九七式中戦車


九七式中戦車 平成18年11月22日再訪問

九七式中戦車



九七式中戦車
(東京都千代田区九段・靖國神社・遊就館)





(平成14年10月24日)

九七式中戦車

日本陸軍の代表的な戦車である。
展示してある戦車は戦車第9連隊に所属し、昭和19(1944)4月、満洲まんしゅうからサイパンに進出し、太平洋の防波堤として米軍の猛攻を迎え撃ったが、7月7日玉砕ぎょくさいした。
日本陸軍の戦車は道路状況の悪い大陸で、歩兵と共に戦い、その前進を妨害する敵の機関銃等を撲滅ぼくめつすることを目的として開発されたもので軽量小型であり、米軍のM4戦車との戦いは苦戦を免れなかった。
戦後、連隊の生存者が私費を投じて発掘し故国に持ち帰り、サイパン島戦歿戦友の慰霊と戦車兵団慰霊顕彰の象徴として昭和50(1975)年8月12日、靖國神社に奉納された。

重量 15.8t
全幅 2.32m
全長 5.50m
全高 2.38m
装甲 前面25mm 側面20mm
乗員 4名
武装 九七式57mm戦車砲 九七式7.7mm車載機関銃2
機関 空冷V型12気筒170馬力
最高速度 38km
行動距離 210km

(説明板より)

九七式中戦車



九七式中戦車
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

九七式中戦車

この戦車は、大東亜戦争における戦車第9連隊第5中隊所属の九七式中戦車である。
同連隊は、昭和19年(1944)4月、満洲よりサイパン島に移駐し、米軍の上陸に当たっては、諸兵団の先頭に立ち、数倍する優勢な敵の猛攻を迎え撃って敢闘したが、同年7月7日全兵団と共に玉砕した。
同連隊所属のある生存者が同島海岸砂中に埋没していたこの戦車を、サイパン島戦歿者並に全戦車兵団戦歿者の慰霊碑の象徴にしようと、現地の有力者ハーマン・R・ゲレロ氏を始め、島民の協力を得て発掘し、祖国に還送。
多くの戦友の奉仕により、昭和50年8月12日靖国神社に奉納、境内に設置以来、戦車保存会々員の奉仕により、保修整備されてきた。
然るに、会員の高齢化に伴う今後の保守の断絶を慮り、靖国神社当局と謀り、同63年7月、大大的に整備工事を行い、同年12月、遊就館ホールに搬入、末永く保存されるよう対処したものである。

昭和63年12月11日
靖国戦車保存会

(説明板より)


【九七式中戦車】

4人乗りの九七式中戦車は、2年前の九五式軽戦車より2倍も重く14トン余もあり、馬力も120馬力から170馬力へと向上している。
だが、速力は遅く、時速38キロだった。
すなわち中戦車は歩兵戦に協力するのが目的で、軽戦車のような高速にものをいわせた偵察を目的としたものではない。

九七式中戦車は、主として三菱重工の東京製作所(大井町)で作られた。

砲は57ミリ戦車砲だが、八九式中戦車につけられた短い九〇式ではなく、やや長い九七式である。
このため弾丸のスピードは350メートル/秒から420メートル/秒と向上、それだけ命中率も良くなり、遠くまで飛ぶようになった。
当時、戦車は現在のように強力なカノン砲を装備することができなかった。
撃ったショックで砲身が後退したとき、砲塔の後ろの壁につっかえてしまうからである。
だから、短い砲から多くの破片となって飛び散る榴弾を、ゆるいスピードで発射し、敵歩兵を殺傷するのが目的だったのである。

戦車1個中隊の編成は、
指揮小隊:九七式中戦車 1輌 (中隊長)
       九五式軽戦車 2輌 (偵察、連絡用)
第1小隊:九七式中戦車 3輌
第2小隊:九七式中戦車 3輌
第3小隊:九七式中戦車 3輌
補給用トラック 数台 (整備班)

すなわち、九七式中戦車は1個中隊に10輌がつき、必要に応じて歩兵連隊や大隊に配属されたり、協力したりする。
戦車中隊の場合、将校や下士官は戦車に乗って戦い、兵士は後続するトラックで燃料の補給やエンジンの整備に当たるのが建前となっていた。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍兵器発達史』 光人社NF文庫 1999年発行)

(平成29年2月17日 追記)


 平成25年12月14日 

静岡県富士宮市・若獅子神社

九七式中戦車諸元(乗員四名)

自重  14.3t  全備重量  15t
全長  5.55m  全幅  2.33m
全高  2.23m  最低部地上高  0.40m
接地長  3.54m  履帯幅  0.33m
発動機  空冷式ディーゼル V12
 出力/回転数 170HP/2000rpm
装甲(mm)  砲塔全面 25  同側面 25
 同後面 25
 車体前面 25  12+16
 同側面 20〜25
 同後面 20  同上面 10
武装  九七式57mm戦車砲 1  弾薬  114発
 九七式7.7mm車載重機 2  弾薬  4,035発
最大速力  時速 38km  航続距離  210km

(説明板より)

帰還戦車の由来

かっての大戦において陸戦の華 少年戦車兵とともに活躍した機甲部隊の主力に九七式中戦車(チハ車)がありました
この戦車はもっとも熾烈をきわめた玉砕の島サイパンにて40余名の少年戦車兵とともに勇戦奮闘 祖国の礎となり戦後30年土中深く無縁をかこっていましたが このたび一有志の悲願がかない この母なる地に還り安置したのであります
無数の弾痕は戦争の激しさを訴え 満身の赤錆はたたかいの空しさを語り 平和の尊さを教えています
ここに若獅子の御霊とともに永く平和の道標として顕彰されんことを希うものであります

昭和50年10月吉日
第3期生 雪堂小野田稔謹書

(側碑・碑文より)


九七式中戦車改(新型砲塔)

 平成26年5月1日

オーストラリア陸軍戦車博物館(オーストラリア・メルボルン)

九七式中戦車改(新型砲塔) 

 日本軍戦車の暗視装置 

 (オーストラリア陸軍戦車博物館)

 (平成26年5月1日) 
Jap Tank Night Sight-Recovered from
Japanese Medium tank,Rabual,New
Guinea 1945.

(説明プレートより)

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