平成21年3月19日
グアム島・太平洋戦争博物館
平成21年3月19日
グアム島・太平洋戦争博物館
日本陸軍で最初につくられた本格的な対戦車砲(通称、速射砲)である九四式37ミリ砲が制定されたのは昭和9年。
昭和14年のノモンハン事件に実戦初参加したが、威力不足だったため、昭和15年に急遽開発したのが一式47ミリ砲である。
設計主任は陸軍技術本部火砲班の則松中佐である。
口径の増大に伴い重量も増加したので、ゴムタイヤ式として自動車けん引となり、機動力を併せ持つ対戦車砲となった。
ゴムタイヤ装置の緩衝装置は、ドイツ・ラインメタルボルジヒ社から購入した37mm対戦車砲(Pak.37)の構造をそっくり真似たものだった。
特色は比較的軽量、操作が容易で、半自動式の水平閉鎖機により弾薬の装填が自動的に行なわれ、発射速度を高めている。
砲身は結合式で、砲口部に補強環が付けられ、駐退複座機は水圧バネ式管壁漏孔型を採用していた。
使用砲弾は、弾底信管をもつ一式47mm徹甲弾を使用した。
通常は自動車(トラック)けん引であるが、時によっては人力搬送も可能だった。
昭和16年に一式機動47ミリ砲として制式となり、同年から大阪陸軍造兵廠で大量生産された。
大戦中期からは独立速射砲大隊が編成され、南太平洋の各戦線に配備されたが、重装甲の米軍M4戦車に対しては効果が少なかった。
なお、陸軍では対戦車砲という目的であったが、秘匿上、速射砲という名称で呼んでいた。
【一式機動47ミリ砲】
口径:47mm
砲身長:252.6cm
重量:800kg
初速:830m/sec
発射速度:20発/分
最大射程:6900m
(参考:月刊雑誌『丸』別冊 『日本兵器総集(昭和16年〜20年版)』 昭和52年発行)
(参考:『日本陸軍兵器集』 KKワールドフォトプレス 昭和57年発行)
平成21年12月6日
アメリカ合衆国・ハワイ・陸軍博物館
JAPANESE TYPE 1 (1941)
A LIGHT-WEIGHT MOBILE PIECE USED BY INDEPENDENT
ANTITANK AND ARMORED UNITS.
ITS 3 LB.SHELL COULD PENETRATE 3 INCHES OF
ARMOR AT 500 YARDS.
一式機動47mm砲 (ハワイ・太平洋航空博物館) (平成21年12月8日) |
【一式機動47ミリ砲】
昭和14年9月、設計に着手。
昭和15年6月、竣工試験が行われ、車輪を抗弾ゴム製に改めた。
昭和16年9月、歩兵学校に実用試験を委託。
昭和17年1月、北満試験に供試。
昭和17年9月、制定。
生産は大阪陸軍造兵廠。
昭和18年度からは名古屋陸軍造兵廠でも生産された。
生産数は昭和17年度から終戦までで推定2300門。
発射速度は固定目標に対しては1分間に最大20発、実用で10発〜15発。
酷寒期においては実用3発〜7発となる。
動目標に対しては1分間に最大20発、実用10発前後。
運搬は装甲牽引車または自動貨車などにより牽引する。
陣地進入から初弾発射までの所用時間は40秒〜1分20秒。
最大侵徹量は、一式徹甲弾で第一種鋼板に対して、弾着角90度で至近距離射撃をした場合、装甲厚70mm弱、射距離1000mの場合は装甲厚50mm強だった。
(佐山二郎著 『大砲入門』 光人NF文庫 1999年発行)
(平成24年3月31日追記)
【一式機動47ミリ対戦車砲】
一式対戦車砲には37ミリ、47ミリの二種がある。
ノモンハン事件でわが第23師団の九四式対戦車砲(速射砲)はソ連のT26や軽戦車や、BT7型中戦車の1.5センチの装甲を撃ち破ったけれど、至近距離まで接近しなければ効果が少なかった。
このため九四式37ミ対戦車砲の砲身を15センチ長くし1.85メートルとしたのが一式37ミリ対戦車砲であったが、その割には破壊力は伸びなかった。
