秋山真之像 平成19年11月8日

秋山真之 あきやま・さねゆき

慶応4年3月20日(1868年4月12日)〜大正7年(1918年)2月4日

愛媛県松山市・『秋山兄弟生誕地』でお会いしました。


愛媛県出身。
明治23年(1890年)海軍兵学校卒。
日清戦争に砲艦「筑紫」の航海士として参加し、戦後アメリカに留学して米西戦争を観戦。
米・英駐在の3年間に海軍の戦略・戦術・戦務の三概念を具体化し、帰国後、海軍大学校教官となり普及させた。
日露戦争では連合艦隊作戦参謀として活躍。
大正3年(1914)海軍省軍務局長となり、第一次大戦で艦隊の地中海派遣を推進した。
中将で没す。


秋山真之中将像



弟 秋山眞之中将像
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)





(平成19年11月8日)

弟・秋山眞之あきやまさねゆき(1868〜1918)

この胸像は、海上自衛隊幹部学校(東京都)に安置されている「秋山中将像」を同校および秋山家子孫のご了解を得て複製したものである。
原型は大正14年、眞之の海軍大学校の教え子が醵金きょきんして作った。
眞之は、久敬の五男。
松山中学の親友正岡子規の跡を追って東京大学予備門に進学したが後に海軍兵学校に入学。
主席を通して卒業後、主として米国に留学。
海軍大学校教官を経て、日露戦争において連合艦隊先任参謀となり、日本海海戦で大勝をおさめ、「天気晴朗てんきせいろうなれども波高なみたかし」の名文とともにその名を残した。
大正3年シーメンス事件露顕、海軍の危機。
眞之は軍務局長を命ぜられ処理に当たるが粛正の対象者の恨みを買うことにもなる。
間もなく第一次世界大戦が起こり、参戦決断の衝しょうに当る。
他方中国では大正元年清朝しんちょうが倒れた後の混乱が続いていた。
眞之は中国革命の父、孫文そんぶんを助けてその軍資金調達に奔走したが、志ならず軍務局長を罷免ひめんされた。
間もなく大正6年12月中将に昇進と同時に待命たいめいとなったが、折々「米国とはコトを構えてはいかん。大変なことになる」ともらしていた。
米国を仮想敵国とした建艦競争の行末を案じたものである。
大正7年2月、急逝きゅうせい
年齢いまだ49年11ヶ月。

(説明板より)

秋山兄弟生家



秋山兄弟生家(復元)
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)





(平成19年11月8日)

秋山兄弟生家

秋山兄弟(兄・好古よしふる、弟・眞之さねゆき)はこの地で生まれ、育った。
父・久敬ひさたかは松山藩士徒目付かちめつけで、江戸時代からここに居を構えていた。
当初は藁わら屋根で僅わずか数室という典型的な下級武士の家で、その質素な家から日露戦争で救国の働きをした秋山兄弟が育ったことは、感慨深いものがある。
兄・好古は大正13年から昭和5年まで、生家を増改築して住み、没後は有志により手厚く保存されていたが昭和20年、米軍の爆撃で焼失した。
このたび、生家の復元に際しては秋山家子孫、秋山兄弟伝記、好古友人の記録等を参考にし、また、関係法規も順守しながら、できるだけ生家の原型に近い形で建築した。
家の位置は、兄弟の銅像設置のため当初よりは北側に寄せた。
この秋山兄弟生誕地の整備は、全国から延1万人の個人・有力企業をはじめ、松山中学・松山東高同窓会、北豫中学・城北高女・松山北高同窓会、愛媛友愛会、連合愛媛等の諸団体から賜たまわった募金で賄まかなわれた。
ご協力いただいた全ての方に感謝の意を表し、ここに記す。

平成16年11月吉日
財団法人 常盤同郷会

(説明板より)

秋山兄弟産湯の井戸

秋山兄弟産湯の井戸
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)

