第721海軍航空隊(神雷部隊)


神雷部隊(第721航空隊)

昭和19年8月中旬、第一線部隊を除く内地と台湾の航空隊にて桜花搭乗員の募集を行う。
昭和19年10月1日、応募者の中から200名を選抜し、百里ヶ原ひゃくりがはら(茨城県)にて第721航空隊を編成。
司令:岡村基春もとはる大佐(海兵50期)
     後に、昭和23年(1948年)7月13日、千葉県の茂原付近で鉄道自殺をする。
昭和19年11月7日、神ノ池こうのいけ基地(茨城県)に移転。
昭和19年11月末、4個分隊編制となる。
     攻撃711飛行隊・攻撃708飛行隊(一式陸攻24型丁)
     戦闘306飛行隊・戦闘307飛行隊(零戦)
     桜花隊(桜花
昭和19年12月26日、第一陣(桜花隊第2・第3・第4分隊)が大分基地に進出。
昭和20年1月20日、桜花隊(第2・第3・第4分隊)・攻撃708・711飛行隊・戦闘306・307飛行隊は九州各地に展開。更に戦闘305飛行隊が編入される。第2陣の桜花第1分隊は神ノ池基地に残留。


櫻花の碑



『神雷竜巻 櫻花隊員 練成之地 櫻花』の碑

(茨城県鹿島市・櫻花公園)





(平成15年3月17日)

碑文

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和19年10月1日、祖国日本の荒廃をその一身に背負おうと志願してきた紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成、同年11月7日この神之池に訓練基地の設置を見た。
やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。
云わば神之池は特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

櫻花公園



櫻花公園
海軍航空隊・神之池基地
(茨城県鹿嶋市)





(平成15年3月17日)

現在の鹿島製鉄所の敷地内に、太平洋戦争末期、海軍航空隊神之池基地が設置され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
櫻花公園は、先の大戦の記憶が風化していく中、土地の歴史を記念し、平和を祈る公園として平成5年12月3日開園されました。
園内には俺体壕・櫻花碑があり、壕内には櫻花の復元機を展示しています。

(説明板より)


櫻花の碑



『神雷特別攻撃隊員 別盃之地 櫻花』の碑
(鹿児島県鹿屋市・野里小学校跡地)





(平成19年3月29日)

碑文

神之池基地及びその他の基地より志願して来た特別攻撃隊員は、日本最南端の九州鹿屋の野里村小学校に結集、昭和20年3月21日より同年6月22日まで出撃を継続し散華していった。
神雷部隊の後続は竜巻部隊と呼称、その中には櫻花隊、攻撃隊、爆戦隊があった。
私もこの時海軍報道班員として野里村の百姓屋に住み、隣家にあられた特攻隊育ての親岡村基春司令の謦咳に接し、戦況の推移を具にこの眼に焼きつけたが、連日、紅顔の還ること無き出撃隊員を、血涙で見送った辛い思い出がある。
この若き戦士達の鎮魂を希い全日本人の感激を籠めて撰文と為す。

於世田谷空中庵茶経室 山岡荘八

昭和53年3月吉日
建立者元櫻花隊員 小城久作
             妻 泰子

建碑由来

山岡荘八

建碑者小城久作君は此の鹿屋で特攻隊員として祖国の危機に参加した同志の霊を葬い、今後このような戦争の無い平和国家日本への祈願を籠めて、戦後33年目に漸く私財を投げうって私との約束を果たして呉れた。
この野里村の宿舎は私が海軍報道班員として岡村司令と寝食を共にし度々の空襲にも逢って具に隊員たちの生活を見聞きして来た、思えば切なく懐しい土地である。
本来自分の名前は出さないという小城君の希望であったが彼の純一無雑な心情から発した建碑であるだけに敢えて私は記名するように助言した。
特攻隊訓練の地茨城県の神之池にも建碑する。
くだくだしいことは言わないがこの碑を見て改めて今後の若い人達の何かの心の支となり尊い散華の跡を末長く見守って行って頂けたら小城君としても此の上ない喜びであろう。

(副碑・碑文より)

野里小学校跡



野里小学校跡
(鹿児島県鹿屋市)

昭和31年爆音障害により移転。



(平成19年3月29日)

特攻隊戦没者慰霊碑



特攻隊戦没者慰霊塔
(鹿児島県鹿屋市)





(平成19年3月29日)

