平成20年11月17日
文久3年(1863年)〜昭和10年(1935年)3月24日
大分県別府市・JR別府駅前でお会いしました。
子どもたちをあいした ピカピカのおじさん 油屋熊八の像 (大分県別府市・別府駅) (平成20年11月17日) |
あぶらや・くまはち のプロフィール
1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。
小さいときから働きもので有名だった。
30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。
つけられたアダ名が“油屋将軍”。
34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。
臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。
アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
46歳のころ、別府温泉に移り住み、ホテルを経営しはじめた。
それがやがて、世界のお金持ちを迎える一流ホテルに成長する。
アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。
大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、“山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・・・。
当時は誰も思いつかないような奇抜なアイディアをつぎつぎに実行した。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。
“地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。
この人のまわりには、別府観光のためならなんでもしようというオモシロイ人たちがあつまった。
みんな子どもたちが大好きで、『オトギ倶楽部』を結成し、童話や歌や演奏を聞かせた。
クリスマスにはサンタクロースが水上飛行機から下りてきて、子どもたちをびっくりさせたりした。
『オトギ倶楽部』で、あぶらや・くまはちは“ピカピカのおじさん”とよばれていた。
湯布院温泉を観光地として開発したのもこの人だった。
当時描いていた観光プランは別府―湯布院―久住高原―飯田高原―阿蘇―長崎をむすんで道路をつくるという、九州全体を視野に入れたものだった。
1935(昭和10)年、別府市で死去。
73歳だった。
くまはちが抱いた“ここを世界の観光地にしよう”という夢は、いまもこの町のあちこちに生きて息づいている。
(碑文より)
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