井戸の位置は、江戸時代からこの場所にあり、産湯や家事に使われました。
現在も散水用に利用されています。
(説明板より)


(平成19年11月8日)
秋山両将遺邸之碑


秋山両将遺邸之碑
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)

陸軍大将 南次郎 書




(平成19年11月8日)

秋山両将遺邸之碑

陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功三級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵■然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北豫中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ舘■ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投シテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳■ヲ傳ヘントス而シテ■保護管理ハ擧テ松山同郷會ニ託シタリ同會ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曽テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ■テ同會ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ會舘ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトトセリ■シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目■アリ復タ■説ヲ要セザルナリ

昭和十二年七月
秋山両将遺邸保存會 井上要撰并書

(碑文より)

碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

碑に記載された人物
久松定謨:旧松山藩主久松家の当主、フランスに好古をともない留学。常盤同郷会を創設し、青少年の教育に尽した。
山下亀三郎:眞之を信奉した山下汽船創業者(吉田町出身)
新田長次郎:好古と親交があり「新田ベルト」他の創業し、好古と北海道で馬匹改良に尽した(松山市出身)

(説明板より)

秋山兄弟生誕地



秋山兄弟生誕地

(愛媛県松山市歩行町2−3−6)





(平成19年11月8日)
秋山兄弟生誕地



秋山兄弟生誕地

(愛媛県松山市歩行町2−3−6)





(平成19年11月8日)

◎開館時間:午前10時〜午後5時
◎休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)・年末年始(12/28〜1/3)
◎入館料:大人200円、高校生以下無料


【秋山家】

父・秋山久敬ひさたか
旧松山藩時代は徒行かち目付として信望が厚かった。
明治維新後は県の学務課に勤める。
「親が偉くなりすぎると、子供が偉くならない」が口癖。
母・秋山 貞さだ
松山藩士の娘で、秋山久敬に嫁ぐ。
真之が幼少の頃、ご法度の花火遊びをして警察に検挙された時、自分も死ぬからと、短刀を突きつけて叱った。
長女・種たね
早世。
長男・則久のりひさ
漢学の造詣が深かったが、壮年時代に病を得て廃嫡となる。
次男・正矣まさなり
おか家に養子に入る。
日本鉄道会社勤務などを経て、朝鮮京城けいじょう電気株式会社の重役となった。
三男・好古よしふる
好古の妻・多美たみ
好古が少尉時代に離れを借りていた旧旗本・佐久間家の娘。
非婚主義者の好古だが、母の懇願に負けて結婚。
(好古35歳、多美24歳)
四男・道一みちかず
西原家に養子に入る。
実業家を志し、横浜で貿易商を営むが、日露戦争の前年、事業が大成することなく没した。
五男・真之さねゆき
真之の妻・季子すえこ
宮内省御用掛ごようがかり、稲生真履いのうまふみの三女。
真之が海軍兵学校の教官時代、海軍大佐・八代六郎の仲介で結婚。
(真之36歳、季子21歳)

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月12日追記)


履歴
  松山中学・開成中学・大学予備門中退  
明治19年10月 海軍兵学校入学(17期) 14番で入学

海軍兵学校長
松村淳蔵少将
(明18.12.28〜明20.9.28)
明治23年7月 海軍兵学校卒業 首席(1番)で卒業

海軍兵学校長(代理)
吉島辰寧大佐
(明23.5.18〜明23.9.24)
明治25年5月 少尉  
明治26年6月 イギリス出張(軍艦「吉野」を回航)  
明治27年4月 「筑紫」航海士  
明治28年7月 「和泉」航海士  
明治28年11月 「大島」航海士  
明治29年1月

明治29年5月
水雷術練習所学生  
明治29年5月 横須賀水雷団付  
明治29年7月 「八重山」分隊長心得  
明治29年10月 大尉  
明治29年11月 軍令部諜報課員 軍令部長
伊東祐亨中将
(明28.5.11〜明38.12.20)
明治30年6月 アメリカ留学仰付  
明治31年6月 米西戦争観戦  
明治32年4月 アメリカ駐在  
明治33年5月 帰朝  
明治33年8月 軍務局第1課課員 軍務局長
斉藤実少将(6期)
(明33.5.20〜明33.10.25)

