阿部正弘像 平成22年5月2日

阿部正弘 あべ・まさひろ

文政2年10月16日(1819年12月3日)〜安政4年6月17日(1857年8月6日)

広島県福山市・福山城でお会いしました。


幕末期の老中。
備後福山城主。
天保7年(1836年)、兄の正寧まさやすの隠居にともない相続。
22歳で寺社奉行。
天保14年(1843年)、25歳で老中に抜擢された。
弘化2年(1845年)、老中首座に就任。
弘化・嘉永期には、徳川斉昭島津斉彬らと連携、朝廷に異国船情報を奉上するなど海防策に追われた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航時には米国大統領の親書を受け取り、大名・諸士に諮問。
翌年に日米和親条約を締結して日本を開国に導いた。
また、品川台場の築造や軍艦の注文、長崎海軍伝習所、講武所、蕃書調所の設立などの新政策を実現した。
岩瀬忠震ただなり、大久保忠寛、永井尚志なおむねら多くの優秀な人材を登用した。
安政4年、老中在任のまま急死。
享年39歳。


阿部正弘像


阿部正弘の像
(広島県福山市・福山城

製作者 陶山定人
鋳造者 加藤國夫


(平成22年5月2日)

阿部正弘之像

太平洋の波高く 幕末内外多難の時に際し 老中筆頭として国政を総覧し 近世幕藩体制における鎖国の旧弊を断って日米和親の条約を結び 開国への道を求め 近代国家への扉を叩く
阿部正弘は 福山藩阿部家7代の藩主にして 弱冠25歳で閣老に任じ 爾来十有四年 その開明的な政策を推進し 国政を整え もって国外に対応せり
福山藩主としては 庶民の中に人材を登用し 藩政を改革し 教育に明日の世代の形成を托して藩校誠之館を開き 進んで西欧の学術をも取り入れ その後の福山文化の発展に貢献す
市制60周年の記念すべき年にあたり 銅像建立を発起し 先人の遺徳を偲び 明日への躍進を誓う

昭和53年4月建之
阿部正弘公銅像建立期成同盟会

(碑文より)


【福山城 第7代城主・阿部正弘】
天保7年(1836年)〜安政4年(1857年):20年6ヶ月

阿部正精まさきよの六男。
幼きより俊才のほまれが高く、兄の正寧まさやすの養子となり、封を継いで藩主となる。
天保11年(1840年)には寺社奉行となり、天保の改革の時に幕閣に列する。
天保14年に水野忠邦の後を受けて25歳で老中となり、その後、老中筆頭として国政を総攬している。
嘉永5年(1852年)12月、幕府に功を認められ、1万石の加増を受け、福山藩は11万石になった。
ペリーが浦賀に来て開港を迫り、国内では開国、攘夷が盛んに論じられる中、よく世界の大勢を察し、安政元年(1854年)、ついに開港、日米和親の条約を結ぶ。
しかし、国防が重要であることも考えており、全国の鐘を鋳潰して大砲を造らせ、大船の建造の禁を解き、海防を厳にしている。
藩治では、世界の大勢に通じ、文武の道をきわめ、人材養成の必要を考えて、藩校・誠之館をつくるなど藩治に尽くしている。
国政難局の最高責任者としての心労もあって病を発し、安政4年(1857年)6月、老中を辞してまもなく、39歳の若さで死去した。

(参考:『新版 福山城』 福山市文化財協会発行 2008年第3版)


【阿部正弘の功績】

阿部正弘は、江戸幕府史上有数の、若くして老中首座(定員5人の中での最高位)に昇りつめた人物である。
老中の上に大老というポストがあるが、これは緊急非常の時に置かれるもので、通常は老中首座が将軍代行とも言うべき国のトップである。
その座にわずか27歳で就任した男なのである。

薩摩藩主・島津斉彬は常に藩の枠を飛び越えて、「日本」をいかにして守るべきか考えていた。
だがその名君島津斉彬も、長い間、藩主になれなかった。
父に嫌われていたからである。
この斉彬を積極的にサポートし藩主の座に就かせたのは、阿部正弘であった。
それだけではない。
幕臣としては身分の低い勝海舟を抜擢したのも、長崎海軍伝習所を作ったのも、すべて阿部正弘の功績なのである。

一方、阿部は黒船の来襲を明らかに予期していた。
すでに1840年にアヘン戦争が起こり、1844年にはオランダ国王が幕府、つまり阿部に対して蒸気船の出現によって世界はまったく変わったことを伝えてきた。
そしてアメリカは熱心に開国を求めてくるであろうことは、早くはモリソン号の訪問、そして阿部が老中首座になってからのビッドルの来訪(1846年)でわかっていた。
何より阿部は日本にペリーがやってくる前年の1852年に、ペリー艦隊がアメリカを出航したことも早い段階で把握していた。
そんなに猶予期間があったのに、阿部は何もしなかった。
こんな男のどこが名老中か、むしろ「迷老中」ではないか、というのが大方の反応であろう。
しかし違う。

日本は「日本刀では鋼鉄製の大砲に対抗できない」という理屈をわからない人々が多数派の国である。
だから黒船が実際に目の前に来るまでは幕府は何もしなかった。
いや、できなかった。
もし老中・阿部正弘が事前に何かやろうとしていたら、直ちに反対派に暗殺されるか失脚させられていただろう。
口を酸っぱくして説得しても絶対に受け入れない人々が多数派の国では、実際に黒船が来るまで待つしかないのだ。
「反対派を制止しつつ権力を維持し、来るべき日に備え様々な準備をし、反対派の連中も反対できない状況ができてから、行うべき政策を実行した阿部は名老中だ」ということになるのである。

幕府の中にも「外国人など一人残らず叩き斬ってしまえばいいのだ」という攘夷派がいた。
その代表が御三家水戸家の御老公・徳川斉昭だ。
阿部はこんな頑固な人々をなだめすかしつつ、開国路線を進めなければならなかった。
これは大変なストレスである。
のちに阿部は39歳の若さで病死した。
しかも事前に死期を悟って老中首座の座から降りての死であった。
まるで幽霊のように痩せこけて、癌ではなかったかと言われている。
そして最終的には大老・井伊直弼が開国路線を引き継ぐ。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


阿部正弘公像 平成22年5月2日

広島県福山市・備後護国神社でお会いしました。

阿部正弘公像


阿部正弘公像
(備後護国神社)




(平成22年5月2日)

阿部正弘公石像潜り

正弘公は天保14年(1843年)25歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ、嘉永5年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き江戸と福山に誠之館を建てる。
安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。
また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を昂揚し、日の丸を日本の国旗と制定した人でもあります。
阿部家11代、福山藩主7代目の正弘公は、当神社の御祭神であり、希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石像を潜り希望をかなえて下さい。

(説明板より)




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