目立った活躍はなく、夜間作戦には百式重爆装備の部隊が九七式重爆を用いたくらいであった。

(参考:伊澤保穂著 『陸軍重爆隊』 朝日ソノラマ 1996年発行)


【中島一〇〇式重爆撃機】 

中島一〇〇式重爆撃機は呑龍どんりゅうという名をもらった。
呑龍とは中島飛行機の工場所在地太田にある大光院という寺の開基の名である。

「呑龍」の特徴は後方に対する防御武装であった。
これは前任機九七式重爆の最大の弱点で、苦しまぎれに尾部に木製のにせ鉄砲をつけたり、線香の煙を燃やしたりして現地部隊は敵の眼をくらまそうとした珍談がある。
陸軍はこの戦訓により、昭和13年(1938年)、護衛戦闘機を必要としない高速重武装の重爆を計画し、試作名キ47で中島に試作を命じた。
これに対して中島は戦闘機のベテラン小山悌やすし技師を主任として設計を進めた。
操縦性が優れ、パイロットたちの評判はよく、さすが戦闘機設計者といわれた。
ただし、「呑龍」の主翼アスペクト比が小さかったことは、高高度性能や航続力に不利だったと思われる。

「呑龍」の正面図を見ると、なによりもエンジンナセルの直径が小さく、また胴体も九七式重爆より背が低い。
このエンジンは戦闘機「鍾馗」に使われたのと同じ(ただし、減速比は異なる)であるが、出力は限界にきていて余裕がなく、この点では選定が誤りであったといわれる。
武装は、機首、両舷、胴体後下方、尾部に各7.7ミリ機銃1挺、胴体後部上面に旋回式の20ミリ機関砲1門を備えた。
エンジンを換装した一〇〇式重爆2型は、太平洋戦争開戦とともに、南方に出動した。
昭和18年(1943年)夏にはオーストラリアのポートダーウィンを強襲して、高速重武装重爆の存在を明らかにした。
ただし、爆弾搭載量はわずか750kg程度で、九七式重爆と同じ程度であった。
したがって、せっかく敵の抵抗を破って目標に到達しても、強い懲罰を加えることができなかった。

なお、一〇〇式重爆2型からプロペラは1型のハミルトン・スタンダード油圧式定回転フルフェザー方式になった。
これは陸軍多発機で最初のことで、結果として片発飛行が可能となった。(フルフェザーしないと片発飛行は不可能)
なぜもっと早くフルフェザープロペラを採用しなかったのかというと、アメリカはハミルトン・スタンダードのフルフェザー型(商品名ハイドロマチック)の製造用工作機械の日本向け輸出を禁止したためである。
したがって、日本海軍はドイツのVDM機械式フルフェザー、日本陸軍はフランスのラチエ電気式、のちにドイツのユンカース油圧式フルフェザー(いずれも定回転)を技術導入した。

「呑龍」はいくらも生産されなかったが、これは最初からもっと先を見た仕様書を発行すべきであったろう。
いくら設計者が優れていても、次元の低い要求では腕の振るいようがなかったと思われる。

(参考:佐貫亦男 著 『飛べヒコーキ』 光人社NF文庫 2000年3月発行)

(平成27年7月30日 追記)




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