九七式重爆撃機


 平成21年3月4日

パプアニューギニア独立国・ニューブリテン島ラバウル・東飛行場跡


三菱キー21 九七式重爆撃機

陸軍最初の近代的重爆撃機として開発された。
昭和11年12月に三菱キ―19の名で試作機1号機が完成。
中島キー19との比較審査結果、エンジンをハー6からハー5に換装、胴体を再設計して機体の流線化、爆弾装備の改良、銃座の改良などを行なった増加試作6機がキ―21の名で製作され、翌12年に制式採用された。
昭和13年初頭より本格的に生産に入り、改良を重ねながら昭和19年9月までに、三菱、中島両社で合計2,054機生産された。
(一説には試作2機、増加試作6機、1型431機、2型1,282機、合計1,721機)
日華事変初期から実戦に参加。
高速重武装で、全中国大陸をまたにかけて大活躍した。
太平洋戦争に突入すると、南方攻略作戦の中核として各戦線で活躍したが、昭和18年頃には旧式化し、末期には損害のみ多くなっていった。
太平洋戦争中期以降は、新鋭の百式重爆や四式重爆にその座を譲り、輸送・連絡などに活躍した。

(1型)
発動機はハー5改(950馬力)
甲型=武装は7.7mm機銃×3
乙型=尾部銃と側方銃を追加して、7.7mm機銃×5とした。
     水平尾翼を大型化した。
丙型=外翼の後退角増大、航続力を延長。

(2型)
発動機はハー101(1500馬力)
エンジン換装に伴いナセルが再設計される。
プロペラは2段可変式から定回転式に。
武装は側方銃左右各1挺に増加されて7.7mm機銃×6となる。
その後、水平尾翼の大型化、防弾強化、燃料冷却器追加、潤滑油タンクの大型化、単排気管装備などを実施。
武装も後上方銃座が13mm機銃装備の球形銃座となった。

全幅 22.50m
全長 16.018m
自重 6070kg
発動機 三菱ハー101(離昇出力1500馬力)×2
最大速度 478km/時/4400m
実用上昇限度 10000m
武装 7.7mm機銃×5(機首×1、後下方×1、後側面×2、尾部×1)
    13mm機銃×1(後上方)
    爆弾1,000kg
乗員 7名

(参考:月刊雑誌『丸』別冊 『日本兵器総集(昭和16年〜20年版)』 昭和52年発行)
(参考:『日本陸軍兵器集』 KKワールドフォトプレス 昭和57年発行)


九七式重爆撃機

重爆隊は鈍重で地味ではあるが、遠距離を飛行し、巨大なる爆弾の雨を降らせるのが役目で、航空部隊の主攻撃力である。
しかし、大部隊として集中使用されることが少なく、各個に消耗し、戦局を左右するほどの威力を発揮できなかった。
昭和18年以降は、優勢な敵戦闘機の傘の下では、戦闘機の掩護がなければ行動できなくなってきた。

1機あたりの搭乗員数は、機長兼副操縦、通信兼前方射手、正操縦、機上機関兼射手、後上方射手、側方射手、後下方射手の計7名が定員であった。
操縦はもちろん、航法、爆撃、射撃も、すべて機長の指示によって行動し、編隊長は3機を、中隊長は9機を指揮する。

九七式一型についている850馬力エンジン(ハー5)は、信頼性に乏しく、150時間くらいでオーバーホールを必要とした。
九七式二型は、機体は一型とあまり変わらないが、エンジンが850馬力2基から、1450馬力2基に替わっているので、速度も増したが、それよりも上昇力がうんと違っていた。

この三菱製の空冷エンジンは、当時の傑作で、信頼性が高く、故障も少なかった。
6〜700時間くらいまでは、小点検だけで心配なく使ったことが多かった。
海軍の一式陸攻も、同じエンジンを使用していたので、後に部品を海軍から都合してもらうこともあった。

高性能を上げるために、2段のスーパーチャージャーを備えていたが、1万メートル以上の高空になるとアップアップした。

脚の上げ下ろし一つにしても、今までギッコン、ギッコン、手押しだったのに比べると、切り換えコック一つひねると、スーッと上げ下ろしできた。

(参考:久保義明著 『九七式重爆隊空戦記』 1997年光人社発行・光人NF文庫)


