第36師団

(通称号:雪兵団)


戦没者慰霊碑 平成17年6月19日

戦史

雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。
当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、聨合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。
部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。
この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。
時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。
わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面聨合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。
日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる聨合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず、加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。
ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。
山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。
よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。

昭和53年9月2日 謹日

(碑文より)


異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
安らかにお眠り下さい。

(副銘板碑文より)


雪部隊戦没者慰霊碑


雪部隊 戦没者慰霊碑


山形県山形市・国分寺薬師堂(山形県護国神社脇)の敷地内に建っています。



(平成17年6月19日)
国分寺薬師堂



史跡名勝 国分寺薬師堂

(山形県山形市薬師町)




(平成17年6月19日)

出羽國分寺薬師堂縁起

本尊 薬師瑠璃光如来

奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の勅願により、諸国に国分寺と国分尼寺が建立され、古代律令国家による宗教政策の一つとして鎮護国家鎮災致福をを説く仏教を中央集権、仏教興隆の強化のための精神的支柱として造立された。
此の出羽国分寺が、何時の代に此処に移ったかは不明でありますが、桃山時代の最上山形城卜絵図にも明記されており、江戸時代の文献にも聖武帝勅願国分寺薬師堂、書かれておる。
別当護国山柏山寺に残る文献の信頼する由来書に依って明記しますと、

  1. 天平時代(奈良時代)聖武天皇の勅命により、行基菩薩が開山の後、鎮守府将軍大野東人が七堂伽藍を造営し、公■一萬畝歩を寺領として献じた。
  2. 貞観年間(平安時代前期)慈覚田大師が当地を訪れた時中興し、それより天台宗となった。
  3. 康平6年(1063)前九年の役後、源頼義が堂塔を再興し、その後鎮守府将軍藤原秀衡が再興し、更に建久年間(鎌倉時代前期)鎌倉二位禅尼の命により、大江広元が堂塔を修補した。
  4. 最上家の先祖、斯波兼頼が出羽国按察使将軍として山形に入部し、延文5年(1360)金堂塔をを造営した。
  5. 戦国時代の山形城主最上義光が、その衰退荒廃を深く歎き、天正2年(1574)寺領320石を寄進し、堂宇を建築し、山形城の鬼門擁護の霊場と定められた。

最上家改易後、其の寺領は、徳川幕府から御朱印で安堵され23の末寺をもつ上野寛永寺の直末とし、地方の天台宗の触頭(中本寺)として栄え、安政2年江戸で発行された(東講商人鑑)と言う本には、羽州村山郡山形国分寺図と題し、当処の光景を挿画として載せられています。
現在の金堂は、明治44年5月8日の市北大火により類焼し、鳥有に帰したるを以て、その翌年■と真言宗の触頭であった地蔵町(現在東原町)の宝幢寺本堂を移し建てたのであり、また県会議事堂の出来る前は、この金堂で第1回目の県会が開会された御堂です。

年中行事
修正会 1月1日〜3日迄 薬師護摩修法
花まつり薬師祭 5月8日〜10日迄
大護摩祈祷 毎月8日 午前9時

出羽國分寺薬師堂 別当護國山 柏山寺
第五十一世 冨樫晃全

(説明板より)


主な隷下部隊

歩兵第222連隊(雪3523部隊=弘前)
歩兵第223連隊(雪3524部隊=青森)
歩兵第224連隊(雪3525部隊=秋田)
山砲兵第36連隊(=弘前)
工兵第36連隊(=盛岡)
輜重兵第36連隊(=弘前)


【師団海上輸送隊】

ビアク島方面に作戦した第36師団は大発70隻を持つ師団海上輸送隊が編入されており、歩兵1個連隊を同時に海上機動できる編成であった。
だが、実戦では大発の支給が間に合わず、海上輸送隊は戦闘に間に合わなかったと伝えられている。

(参考:松原茂生・遠藤昭共著 『陸軍船舶戦争』 平成8年 戦誌刊行会発行)

(平成23年9月29日追記)


西部ニューギニア戦

昭和18年10月、師団は中国戦線での任務を解かれ、戦局が悪化した南方戦線へ配置換えとなる。
「雪部隊」は、南京で部隊の改正を終え、南方への船便を待つため上海に向かう。
大本営陸軍部が師団に与えた任務は「絶対国防圏」を死守すること。
そのために航空基地および補給基地の建設と用地確保の任務を負わされた。
昭和18年12月末、師団は西部ニューギニアの日本の本拠地・サルミに上陸。
(歩兵第224連隊は昭和19年1月15日到着)