特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来

第二次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例がないほど熾烈なものであった。
ときに戦局は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。
即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して企てた“特攻攻撃”である。
ときまさに昭和20年春であった。
そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来82日間の戦闘は苛烈を極め、日々若人達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。
あたら青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げたこれら若人達・・・・・世上ともすれば敗戦のかげにこのような尊い犠牲を忘れがちである。
こんにち、ことの結果はどうであったにしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は称賛されるべきであり、これら若人の至情至純の精神は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後世に誤りなく伝えられなければならない。
その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員(908名)が飛び立って再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和32年10月鹿屋市長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけたところ、市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。
これに基づき、航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、昭和33年3月20日建立したものである。

鹿屋市

(説明板より)


 平成18年11月11日

ジオラマ



ジオラマ
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

神雷部隊沖縄の米艦隊攻撃ジオラマ

昭和16年12月8日、わが国は米国及び英国に対し戦を宣し大東亜戦争に突入した。
緒戦においては、中部太平洋から印度インド洋に亘わたる広大な地域で赫々かくかくたる戦果を挙げたが、連合軍の態勢は次第にわが国に不利に傾き、遂に昭和19年には内南洋うちなんようの要衝ようしょうを占領され、遠からず日本本土での決戦が予想される深刻な事態となった。
当時、わが国は戦争遂行に必要な資源も漸ようやく枯渇こかつしてきたばかりでなく、人材の喪失そうしつによって部隊の練度れんども逐次低下をきたしていたのに反し米軍は航空母艦を基幹とする大機動部隊を擁ようし、上陸作戦用艦艇も益々増強整備されつつあった。
わが海軍は、このような劣勢を挽回するため、通常兵力の増強を図る一方、苦悩の末、一人克く1艦、1船を屠ほふるため、必死の水中、水上、航空各種特攻兵器を採用し、19年8月全海軍航空隊から、その操縦士を極秘裡に募集、同年10月、作戦部隊として第721海軍航空隊を新編した。
本航空隊は、神雷部隊の別称を持ち、桜花機とその懸吊けんちょう母機一式陸上攻撃機、これを掩護えんごする零式艦上戦闘機の各飛行隊の他、これらと連帯して作戦する彗星すいせい艦上爆撃機隊及び地上部隊によって構成され、その作戦の成否は、祖国の命運を左右するものとして期待された。
神雷部隊は、連合艦隊直率じきそつのもと、当初比島方面作戦に使用される予定であったが、機会を失し、後に、西日本防衛のため編成された第5航空艦隊の麾下きかとして、20年3月、九州方面に来襲した敵機動部隊に対し、第1回神雷桜花攻撃を敢行した。
爾後じご沖縄攻防戦から終戦に至るまで爆装ばくそう零戦特攻機と共に神雷桜花攻撃を反復実施し、その凄絶せいぜつな戦法は、米軍将兵を戦慄せんりつさせた。
本ジオラマは、沖縄本島周辺の米艦隊に突入する神雷特別攻撃隊の状況を表現したものであり、祖国の為、又、同胞どうほうの為、一身の犠牲を顧かえりみず、敢然として死地に赴おもむいた。
至純、至高の若者達への鎮魂ちんこんの碑である。

昭和54年3月21日
海軍神雷部隊戦友会

(説明板より)


【第721海軍航空隊】

昭和19年10月1日、「桜花」を主要兵器とする第721海軍航空隊が発足した。
11月、桜花隊は4個分隊編制となる。
各分隊とも、分隊長以下54名の構成。
12月、陸攻隊も強化され、攻撃第708飛行隊(足立次郎少佐・海兵60期)も第721海軍航空隊(神雷部隊)の所属となり、母機隊は、攻撃第711飛行隊(野中五郎少佐・海兵61期)と合わせて2個飛行隊、一式陸攻常用合計54機の陣容になった。

昭和20年3月21日、初出撃は攻撃711飛行隊の一式陸攻18機(うち「桜花」搭載は15機)で、野中隊長以下全員が戦死した。
本来は攻撃第708飛行隊が陸攻隊としていくはずだったが、宇佐に避退中に敵の攻撃を受け、「桜花」には損害はなかったが、母機が傷ついてしまったため、代わりに野中少佐の攻撃第711飛行隊が出ることとなったという。
この初出撃の失敗の最大の原因は母機と護衛にあった。
第721海軍航空隊(721空)には掩護戦闘機隊として、戦闘第306飛行隊、戦闘第307飛行隊の2個飛行隊が配属されていたが、3月21日には、他部隊へも協力を依頼したにもかかわらず、集め得た戦闘機はわずか直接掩護32機、間接掩護23機にすぎなかった。
さらに進撃途中、不調機が続出し、陸攻隊に随伴していった機は直接、間接掩護あわせても30機の少数に減少してしまった。
邀撃にあがってきた敵グラマンは、約50機だったという。
これでは歯が立たないのも無理はなかった。

