第104号輸送艦







 第104號輸送艦 慰霊碑
  (愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音霊場)





 (平成26年4月6日)

碑文

第104號輸送艦は 昭和19年5月25日大阪造船所で輸送艦として建造され 當日母校である呉軍港に向かい回航した
約20日の期間を要し艤装を完了しその間兵員の増強を計り 艦長 海軍少佐 前田経雄以下将兵127名が乗り組み 風雲急を告ぐ小笠原作戦に召され 同年6月24日呉軍港を出撃し横須賀軍港を拠点として 硫黄島 父島への兵員 兵器の緊急強行輸送を決行した
同年11月5日まで十数回輸送の使命を遂行中幾度か敵機動部隊及び艦載機と激戦し 彼我共に戦闘員並びに艦□機の損害甚大なるものあり
特に7月4日父島で敵艦上攻撃機延三百機と交戦 4名の戦没者を出し又8月4日には グラマン戦闘爆撃機450機飛来  迎撃し撃墜6 撃破3の戦果を上げ 更に9月2日には敵精鋭主力艦隊の巡洋艦 駆逐艦各3隻が父島二見湾沖に現れ猛艦砲射撃を受けるが我が艦は微細な攻撃兵器でよく應戦 観測機を撃墜し敗退せしむる
同年11月16日輸送任務が比島方面に変更になり横須賀軍港を出港
母港に向ふ途中三河湾に仮泊し 呉軍港に歸港し戦備を整え再び出撃 門司 佐世保 馬公 高雄の各港を経てルソン島西岸マニラに向ふ
同年12月14日サンフェルナンド沖にて敵機の襲撃を交戦するも 坂本副艦長以下6名の戦没者を出した
更に南下翌15日0845マシンロック湾にて 敵機數十機と交戦その甲斐なく 21名の戦没者 28名の負傷者を出し 本艦は被爆炎上沈没す
本艦任務遂行中に戦没せし将兵實に 32柱 又戦没 戦傷者以外の生存者も運命の悪戯か陸戦隊員に編入され故郷の土を踏む事も能わず 2ヶ月後にマニラ市街戦にて殆散華した
これ等の勇者痛恨まことに極りなし
祖國に殉じたる忠魂に思いを馳せ こゝに碑を建立し その忠誠を讃え 後世にながく語り傳え 慰霊するものである

平成元年12月15日建之
第一〇四慰霊奉賛會


【二等輸送艦】

艦名は全て100番以上。

101号型=950トン、13ノット、1200馬力ディーゼル、同型艦6隻
103号型=870トン、16ノット、2500馬力タービン、同型艦63隻(うち20隻は陸軍の暁兵団が使用)
タービンは海防艦2号クラスと同じく、2A型戦時標準船のものを流用したと推定される。
船体は平底、箱型で、艦首に扉があり、海辺に乗り上げる点は米国の戦車上陸LSTと同じである。
しかし、大きさは米国のLSTの半分ほど。
1号艦の完成はLSTより2年近く遅い。
大正3年式40口径8センチ高角砲1門を装備。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


【二等輸送艦】

二等輸送艦とは、アメリカが第二次世界大戦で大量に建造した戦車揚陸艦(LST)や中型戦車揚陸艦(LSM)などと同じ発想で、戦車や戦闘車輛を搭載して海岸にのし上げ、迅速に戦闘車輛を揚陸させて上陸作戦に機動性を持たせようとする輸送艦であった。
船体は箱型の簡易構造で、船体を海岸の砂浜などに直角に閣座させ、艦首の扉を倒すと扉はそのまま渡り板となって各種の戦闘車輛を一気に揚陸させることができるばかりではなく、貨物自動車の揚陸や一般貨物の人力による揚陸も可能な構造になっていた。
この艦はガダルカナル強行輸送の経験から開発されたもので、昭和19年(1944年)4月頃から少数ながら実戦に投入され出した。

本艦は基準排水量950トン、最高速力16ノット。
対空火器は25ミリ三連装機銃を3~5基、さらに25ミリ単装機銃5~8挺を装備した。
重量17トンの一式中戦車であれば7両が搭載可能で、兵員であれば200名と1週間分の弾薬と糧秣を輸送することができた。

二等輸送艦はSB艇とも呼ばれることもあり、終戦までに69隻が建造され、レイテ島攻防戦にも7隻が投入されたが、その中の6隻が失われた。

(参考:大内健二著 『戦う民間船』 光人社NF文庫 2006年発行)

(平成23年5月29日追記)




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