昭和19年4月21日、米軍がホーランジアとアイタペを急襲、翌22日に上陸。
ホーランジアの第4航空軍・第6飛行師団(師団長:稲田正純少将)は、ほとんどの飛行機を失い、残存飛行機に乗れるだけの操縦員を乗せてハルマヘラ方面へ後退。
残された飛行場設営隊(第18軍の残存部隊)などの非戦闘員の後方部隊(約12,000名)は、「雪部隊」のいる西方のサルミ方面へ向かって後退する。

4月21日の夜明けとともにサルミでも米機動部隊の猛烈な艦砲射撃と艦載機200機以上による3時間半にも及ぶ執拗な空襲を受ける。

4月24日、ミンダナオ島ダバオに司令部を置く第2方面軍(司令官:阿南惟幾これちか大将)は、「雪部隊」から、歩兵2個大隊と砲兵1個大隊を中心とする部隊を、ホーランジアへ派遣することを決意し、準備命令を発する。
これらの部隊を西部ニューギニア担当の第2軍(司令官:豊嶋房太郎大将)から東部ニューギニア担当の第18軍(司令官:安達二十三中将)の指揮下に入れて、ホーランジアの確保を命じたのである。
命じられたのは歩兵第224連隊(松山連隊)である。
制海権、制空権を奪われた海上を船艇で移動し、ホーランジアの防備堅固な敵の陣地に逆上陸せよとの命令である。
これは当時の現地の状況からすれば自殺行為に等しく、阿南第2方面軍司令官が敵情判断を誤った現実無視の作戦である。
そのため、師団司令部は命令が「非」なることに、条理を尽くして悲痛な作戦再考の意見具申をした。
「雪部隊」がホーランジアへ出撃するに対しては、大本営と南方軍の中にも反対意見が持ち上がった。
そこで、寺内南方軍総司令官が、「雪部隊」としての本隊の派遣は中止するが、「松山支隊だけは既発令でよろしい」と、第2方面軍の阿南の顔を立てて、足して二で割るような曖昧な裁断を下した。

昭和19年5月8日、歩兵第224連隊(松山連隊)はホーランジアに向け出発。
5月17日、ワクデ、トム、サルミ、マッフィンなど「雪部隊」が守る全域に猛烈な艦砲射撃を加え、米軍が上陸。
「松山連隊」はホーランジアへ向かう前進を急きょ中止し、「トム」に根拠地を築きつつある敵の水際せん滅を図る。

昭和19年6月ごろからマラリアに罹患する兵士が爆発的に増えていった。

6月20日、米第6師団が日本の歩兵第224・223連隊が主力の「雪部隊」が守る「入江山」と師団司令部のある「作戦山」への攻撃を開始する。
6月25日、師団長は、攻撃力の限界を感じ、反撃を断念し、第一線を「入江山」から「作戦山」西方のモラルテレン山まで後退させ、「健軍山」に陣を構える。
7月から、師団は攻勢をやめ、守勢と防御に徹することに決定。

8月20日、西部ニューギニア戦における天王山となったビアク島が陥落した。
島を守備していた「雪部隊」のビアク支隊(歩兵第222連隊中心)の1万3千余人(海軍の飛行場設営隊を含む)は、1万人以上が戦死および戦病死し、終戦時の生存者は、敵の捕虜となった者も含めて520名のみ。

その後、「雪部隊」の全兵力の8割から9割がマラリアの患者となり、部隊としての機能はほとんど失われた。

8月から「雪部隊」と上級司令部である第2軍司令部との電信が途絶える。
第2軍はその後、西部ニューギニアのマノクワリから転々と司令部を移し、やがてニューギニアを去って、終戦まで連絡が取れなかった。
第2軍司令部は「雪部隊」」を見捨てたのである。

11月ごろになると、戦局はフィリピンへ移って、米軍の姿はほとんど見かけなくなる。
ニューギニアは戦闘の圏外となった。
昭和20年に入り、かつて日本の南洋こ興発という会社が開拓したサルミ港に近い南興農園の一帯を開墾して、本格的な現地自活の生活が始まる。
昭和20年8月17日、終戦の詔勅を受けて、師団長は、その旨を部下将兵全員に示達した。

「雪部隊」の戦没者は、上陸人員16,229名、うち戦死・戦病死者11,751名(玉砕したビアク島の歩兵第222連隊は途中で第2軍直轄となったので数字に含まれず)。

師団長 田上八郎中将
東条英機に疎んじられてニューギニアに左遷されたと言われている。
昭和23年、オーストラリア軍の不時着機操縦士やスパイ容疑の現地人を処刑した責任を負わされ、戦犯としてホーランジアで刑死。57歳。

参謀長 今田新太郎少将
軍人が作戦よりも政治に深入りすることを痛罵した反東条派の一人で、そのため師団長と同様に激戦地に飛ばされたと言われている。

(参考:中田整一著『戦場の聴診器』)

(平成21年12月30日追記)




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