明智光秀像 平成17年4月9日

明智光秀 あけち・みつひで

?~天正10年6月13日(1582年7月2日)

滋賀県大津市・坂本城跡でお会いしました。


朝倉義景に仕えていた永禄11年(1568)、足利義昭の織田信長上洛依頼に参画。
上洛が実現したあと、京都支配に政治力を発揮し、足利義昭に属しながら織田信長に仕えた。
信長軍として各地を転戦。
元亀2年(1571)近江国坂本城主となる。
天正3年(1575)信長の丹波攻略の先鋒となる。
天正7年(1579)平定後、丹波一国支配を認められる。
天正10年(1582)信長が中国赴援に向かった折に、京都の宿所である本能寺を襲撃し、戻って近江・美濃を支配下に置いた。(本能寺の変)
しかし、豊臣秀吉の反撃を受け、山崎の戦いで敗れ、山城国小栗栖おぐるす(現:京都市伏見区)で自刃した。
娘の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。


明智光秀像



明智光秀像

(北大津湖岸緑地=坂本城跡)




(平成17年4月9日)

明智光秀

われならで誰かは植えむ
一つ松心して吹け
志賀の浦風
光秀

明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。
永禄10年(1567)40歳ごろ織田信長の家臣となる。
元亀2年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。
以後およそ10年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。
光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。

平成7年3月吉日
下阪本学区まちづくり推進協議会

(副碑より)

業績

明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたるこの地に、元亀3年坂本城を築いた。
この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。
ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正5年ごろから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。
さらに同7年ころ横山城を攻めたあと、城の大改造をを行ない明智にちなんで福智山となづけ後に福知山城となった。
いまも福知山踊りには、光秀を偲ぶ歌がうたわれている。

(副碑より)




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