九七式戦闘機


九七式戦闘機 平成20年11月19日

この展示機の経緯

平成8年9月10日、博多湾雁の巣鼻から南東約600メートル、水深3メートルの海底で発見、引き揚げられ、旧陸軍九七式戦闘機と判明した。
引き揚げ後、操縦席内にあった箸箱から搭乗者は、鳥取県淀江町出身の渡辺利廣陸軍少尉とわかった。
渡辺少尉は、沖縄戦への特攻出撃を命じられ、旧満州公主嶺から鹿児島県の知覧飛行場に向かう途中、雁の巣沖に不時着。
その後、同少尉は別の九七式戦闘機により知覧基地から沖縄に特攻出撃、戦死された。
この機体発見後、九州各地の戦争資料を展示する施設から引き取りの希望があったが、かつて東洋一の飛行場があった大刀洗飛行場ゆかりの地、甘木市、旧三輪町(筑前町)、大刀洗町の一市二町で復元、大刀洗平和記念館で保存、展示することとなった。

大刀洗飛行場平和事業推進協議会

九七式戦闘機データ
■乗員/1名
■エンジン/中島 ハー1乙 650HP
■全幅/11.30m
■全長/7.53m
■主翼面積/18.56u
■自重/1,130kg
■最大速度/460km/h
■航続距離/627km
■上昇限度/12,250m
■武装/7.7mm機銃 2挺(固定)

(「大刀洗平和記念館」リーフレットより)

旧日本陸軍九七式戦闘機引揚げの経緯

平成8年9月9日
アイランドシティ外周護岸工事のため、海底を磁気探査していた建設会社の潜水士が、福岡市東区雁の巣鼻の南東600mの博多湾の海底(水深3m)で泥土に埋もれた機体を発見。

平成8年9月10日
福岡市、護岸工事中に発見した建設会社により、引揚げ開始。
午前9:00から
単発機 胴の長さ 約7メートル
主翼片側の長さ 約5メートル
水平尾翼 約2メートル
主翼両側に燃料タンク及び機関銃
銃弾960発、その他飛行機の部品
福岡市東区香椎パークボートに一時保存
機関銃の取外し及び検査(警察署)
銃弾960発の管理(自衛隊)

平成8年9月11日
はし箱、水筒など約20点の遺留品公開

平成8年9月12日
遺族の保管していた日記や、当時の部下の証言から搭乗者判明。
陸軍特攻隊の第105振武隊小隊長
渡辺 利広氏(鳥取県淀江町出身)
「沖縄方面へ出撃するため旧満州(現在・中国東北部)から中継地点である菊池に向かう途中、エンジントラブルで博多湾に不時着、九死に一生を得たもののすぐに鹿児島県の知覧特攻基地から出撃し戦死。」

平成8年9月25日
県に対する 甘木市、三輪町、大刀洗町による引き渡し要望

平成8年10月2日
甘木市、三輪町、大刀洗町へ引渡し決定

平成8年10月3日
1市2町村に対する現地での引渡し後、甘木へ移送。

平成8年10月4日
旧高木中学校に一時保存

平成8年10月5日〜15日
旧高木中学校プールに浸し塩分等の除去

平成8年10月11日
福岡海上保安部から計器類の引渡し

平成8年10月16日
旧高木第1■果場へ移送

平成8年11月25日
戦闘機エンジン部分の解体清掃(修復作業)

平成9年4月15日
大刀洗平和記念館に隣接する保存館着工

平成9年7月7日
大刀洗平和記念館へ戦闘機を移送

平成9年7月25日
保存館竣工

平成9年8月3日
大刀洗平和記念館にて一般公開開始

(展示パネルより)


現在は、平成21年(2009年)10月にオープンした「筑前町大刀洗平和記念館」に移転展示されています。

筑前町大刀洗平和記念館
福岡県筑前町高田2561−1
甘木鉄道大刀洗駅下車


中島九七式戦闘機

九七戦は、試作名称をキー27というが、このキー27の試作が中島に命じられたのは、昭和10年の末で、川崎のキー28、三菱のキー33との競争試作であった。
設計担当者は、主任設計者・小山悌氏以下太田稔氏、糸川英夫氏らの戦闘機設計のベテラン。
設計にあたっては、陸軍戦闘機の伝統である格闘性能に重点が置かれ、重量軽減には、特に苦心が払われている。
このため、胴体を前部と後部にわけ、前部胴体に左右一枚構造とした主翼を取り付け、前部胴体と後部胴体は着脱式とし、ボルトで結合するという新しい方式を生み出した。
この方式はしばしば現代のジェット機にも採用されており、極めて合理的、進歩的な設計であった。
この他、片持式低翼単葉、スマートなカバーに包まれた方持式の脚、水滴風防、スプリット、フラップなど、今までの戦闘機にない新しい試みが各所に取り入れられている。

昭和11年7月、自費でPEという実験機が完成。
同年10月、キー27第1号機が完成し、10月15日に立川飛行場で進空式を行なった。
昭和12年2月、第2号機が完成。(陸軍の審査に提出)
この2号機は、無類の格闘性能を持っており、最大速度ではキー27より優れたキー28、キー33を破り、次期戦闘機に採用された。
昭和12年6月から12月までに10機の増加試作機が作られた後、九十七式戦闘機として採用となった。

初陣は昭和13年3月。
当時、中国に派遣中の戦闘機隊に配属されていた九五式戦闘機に替わって大陸の空にデビューしたが、得意の小回りと頑丈さを生かして、中国空軍のイー15を蹴散らした。
昭和14年夏のノモンハン事件では、4ヶ月間に、わずか120機程度の小兵力でソ連機1,252機を撃墜するという大戦果を挙げた。
昭和16年12月8日、太平洋戦争に突入した時も、なお数の面では日本陸軍の主力戦闘機としての地位を保っていた。

量産型には、風防後部が金属張りの甲型と、前部ガラスの張りとした乙型がある。
中島における生産は、昭和17年12月まで続けられ、その後も立川、満州飛行機で生産。
合計3,386機が完成した。

(参考:月刊雑誌『丸』別冊『日本兵器総集(昭和16年〜20年版)』)




 トップページに戻る   兵器のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送