【三菱九七式重爆撃機】 

試作名キ21、制式名九七式重爆撃機は、三菱の仲田、小沢両技師が中島と競作して勝った機体である。
仕様書は昭和10年(1935年)に両社へ内示し、翌年正式に提示した。
陸軍は完全に旧式化した九三式重爆を更新する必要に迫られていた。
この時、三菱、中島両社にキ19の名称で試作をさせていたが、どちらもなかなか判定し難いまま改めて三菱にキ21として試作し直させたのである。

陸軍の当時の仮想敵国はソビエトであったから、キ19の航続距離として最初に要求された値はたった1500kmで、実用的な行動半径は安全を見ても650kmにすぎない。
すなわち、満洲を戦場として、相手を爆撃して引き返すとすぐにまた出撃するスタイルであった。

三菱の設計は主翼をユンカース金属構造を近代的にし、胴体は普通のセミモノコック構造としたものであった。
これに対して中島の設計は松村健一技師がダグラスDC−2を参考にしたものだった。
三菱キ19は形の悪い胴体を持ち、ひたすら乗員の視界と射界を重視したと称した。
中島キ19は、これに対して主翼前縁が直線で、それまでの中島の戦闘機の形態をとり、とくに胴体は極めて美しい。
試験飛行の結果はきわどく、まったくの五分五分の形勢で、陸軍内部も三菱派と中島派に二分したという。
結局、政治的解決となって、昭和12年(1937年)6月に機体は三菱、エンジンは中島ということに内定した。
問題はその後で、醜い三菱キ19はキ21として全く新しい化粧をして現れたのである。
おそらく陸軍担当者の意向かとも思われるが、胴体は中島キ19とそっくりに変わってしまったのである。

キ21が九七式重爆として部隊編成を行なったのは昭和13年末からで、中国戦場における体験では、それまで一時の間に合わせに使っていたフィアットB・R・20より速度、航続距離とも勝り、損害もはるかに少なかった。
それでも後方武装が貧弱で、敵機に追尾されると極めて弱かった。
そこで遠隔操作の尾部機銃を設けたが、射角も狭くて気休め程度であった。
各部を改良し、武装、装甲、防弾を強化したU型は、中国戦線や太平洋戦争初期にはエンジンの信頼性と操縦のよさでなんとか使われた。
九七式重爆のハイライトはシンガポール陥落までで、そのあとはもういけなかった。
昭和18年(1943年)ごろからは敵の主力戦闘機を相手にするようになって、次第に落潮となった。

(参考:佐貫亦男 著 『飛べヒコーキ』 光人社NF文庫 2000年3月発行)

(平成27年7月30日 追記)


【九七式重爆の内部】

出入りは左側面、主翼後方の扉から行なう。
そのすぐ後には下方に窓があり、下方銃をここから出して撃つようになっている。
前方に向うと、まず後上方銃座があり、中央翼をこえて行くと左に正操縦席、右に副操縦席がある。
この二つの席の後には機関係、それに正副操縦以外の戦隊長などの指揮官がいるのだが、座席はなく床に直接座るのである。
機関係は後上方射手を兼任することもあり、自分用の計器はなく、1型では脚の上げ下ろしのレバーを何回も上下するのもその役目であった。
副操縦士の座席は折りたためるようになっており、数段おりて前方に行くと、左側に無線機と無線係の席がある。
さらに少し前方やや右よりの床に爆撃照準器が立っている。
爆撃のときは、副操縦士がここまで来て右手の爆撃操作盤を操作し、照準器を覗きながら正操縦士を誘導して投下のボタンを押す。
爆撃手は副操縦士と兼任である。
その前の透明部には7.7ミリ機銃1挺がついており、空戦のときは無線係の通信手が右手で銃を握り、左手で取っ手を持って透明部を回して射撃する。
ちなみに、大型機にもかかわらず便所はない。
また、海軍とも違い「航法士」というのはいない。

(参考:伊澤保穂 著 『日本陸軍重爆隊』 1982年 現代史出版会・発行 徳間書店・販売)

(平成26年5月8日 追記)




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