第65旅団

(通称号:夏兵団)


第65旅団戦没者慰霊碑


第65旅団戦没者 慰霊碑
(広島県福山市・備後護国神社

元歩兵第141連隊長 片山憲四朗 謹書


(平成22年5月2日)

第65旅団(通称夏兵団)戦歴

第65旅団は昭和16年8月司令部松山122福山141松江142の歩兵3個連隊旅団工兵通信隊野戦病院の将兵7千3百名福山及広島に於て編成
同年11月13日第14軍隷下に入り宇品出港台湾経由
同17年元旦比島リンガエン湾に上陸米比軍15万の防衛するバタアン半島の敵を攻撃したるもサマット山敵本陣地を前に戦死者多数を出した
軍は兵力を補強再度バタアン半島攻撃4月10日敵は遂に降伏した
同年11月20日第8方面軍の隷下に入りマニラ出港(歩122 歩142は比島に残置)12月3日ラバウルに上陸
18年5月軍は西部ニューブリテン島確保の為旅団をツルブに派遣同年12月米海兵師団はマーカス岬及ツルブ地区に猛烈な爆撃と艦砲射撃で上陸を開始した
旅団は旅団は指揮下に入った歩53及小森支隊と共に善戦したが優勢な敵砲火の前に戦友相次いで斃れ敵を撃滅する事が出来ず軍命令で余儀なくラバウル急援の為人跡未踏のジャングル地帯を雨期の中3ヶ月間5百粁の行軍でマラリア罹病と食糧欠乏の為多数の将兵を失い19年4月ラバウルに集結し終戦の日迄敵上陸に備え陣地構築戦斗訓練中終戦
昭和21年5月16日将兵2千7百8名名古屋に上陸復員
同49年6月遺骨収集を機に帰らざる将兵約5千柱の武勲を称え永遠の供養にと生還者相図りこの地に慰霊碑を建立せり

昭和49年11月3日
第65旅団夏友会

(碑文より)

第65旅団 夏兵団 戦誌

第65旅団7千3百名は昭和16年8月編制
司令部福山 歩122松山 歩141福山 歩142松江 工兵隊 通信隊 野戦病院広島 は11月14日宇品発
台湾で戦闘訓練
17年元旦 比島リンガエン湾上陸
バターン半島でマッカーサー指揮の米比軍十余万と激戦
多数の犠牲者を出しナチブ サマットを攻略
4月10日米比軍遂に降伏
右戦功で賞詞を受ける
ルソン島平定作戦後第8方面軍指揮下に入り 司令部 歩141は12月3日ラバウルに進出
歩122は南洋群島へ 歩142は比島防衛 工兵隊 通信隊 野戦病院は分属
18年5月旅団はツルブに進出
12月米海兵第1師団は猛烈な空爆艦砲射撃のもとに上陸
我軍はマーカス ツルブ 三角山 青桐台 万寿山で玉砕を期し応戦中 1月末ラバウル集結の軍命令に依り約7百キロ 人跡未踏のジャングル 湿地帯を行軍
飢えとマラリアで半数の将兵を失い4月末ラバウル着
敵上陸に備え訓練 陣地構築 現地自活中終戦
21年5月16日 2千7百8名 名古屋上陸復員
比島及ラバウル方面戦没者の武勲を称えここに慰霊碑を建立する

昭和49年11月3日
第65旅団夏友会

(副碑・碑文より)


フィリピン・ルソン島
サマット山

サマット山(Mt.Samat)

山頂には大きな十字架の形の展望台が建っている。
第1次攻略戦の時の第65旅団が進撃した方向から山を見る。



(平成16年5月7日)
マリベレス山

向こうに見えるギザギザの山がマリベレス山(Nt.MARIVERES)。
サマット山山頂から見る。
写真では随分遠くにあるように見えますが、実際にはもっと近くにあるように見える。

昭和17年4月10日に第2次攻略戦で第65旅団がこの山の山頂を占領した。


(平成16年5月7日)

【フィリピン攻略戦の奈良兵団】

フィリピン攻略の主力部隊ともいうべき土橋兵団(第48師団)をビルマ、ジャバ(ジャワ)作戦に転用することになったため、奈良兵団(第65旅団)が、これに代わった。

奈良晃中将が、終戦後に発表された手記があるので、簡単に、その手記の一部をここに載せてみる・・・・

「私のひきいた兵団は、もともとフィリピン攻略後の“治安維持”のために派遣された部隊で、リンガエン湾上陸からマニラ占領まで活躍した土橋兵団と異なって、装備は極めて悪かった。私は大尉時代に、陸軍の留学生として、アメリカの大学に学び、引きつづき少佐時代に交換将校として、フォード・ベニングにいたので、アメリカの事情も知っており、その植民地フィリピンの事情も幾分わかるというので、軍政下の守備を命じられたものと思っていた。ところが、昭和17年1月1日、リンガエン湾に上陸すると、第14軍の林参謀副長がやって来て、米比軍を殲滅したが、一部がバタアン(バターン)半島に遁入したので、これを掃蕩すべし、との軍の命令を伝えた。そこで部隊は炎天下を夜を日についで行軍し1月7日、バタアン半島の北端のデナルピアンに到着したのである。途中、橋は米比軍に破壊されており、難行軍のため部隊はへとへとに疲れていた。そこへ中山作戦参謀がやって来て、ただちに敵を追撃せよという軍の命令を伝えた」

また「山岳戦にはなくてはならぬノコギリやカマもなかった。・・・・また砲は、歩兵砲から野砲合わせて、わずか100門足らずという貧弱さだ。これに対し、敵は600門も重砲や野砲を有していた。元来、大本営は、英軍に比べて米軍が戦闘能力が劣っていると考えていたようである。それは、マレー作戦に優秀な攻城用重火器を送り、フィリッピン作戦は短期間に作戦が終るものとして、重装備の土橋兵団を蘭印作戦に転用したことでもわかる。しかし、米陸軍の戦闘意識や能力が、英軍以上だったことは、ガダルカナルでも十分発揮された。フィリッピンでも、マッカーサー将軍を長とする米比軍は、わが大本営が予想した以上に強力な戦力をもち、バタアン半島、コレヒドール要塞にこもった8万の軍勢は、膨大な兵器弾薬を所有していたのである。大本営は、マッカーサー軍を軽くみ、またバタアン、コレヒドールにこもって、でき得れば本国からの増援軍が来着するまで抵抗しようという敵の作戦を知らなかったのである」

と、当時の正確な戦場状態を述べている。
大本営の机上の判断と、現地の状態がいかに食いちがいのあったかは、ただ比島戦線ばかりに限らず、各戦線で見られたことであるが、このあたりにも、太平洋戦争の多くの敗因が、後日、指摘されているのである。
奈良中将も指摘するように、大本営当局が“英軍に比べて、米軍が戦闘能力、および戦意が劣っていると考えていた”ことも誤りであり、また、敵の兵力にたいする誤算も、バタアン半島作戦を困難に導いた大きな原因であったことは、事実として想起できるところだ。

(参考:寺下辰夫 著 『サンパギタ咲く戦線で』 ドリーム出版 昭和42年3月初版発行)

(令和2年5月18日 追記)


ニューブリテン島・ラバウル

ラバウル (平成21年3月4日)




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