ところが、この2〜3年の間に世界の戦車は急速な伸びを示し、最厚部の装甲が3センチ余に達するものさえ現れた。
わが九七式中戦車でも2.5センチである。
フランス人ヤコブ・ド・マレーの公式を用いれば、弾丸の初速や重量から、それが撃ち抜くことのできる装甲の厚さを計算できるので、各国は慌てて対戦車砲の改善に一斉に乗り出した。
日本陸軍が自信をもって設計したのは、スマートな一式47ミリ対戦車砲で、日本陸軍が使用した最後の対戦車砲となった。
米国やドイツでは昭和19年ごろからバズーカ砲を使用し始めているが、我が国ではとうとう対戦車用のロケット発射筒は試作の段階で終わってしまった。
一式47ミリ対戦車砲は、37ミリ砲の2倍余である800キロもの重量があり、弾丸も2倍の1.5キロで、1300メートル離れた3.7センチの装甲板を楽に撃ち抜くことができた。
一式機動47ミリ対戦車砲は、4門で1個中隊をなし、3個中隊で1個大隊(480名)をなした。
そして、独立速射砲大隊として、軍直轄部隊となるケースが多かった。
(参考:木俣滋郎 著 『陸軍兵器発達史』 光人社NF文庫 1999年発行)
(平成29年2月18日 追記)
【火砲の標識について】
製造年月は紀元年次に50を加えた数の十位以下の数字を示す。
また兵器固有番号は製造総数が容易に判定されないように決定する。
製造所記号は以下の通り
(い)東京第1陸軍造兵廠 (ろ)東京第2陸軍造兵廠 (は)相模陸軍造兵廠
(に)名古屋陸軍造兵廠 (ほ)大阪陸軍造兵廠 (へ)小倉陸軍造兵廠
(と)仁川陸軍造兵廠 (ち)南満州陸軍造兵廠
(イ)日本製鋼所 (ロ)日本特殊鋼 (ハ)新潟鉄工所
(ニ)東邦工作所 (ホ)東洋電気 (ヘ)豊和重工業
(ト)大阪機工 (チ)大阪機械 (リ)大阪金属
(ヌ)大阪鉄工 (ル)萱場製作所 (ヲ)理研重工業
(ワ)中央工業 (カ)横山工業 (ヨ)中島造機
(タ)梅田機械 (レ)福島製作所 (ソ)神戸製鋼
(ツ)浅野重工業 (ネ)光精機 (ナ)奉天造兵所
(ラ)鈴木織機 (ム)小松製作所 (ウ)池貝鉄工
(エ)羽田精機 (ノ)ディーゼル自動車 (オ)久保田鉄工
(ク)満州器械 (ヤ)汽車製造 (マ)三菱重工業
(ケ)日立製作所 (フ)大連機械 (コ)発動機製造
(エ)日野重工業 (テ)日本内燃機 (ア)大日本機械
(サ)森重工業 (キ)三木重工業 (ユ)帝国車輛
(メ)栗本鉄工 (ミ)日本曹達 (シ)池貝自動車
(ヒ)龍山工作 (モ)山科精工所
(参考:佐山二郎 著 『日本陸軍の傑作兵器駄作兵器』 光人社NF文庫 2003年9月発行)
(令和2年4月2日 追記)
平成26年5月1日
オーストラリア陸軍戦車博物館(オーストラリア・メルボルン)
【対戦車砲牽引車】
観測挺進車(九八式装甲運搬車)
のちに対戦車砲牽引車となった車輛の前身で、九七式軽戦車の車台を応用し、砲塔を廃止してエンジン後部を改修し、装甲運搬車としたもの。
野戦砲兵観測の挺進車に使用するとともに、装甲荷物室を利用して弾薬の運搬と補充を合わせた装軌車輛。
重量:4.05トン(4.7トンの記録もある)
全備重量:5.2トン
全長:3.81メートル
全幅:1.92メートル
全高:1.61メートル
地上高:0.35メートル
エンジン:空冷直列4気筒
最大速度:時速40キロ
乗員:6名
昭和16年に一式機動47ミリ砲が制定された。
通常はトラックで牽引していたが、これを機械化砲兵に転用し、観測挺進車を牽引車として機動を高めた。
重量:4.7トン
エンジン:一〇〇式空冷ディーゼル80馬力
装甲:12ミリ
牽引火砲:一式機動47ミリ砲
(参考:高橋昇 著 『軍用自動車入門』 光人社NF文庫 2000年3月発行)
(令和2年4月5日 追記)
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