(のち交通船・第一黒潮)
第131号輸送艦・第一黒潮 戦没者慰霊碑 (長崎市佐世保市・佐世保東山海軍墓地) (平成20年11月23日) |
第131号輸送艦後第一黒潮戦歴
本艦は昭和19年6月24日佐賀県浦之崎川南造船所で竣工
乗員猿渡登海軍大尉以下百余名
7月2日佐世保出港
フィリピン方面戦線に出撃
マニラ セレベス ボルネオ等の輸送に従事
10月28日レイテ上陸(多号作戦)に成功
帰途敵機の攻撃を受け中破
マニラで修理
以後サンフェルナンドへ輸送
20年1月5日マニラ脱出サイゴン回航
1月12日大空襲を受け被爆延焼
その後第一黒潮と改名
4月シンガポール回航
5月14日印度洋ニコバル諸島特攻輸送
以後機雷敷設艦として活躍中昭和20年7月27日マラッカ海峡において敵潜水艦の攻撃を受け沈没
敵機撃墜7機
馬場徳次謹誌
昭和59年7月 慰霊碑建設奉賛者建之
(碑文より)
第131号輸送艦・第一黒潮戦没者慰霊碑
(元)二等輸送艦
昭和19年6月24日浦崎造船所で竣工。
同日付で佐世保を本籍とした。
第1黒潮は第131輸送艦の後身。
基準排水量:870トン
速力:16ノット
武装:8センチ高角砲1門、他に25ミリ機銃
二等輸送艦は、海軍ではSB艇と称し、69隻が完成。(うち20隻を陸軍に分配)
佐世保を本籍としたのは20隻。
うち16隻が戦没、1隻が大破放棄された。
第131輸送艦は7月3日佐世保を出港してマニラ輸送に従事し、以後マニラを基点として輸送作戦に従事。
10月末よりオルモック輸送(多号作戦)に従事。
同艦は、10月28日、独立速射砲1個大隊約340名と兵器、弾薬、糧食などを搭載してマニラを出港し独航。
30日午後9時過ぎ、無事にオルモックに到着。
人員、器材を揚陸し、帰途は先に沈没した輸送艦101号の乗員を便乗させて、31日午前0時半出港。
マニラに向ったものの同日午後、B−24の爆撃を受けて航行不能となった。
第21駆逐隊の「初春」「初霜」と輸送艦9号をもって輸送艦131号の救助作業が実施される。
11月3日午後6時、救難部隊が現場に到着。
輸送艦9号が曳航して、5日午前7時半、キャビテ及びマニラに入港。
修理の上、昭和20年2月10日をもって「第1黒潮」と改名。
交通船に区分されたが、任務は機雷敷設と従前通りの輸送業務であった。
昭和20年7月27日、マラッカ海峡において米潜の雷撃を受けて沈没。
碑は昭和59年7月に建立された。
レイテ、サイゴン及びマラッカ海峡における戦没者30名の霊を祀る。
(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)
【二等輸送艦】
艦名は全て100番以上。
101号型=950トン、13ノット、1200馬力ディーゼル、同型艦6隻
103号型=870トン、16ノット、2500馬力タービン、同型艦63隻(うち20隻は陸軍の暁兵団が使用)
タービンは海防艦2号クラスと同じく、2A型戦時標準船のものを流用したと推定される。
船体は平底、箱型で、艦首に扉があり、海辺に乗り上げる点は米国の戦車上陸LSTと同じである。
しかし、大きさは米国のLSTの半分ほど。
1号艦の完成はLSTより2年近く遅い。
大正3年式40口径8センチ高角砲1門を装備。
(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
【二等輸送艦】
二等輸送艦とは、アメリカが第二次世界大戦で大量に建造した戦車揚陸艦(LST)や中型戦車揚陸艦(LSM)などと同じ発想で、戦車や戦闘車輛を搭載して海岸にのし上げ、迅速に戦闘車輛を揚陸させて上陸作戦に機動性を持たせようとする輸送艦であった。
船体は箱型の簡易構造で、船体を海岸の砂浜などに直角に閣座させ、艦首の扉を倒すと扉はそのまま渡り板となって各種の戦闘車輛を一気に揚陸させることができるばかりではなく、貨物自動車の揚陸や一般貨物の人力による揚陸も可能な構造になっていた。
この艦はガダルカナル強行輸送の経験から開発されたもので、昭和19年(1944年)4月頃から少数ながら実戦に投入され出した。
本艦は基準排水量950トン、最高速力16ノット。
対空火器は25ミリ三連装機銃を3〜5基、さらに25ミリ単装機銃5〜8挺を装備した。
重量17トンの一式中戦車であれば7両が搭載可能で、兵員であれば200名と1週間分の弾薬と糧秣を輸送することができた。
二等輸送艦はSB艇とも呼ばれることもあり、終戦までに69隻が建造され、レイテ島攻防戦にも7隻が投入されたが、その中の6隻が失われた。
(参考:大内健二著 『戦う民間船』 光人社NF文庫 2006年発行)
(平成23年5月29日追記)
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