五式戦闘機


【五式戦闘機】

高性能を誇った三式戦闘機「飛燕ひえん」は、エンジンの生産が間に合わなかったため、昭和20年1月段階で工場に機首のない360機の「首なし飛燕」が並んだ。
陸軍は三菱のエンジンを取り付けることで解決を図ったところ、上昇力・旋回能力が大きく向上したので、ただちに制式採用となり「五式1型戦闘機甲」と仮称。
その後、機体の後部を水滴型風防に改造した「1型乙」の生産が進められた。
機体は「首なし飛燕」としてすでにあるため、急速に揃えられて本土防空戦で大いに活躍した。
五式戦闘機には排気タービンを装備した「2型」も試作されたが、生産には至らなかった。
米海軍の艦上戦闘機F6Fと互角に戦える戦闘機だった。

五式戦闘機(キー100−1乙)
製造:川崎
搭乗員:1名
発動機:ハー112−U(空冷式複列星型14気筒・1350hp)
最大速度:580キロ/時・高度6000m)
上昇時間:高度5000mまで6分
上昇限度:11,000m
飛行距離:1400〜2200km
武装:機首に20mm砲×2門、主翼に12.7mm砲×2門、爆弾搭載能力は250kg×2発
生産機数:396機

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月6日 追記)


プロペラと車輪 平成18年11月22日

平馬曹長の愛機・五式戦闘機のプロペラと車輪(東京・靖国神社遊就館)

陸軍曹長 平馬康雄命と愛機五式戦闘機

昭和14年。
平馬曹長は16歳にして陸軍少年飛行兵第9期生として東京陸軍航空学校に入校のため、福井県立福井農林学校を中退、熊谷陸軍飛行学校を経て同18年、南方チモール島(現インドネシア)方面に転戦中胸部を受傷、内地に後送された。
その後、次第に米軍の本土空襲が激化したため、当時第10飛行師団隷下飛行第18戦隊所属の平馬康雄曹長は、傷いまだ癒えぬ身をもって帝都防空の任に当たった。
昭和20年4月7日、来襲した敵B−29爆撃機約90機並びにP−51護衛戦闘機約30機に対し、平馬曹長は五式戦を駆ってこれを迎撃、単機よく敵編隊の真っ只中に突入し、再三に亘り攻撃を敢行した。
ついに衆寡敵せず、埼玉縣南埼玉郡新方村上空において集中砲火を浴び、愛機とともに同村大字大吉(現 埼玉県越谷市東大沢3丁目地内)の水田に激突泥中深く埋没した。
その遺体と機体は、終戦による国軍の解体と戦後の混乱によって人々から忘れ去られようとしていた。
英霊を思う肉親の切なる願いと、かつての戦友が組織する地元少飛会員の熱意が結実し、関係市当局のご理解ご協力のもと陸上自衛隊の全面的支援を得て、昭和47年2月中旬ご遺骨を始め御遺品と機体の一部が発掘収容された。

平成3年10月
少飛会

(説明板より)

五式戦闘機部品



五式戦闘機の部品
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)
被服の一部


平馬曹長の姓名入り被服の一部

27年間の長きにわたって水田の底10メートル付近に眠っていたもの。
昭和47年2月 発掘



(平成18年11月22日)

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