会沢正志斎 あいざわ・せいしさい

天明2年5月25日(1782年7月5日)~文久3年7月14日(1863年8月27日)


常陸国水戸藩士・江戸後期の儒学者。
藤田幽谷ゆうこくに儒学を学び、彰考館で『大日本史』の編纂に従事。
23歳で徳川斉昭の侍読となる。
文政7年(1824年)、水戸藩領へのイギリス人船員上陸に遭遇し、対外的危機感を深めた。
翌年、『新論』を著わして国体神学に基づく富国強兵論と民心統合策を体系的に提示。
文政12年(1829年)、藩主の継嗣問題では斉昭擁立派として活躍する。
藩主・斉昭のもとで郡奉行、彰考館総裁を歴任、藩校・弘道館の初代総教(教授頭取)にも就任した。
尊王攘夷思想の体系的提唱者として、幕末の志士に影響を与えた。
安政5年(1858年)の戊午ぼごの密勅をめぐる藩内の対立では、鎮派として尊攘激派の武力弾圧を主張した。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年第1版第1刷発行)





会沢正志斎の墓
(茨城県水戸市千波町2367・本法寺)

贈正四位 彰考館総裁正志斎会沢恒蔵安



(平成25年9月21日)

市指定史跡
会沢正志斎の墓

幕末尊王攘夷論の指導者として、全国の志士から畏敬された。
会沢正志斎(安)先生は1863(文久3)年7月14日、82才で世を去りここに葬られた。
先生は藩の貧しい武士の家に生れたが、10才の頃から藤田幽谷先生の弟子となり、その学問を大成し彰考館総裁に任ぜられて大日本史編集につとめた。
それと共に先生は、当時、日本の内外に迫る危機を憂え大改革の構想を練って「新論」をはじめ多くの書物を著わし弘道館が創立されると、その初代の総教として、多くの英才を教育した。
先生の教えを受けた者は藩内士民ばかりでなく、全国各地の有志におよんで明治維新への運動を展開したが、なかでも、長州の吉田松陰と久留米の真木和泉守はその双璧というべきであろう。

水戸市教育委員会

(説明板より)


【会沢正志斎】

10歳の時に藤田幽谷に師事。
幽谷は観念的な学問を退けて、人間社会に役立つ実学を奨励し、人間社会のあるべき姿を説き、そのために努力することを教えた。
これらの教育内容を正志斎は後に『及門遺範きゅうもんいはん』として書き残している。

寛政4年(1792)、ロシアの使節ラックスマンが根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に注目。
正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる範囲の書物から書き取り、享和元年(1801)に『千島異聞』を完成させた。

寛政11年に彰考館の書写生として出仕。
享和3年(1803)、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。
文政3年に馬廻役となり、水戸に帰ると書斎を欣賞斎と名付けて、子弟を集めて教育した。
文政4年(1821)に、水戸藩諸公子の教育係を命じられた。
その中には後の9代藩主・斉昭もいた。
文政6年(1823)、進物番上座、史館勤務となる。

文政7年(1824)5月、常陸国の大津村(現:北茨城市)にm、英人12名が上陸する事件が起こった。
水戸藩では会沢正志斎と飛田逸民とびたいつみんとを現場に派遣し、取り調べをさせた。
正志斎は万国地図と衣服の色彩を頼りに、彼らの渡航の目的、国籍、言語、渡航の期間などを調べ、『暗夷問答あんいもんどう』という書物を著わした。
この書の結論は途中で終っており、翌年執筆の『新論』に連続しているといわれている。

『新論』は外国勢力の接近にどう対処するか、いわゆる攘夷論がみられると同時に、国内政治の安定策について記したものである。
当初、幕府に遠慮して出版されず、無名氏の執筆として写されて多くの人々に読まれた。
この『新論』が出版されたのは、安政4年(1857)のことである。

文政9年には総裁代役となる。
文政12年(1829)、藩主・斉脩なりのぶが没する直前、将軍・家斉の子、清水恒之丞を継嗣にしようとする門閥派が動きだした。
斉脩の弟・敬三郎(のちの斉昭)を擁立しようとする正志斎は、山野辺義観やまのべよしみ藤田東湖ら同志と江戸へ出て奔走し、斉昭の藩主就任を実現させたが、後に無断で江戸に出た罪で逼塞ひっそくを命じられた。
この逼塞は、30日ほどで赦されて郡奉行こおりぶぎょう(常葉組)となる。
翌年、通事となり、調役となっている。

天保2年(1831)には史館総裁となった。
徳川斉昭は藩校の建設、偕楽園の設計に早くから取り組み、天保9年には『弘道館記』が執筆された。
その文案作成に、正志斎、藤田東湖らも参加している。

天保10年には学校造営掛となり、学校の規模、教育内容を研究して、『学制略説』などを著して、斉昭に呈書した。
翌11年に小姓頭となり、弘道館教授頭取となる。

弘化元年(1844)、斉昭は突如、幕府に呼び出され、藩政上の問題点七か条を指摘されて、謹慎を命じられた。
正志斎ら斉昭を補佐した家臣も共に謹慎を命じられた。

嘉永6年(1853)、ペリーの来航にともない、対外関係は緊迫の度合いを深めていった。
斉昭は正志斎にアメリカ大統領に与える書状およびペリー総督に与える書状を試みに執筆させている。
正志斎はアメリカとの関係は、長崎を窓口として結べばよいと記している。
斉昭の攘夷論が国論統一と、国防充実のための政治方策であったように、正志斎もアメリカとの国交を全面的には否定していない。

文久2年(1862)、一橋慶喜が将軍後見職となると、開国論を主張して、周囲にいた松平慶永、大久保忠寛、板倉勝静らを驚かせた。
このころ正志斎は『時務策』と称する一書を記して慶喜に建白している。
このため、正志斎は尊攘激派から、「老耄ろうもう」(おいぼれ、もうろく)などと批判されたが、将来を見据えてのことだった。
翌文久3年7月、水戸で没した。

(参考:『水戸の先人たち』 水戸市教育委員会 平成22年3月発行)




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