第31師団衛生隊


第31師団

主な所属部隊(終戦時)
歩兵第58連隊(編成地=高田) 通称:烈10352部隊)
歩兵第138連隊(編成地=奈良) 通称:烈10353部隊)
歩兵第124連隊(編成地=福岡) 通称:烈8906部隊)
山砲兵第31連隊(編成地=中支) 通称:烈10703部隊)
工兵第31連隊(編成地=華北) 通称:烈10704部)


心の塔



心の塔
(愛知県名古屋市・愛知県護国神社




(平成15年11月28日)

心の塔(銘板)

四大の性はおのづから復る
子のその母を得るがごとし

四大とは地水火風で宇宙を構成するところの四大要素である
それには各独自の性格があって 一切は各自その位に住している
山には雲が悠々閑々たり 水は渓澗を滔々と流れさる がそのしかるを得る所以のものは母すなわち佛の心あるがためである
諸法は いかなる場合でも 葉の分布の根に依るごとく その本に帰らなくてはならぬ
本とは宗であり心である

ビルマでの長い戦いの思い出の中で懐かしく心に浮ぶのは大小様々なパゴダであり信仰篤い人々の温かさである
私達は其の善意■の感謝を罩めてパゴダに模した塔を建立し遥かアラカンの密林に或はビルマの山野に寂しく眠るすべての戦友の御霊を謹んで合祀したのである
至誠殉国の英霊の念いを忘れず 酸鼻を極めた戦争の体験者として 又その遺族として再び斯かる過ちの繰返えされない様 大慈大悲の御佛の心に立ち帰らんことを只管に念じ 茲に心の塔と名付け 平和の一指標たらんとする所以のものである

昭和46年8月8日建立
心の塔建設委員會

※■は判読不可能だった文字です。

行動の概要(銘板)

昭和18年4月16日南支廣東省黄埔に於いて第31師團衛生隊編成なる
拂印 タイ マレーを経て8月16日ラングーンに上陸す
ジュピー山系一帯に展開 満を持しありし我兵團に印度進攻(ウ号作戦)の命下り我が隊は昭和19年2月25日同山麓チャンギーを進発 各々其の突進隊に所属し3月16日チンドウイン河を渡河 連互するアラカンの山嶮を勇躍突破して進撃4月6日敵砦コヒマを攻畧せり
主攻方面イムパールへの増援を企図する英軍をコヒマ附近に邀撃 連日の激闘を重ねる将兵の上に敵の砲爆撃は熾烈を極め昼尚ほ暗き密林も須叟にして裸山と化す
然るに5月に入りてより印度アッサムの山谷は雨期漸く深まり弾薬糧秣共に補給全く杜絶え 奮戦する友軍の間にも次第に悲愴の気立ち罩む 
死守すること実に六旬 彼我の屍を踏み越え突撃を繰返すも敵兵力は逐次増強さるるに反し我は消耗の度を加うるのみ
噫 イムパールは未だ陥落せず 
6月5日遂にコヒマ撤退の命下り飢餓に悩む我等に傷病者後送の任務は重く担架はひしひしとその体力を挫いた
沛然たる豪雨は山径を忽ち濁流と化し 密林に假眠する吾が背の下を流る
延々百粁ウクルルに至るも一握の補給なし
泥濘は深く蹌踉として歩む将兵の足を掬うては轉倒せしめ 更に河川は奔流となって前進を阻む
草を喰らい泥水を啜り眦を決して進むも飢餓と悪疫に殪れる者相亞ぎ死屍累々と横たはりて休息の地を求むるに苦しむ
困憊の果て自爆すあり或は茫然として只雨の天空を睨む 惨澹たる山渓は死臭に満ちて目を蔽わしむ
8月10日シツタンに集結 軍の撤退援護のため背水の陣を布く
砲爆撃を以て急迫する敵攻勢をよく支え8月30日チンドウィン河を渡河イェウを経てサガインに到着す
昭和20年1月17日イラワジ河畔の会戦並にメークテーラの会戦に参加しビルマ中原に於いて軍の命運を賭して奮戦すること三ヶ月餘 敵を包囲して一挙に殲滅せんと企図するも空軍力 機動力の劣勢は戦勢の優位を保持し得ず却って腹背に攻撃を受くに及んでシャン高原に轉進の止むなきに至る
カローモチバプンを踏破して5月30日ナチジャンに到着サルウィン河防衛作戦に参加中終戦となる

第31師団衛生隊(烈10708部隊)編成表(銘板より抜粋)

本部(板谷部隊)
行李班
衛生部(上浦部隊)
第1中隊(森隊)
第2中隊(福田隊)
第3中隊(福井隊)
車輌中隊(小峯隊)

編成人員 699名
戦死者 159名
戦病死 300名


衛生隊

衛生隊は、作戦行動でもない限り、負傷者が出なければ開店休業の状態でやることがない。
師団隷下部隊の隊付軍医が病気になったとか、軍医の配属のない中隊以下の部隊が、本隊から離れて任務を持つ場合などに、臨時に派遣または配属されることが多かった。
つまり、師団の軍医の予備、補給の部隊でもあったわけである。

名称は、○○師団衛生隊と呼ばれたが、丙編成と呼ばれた警備や保安を任務とする師団などでは、衛生隊を全く欠くことがあった。
そのような師団では、作戦に出動する場合、患者収容隊と呼ぶ衛生隊に準じる部隊が、臨時に編成されたようである。

参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」

(平成17年7月24日追記)


インパール作戦

インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦でビルマ全土を占領した後、更にビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦で、第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)が3個師団をもって、インパール平原に拠る英軍第4軍団(軍団長:スクーンズ中将)の3個師団を攻撃するというもの。
日本軍は主力の第33師団(弓兵団)が南からインパールに迫り、第15師団(祭兵団)が東からインパールを衝き、第31師団(烈兵団)が長駆ウクルル山中を突破してコヒマに進出し、英軍の退路を断つという大胆な構想だった。
作戦は昭和19年(1944年)3月8日に開始された。
第31師団(烈兵団)は3月15日、ホマリン、タマンティ間でチンドウィンを渡河。
作戦はほぼ計画通りに進み、各兵団はインパール平原の外廓線には辿り着いたが、そこで英印軍の集中砲火を浴びて立ち往生してしまい、各兵団長は作戦の遂行に疑義を持つ。
これに対し、牟田口司令官は各兵団長を次々に解任し、作戦を強行しようとした。
(第31師団長・佐藤幸徳中将は7月5日解任)
佐藤師団長は、牟田口司令官の補給軽視の作戦指導には従えないとして、作戦中に独断で師団を率いて前線を離脱したため師団長を罷免され、後に予備役に編入された。
7月3日、遂に大本営は作戦の中止を決定。
7月10日、第15軍は戦線整理に入り、逐次撤退を開始。

第15師団の損耗は以下の通り。
参加兵力:約1万6,600名
残存兵力:約5,000名
損耗率:67%
戦死者:3,700名
戦病死者:2,064名
行方不明者:不詳
後送患者:不詳

(参考:丸山静雄著『インパール作戦従軍記〜一新聞記者の回想〜』)

(平成19年8月13日追記)


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