攻撃711飛行隊の後任隊長は二階堂麓夫少佐(海兵63期)で、第1回の攻撃で大きな犠牲を出したため、5月初旬に2機が出撃したのみ。
一方の攻撃708飛行隊は隊長が八木田喜良大尉(海兵68期)に代わり、攻撃を継続。
5月10日頃、損耗を重ねてきた神雷部隊の兵力を整頓するため、攻撃711飛行隊(K711)は攻撃第708飛行隊(K708)に統合され、同時に、前「K708」隊長の足立少佐が「721空」の飛行長となり、「K711」隊長の二階堂少佐は「721空付」として足立飛行長の補佐となった。

結局、第2回以後の「桜花」攻撃は、主として「K708」を母機隊として計10次にわたって続けられたが、その戦いで散った「桜花」は56機、陸攻は52機に及ぶ。
その大きな犠牲に比べ、戦果は、米軍の発表によれば駆逐艦1隻沈没、5隻損傷の僅少にすぎないとされている。

(参考:雨倉孝之 著 『飛行隊長が語る勝者の条件』 光人社NF文庫 1999年11月発行)

(令和2年5月16日 追記)


司令・海軍大佐 岡村基春

岡村基春は戦闘機の名パイロットで、サーカスの異名をとった2年後輩の源田実の上をゆく達人であったという。
岡村はエリート・パイロットの中のエリート、といわれた神風特別攻撃神雷部隊の指揮官であった。
特攻隊員には出撃まえに酒色に走る者がいたが、神雷部隊はそうしたことに染まらずに身を慎むのがきわだった特徴であった。
岡村は前線から「苦戦だが精神的には決して負けていない」という趣旨の手紙を妹の清子(江草隆繁海軍大佐の妻)に書き送っている。
岡村は敗戦後、海兵同期の渡名喜守定に「おれはこぶし大の小さな原爆をつくり、それを持ってアメリカを攻撃するのだ」と冗談を言っていたが、マッカーサー司令部からの召喚で出身地の高知から上京後、自決した。

(参考:上原光晴 著 『落下傘隊長 堀内海軍大佐の生涯』 光和社 1993年9月発行)

(平成29年4月25日 追記)


海軍少佐 野中五郎

2・26事件で反乱を起こして自決した陸軍歩兵大尉野中四郎の弟。
第一線の雷撃部隊の指揮官。
彼の指揮ぶりは常識からはずれたアウトロー的なもので、一種のヤクザもしくは“ベランメエ”調の乱暴な指揮ぶりとして、海軍部内でも有名だったという。
昭和19年10月1日、神雷部隊・陸攻隊隊長に命ぜられる。
楠正成が用いたという「非理法権天」「南無八幡大菩薩」の大幟のぼりを指揮所にはためかせ、大きな陣太鼓を打ち鳴らして、「搭乗員整列」「訓練開始」などの合図とする。
「桜花」による特攻は、敵艦隊の20キロ手前で「桜花」を切り離す計画になっていたが、迎撃してくる敵戦闘機に親子もろとも撃墜される危険が予想された。
敵迎撃機を振り払うには、陸攻18機に対して、4倍以上の直衛戦闘機(72機以上)が必要だが、それだけの戦闘機が整備されるはずもない。
この無謀にして愚策の作戦に対し、「俺は、たとえ国賊とののしられても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい」と信頼できる部下に語っていたが、総指揮官の宇垣纒中将の「今の状況で桜花を使えないなら、使うときがない」との断固たる命令により、昭和20年3月21日、陸攻18機と直衛戦闘機30機で出撃する。
この時、野中は「湊川だぜ!」の一言を残している。
この九州沖航空戦の結果は、未帰還者野中隊長以下160名、戦果なし。
桜花隊は全滅、母機の陸攻隊もほとんど還らなかった。

(参考:半藤一利著『戦士の遺書』)

(平成19年8月12日追記)


神雷部隊の戦死者

神雷桜花隊の最初の出撃は昭和20年3月21日のこと。
この時に18機の一式陸攻が編隊を組んで初陣をめざしたが、敵機動部隊の猛攻撃を受けて全滅。
160名の尊い命が散った。
この時の教訓を受け、それ以後の桜花出撃は、1機づつバラバラに敵地に向かうゲリラ戦術に切り替えられた。

桜花による特別攻撃隊は、昭和20年3月21日から6月22日まで、計10回が記録されている。
広義での神雷部隊の戦死者総数は829名。
うち、桜花による特別攻撃を担当する神雷桜花部隊の戦死者数は430名。
内訳は、桜花隊55名、陸攻隊365名、戦闘機隊10名となっている。

(参考:『歴史群像 2003年12月号』)

(平成20年2月5日追記)


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