九五式軽戦車


九五式軽戦車(ハ号)

諸兵連合の独立機械化兵団の運用が、作戦当局で構想され、装輪の自動車と行動を共にできる機動性のある戦車が要求された。
時速25kmという鈍足の八九式中戦車では、歩兵直協用には適していても、高速力が要求される機械化部隊の主力戦車としては、不適であることが明白だったのである。
その要求に応えて、昭和8年7月に設計に着手。
昭和9年6月試作車完成、9月運行試験、というスピードで製作された。
昭和10年制式決定。
エンジンは八九式中戦車(乙)に搭載された120馬力空冷ディーゼル・エンジンを採用。
車体後部右側に置かれて、車内からの点検が可能であるのが特徴。
世界各国はガソリン機関を相変わらず採用していたが、日本は将来、酷寒の満州でソ連軍と戦う場合、エンジンの冷却水が凍ってしまうことを心配し、冷却水のいらない空冷式ディーゼルを採用したのである。
主燃料槽(100リットル)の他に補助燃料槽(30リットル)を使用して、そのころとしては、250kmという画期的な機動距離を走破できるようにしてある。
装甲は砲塔も車体も最厚部で12mm。
これは12mmあれば小銃の徹甲弾に耐えられるためである。
戦車砲は九四式37mmだが、砲身が比較的長いので貫徹力があり、300mまで接近すれば4.5cmの厚さの装甲を破ることができた。
後期のものは九八式37mm砲に換装されたが、これは同じ37mmでも砲弾のスピードや貫徹力を良好にするため発射薬の量を増大した砲で、薬莢の部分が長いため薬室も九四式より長くなっていた。
また、九四式4号丙無線機を搭載したことは注目に値する。

乗員 3名
全備重量 7.4トン
全長 4.3m
全幅 2.0m
全高 2.2m
出力 120hp
装甲 6〜12mm
速度 40km/時
登坂能力 2/3
超壕能力 2m
渡渉能力 1m
武装 九四式37mm砲×1(後期のものは九八式37mm砲)
    九七式7.7mm車載重機関銃×2(車体前面と砲塔右側面)

(参考:月刊雑誌『丸』別冊 『日本兵器総集(昭和16年〜20年版)』 昭和52年発行)
(参考:『日本陸軍兵器集』 KKワールドフォトプレス 昭和57年発行)


 平成21年12月6日

アメリカ合衆国・ハワイ・陸軍博物館

JAPANESE LIGHT TANK

OPERATED BY A CREW OF THREE PROTECTED BY ONLY 1/2 INCH
OF ARMOR AND EQUIPPED WITH ONE 37mm GUN AND TWO 7.7mm
MACHINE GUNS,IT WAS POWERED BY A 6-CYLINDER,110H,P.,
AIR-COOLED DIESEL ENGINE WITH A RANGE OF 90-100 MILES AT
SPEEDS UP TO 30 MPH.

説明板

説明板

(ハワイ陸軍博物館)

この戦車は1943年(昭和18年)11月にマキンで捕獲された。


(平成21年12月6日)

 平成21年3月19日

グアム島


 平成21年3月3日

パプアニューギニア独立国・ニューブリテン島ラバウル・ココポ博物館

JAPANESE LIGHT TANK
MODEL 95 (1935)
WEIGHT 7.4 TONNES
CREW 3 MEN
ARMAMENT 1X37mm type 94 Tank gun
        2X7.7mm Machine gun
SPEED 28 m.p.h
Recovered from Varzin Plantation

旅日記参照

(平成21年3月3日)

【貧弱な軽戦車】

昭和10年(1935年)、37ミリ砲搭載、装甲12ミリ、重量6.5トンの九五式軽戦車が仮制定される。
技術本部側は、装甲は7.7ミリの重機関銃に耐えればよいのだから、12ミリ装甲がもっとも効率が良いとしていた。
しかし、4年後ノモンハン事変では、配備されたばかりの九五式軽戦車35両が軽装甲であったため苦戦し、結局、30%が損傷を受け戦線から引き下がった。
この機関銃弾にしか耐えられない九五式軽戦車の生産は8年間も続けられ、生産台数では八九式中戦車の後継である九七式中戦車を越える。
昭和18年(1943年)9月の生産打ち切りまでに約2400両が生産され、日本の各種戦車の中で最大の生産量となった。

(参考:徳田八郎衛 著 『間に合わなかった兵器』 光人社NF文庫 2001年発行)

(平成25年8月25日 追記)


 平成22年9月12日

パラオ共和国・ペリリュー島

【ペリリュー島の戦い】

南洋ペリリュー島の防衛につく第14師団(照兵団・北関東、宇都宮の兵)の九五式軽戦車17輌は、昭和19年、米第1海兵師団に占領された南飛行場奪回のため隊伍を組んで南下した。
それは戦車の砲塔の周囲にロープを巻いて、1輌に2個分隊(=20名)の歩兵が乗れるように工夫し、夜間、滑走路に突入した。
慌てて敗走した米海兵隊を37ミリ戦車砲と車載機銃でなぎ倒した彼らは意気揚々として海岸に出る。
すると突然、7.5センチM20型無反動砲の一斉射撃を被り、ほとんどの戦車が擱座してしまう。
このとき、1輌の軽戦車から紅顔の少年兵が天蓋を開けて飛び降り、日本刀と十四年式拳銃を持って敵に向かったが、自動小銃の掃射を浴びて倒れたという。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍兵器発達史』 光人社NF文庫 1999年発行)

(平成29年2月16日 追記)


【九五式軽戦車】

3人乗りの九五式軽戦車は6.5トンで、九四式37ミリ戦車砲と九七式7.7ミリ車載重機関銃各1門を持ち、120馬力で40キロのスピードを出した。
航続力は250キロ、すなわちディーゼル油を満載すれば、東京から静岡県浜松まで走れるわけである。
そのかわり、大砲は八九式中戦車より小さいもので我慢した。
メーカーは三菱重工・大井工場で、ほかに神戸製鋼や新潟鉄工所も生産に加わった。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍兵器発達史』 光人社NF文庫 1999年発行)

(平成29年2月16日 追記)




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