軍務局第1課長
加藤友三郎大佐(7期)
(明33.5.20〜明35.6.11)
明治33年10月 常備艦隊参謀 常備艦隊司令長官
東郷平八郎中将
(明33.5.20〜明34.10.1)
角田秀松中将
(明34.10.1〜明35.7.26)

常備艦隊参謀長
島村速雄大佐(7期)
(明33.7.3〜明33.12.6)
伊地知彦次郎大佐(7期)
(明33.12.6〜明35.6.11)
加藤友三郎大佐(7期)
(明35.6.11〜明36.10.27) 
明治34年10月 少佐
明治35年7月 海軍大学校教官 海軍大学校長
坂本俊篤少将(6期)
(明35.5.27〜明37.2.3)
明治36年10月 常備艦隊参謀 常備艦隊司令長官
日高壮之丞中将
(明35.7.26〜明36.10.19)
東郷平八郎中将
(明36.10.19〜明36.12.28)

常備艦隊参謀長
加藤友三郎大佐(7期)
(明35.6.11〜明36.10.27)
島村速雄大佐(7期)
(明36.10.27〜明36.12.28)
明治36年12月 第1艦隊兼連合艦隊参謀 第1艦隊司令長官
東郷平八郎中将
(明36.12.28〜明38.6.14)

第1艦隊参謀長
島村速雄大佐(7期)
(明36.12.28〜明38.1.12)
加藤友三郎少将(7期)
(明38.1.12〜明38.6.14)
明治37年9月 中佐
明治38年6月 連合艦隊参謀 連合艦隊司令長官(第1艦隊司令長官兼務)
東郷平八郎中将
(明38.6.14〜明38.12.20)

連合艦隊参謀長(第1艦隊参謀長兼務)
加藤友三郎少将(7期)
(明38.6.14〜明38.12.20)
明治38年11月 海軍大学校教官 海軍大学校長
坂本俊篤少将(6期)
(明38.11.2〜明41.8.28)
明治41年2月 「三笠」副長  
明治41年8月 「秋津洲」艦長  
明治41年9月 大佐  
明治41年12月 「音羽」艦長  
明治42年11月 待命  
明治42年12月 「橋立」艦長  
明治43年4月 「出雲」艦長  
明治43年12月 「伊吹」艦長  
明治44年3月 第1艦隊参謀長 参謀長前任
野間口兼雄少将(13)
(明42.12.1〜明44.3.11)
参謀長後任
竹下勇大佐(15)
(大1.12.1〜大2.5.24)

第1艦隊司令長官
上村彦之丞中将(4期)
(明42.12.1〜明44.12.1)
出羽重遠中将(5期)
(明44.12.1〜大2.12.1)
大正元年12月 軍令部参謀(第1班首席参謀)
兼海軍大学校教官
第1班首席参謀前任
有馬良橘少将(12期)
(明42.12.1〜大1.12.1)
第1班首席参謀後任
佐藤鉄太郎(14期)
(大3.4.17〜大4.8.10)

海軍大学校長
八代六郎中将(8期)
(明44.12.1〜大2.9.25)
吉松茂太郎中将(7期)
(大2.9.25〜大2.12.1)
山屋他人中将(12期)
(大2.12.1〜大3.8.22) 
大正2年12月 少将
大正3年4月 軍務局長 前任
野間口兼雄少将(13期)
(大2.1.10〜大3.4.17)
後任
鈴木貫太郎(14期)
(大5.2.21〜大5.6.23)
大正5年2月 軍令部出仕(欧米出張)  
大正5年10月 帰朝  
大正5年12月 第2水雷戦隊司令官  
大正6年7月 将官会議議員  
大正6年12月 中将・待命  
大正7年2月 死去  

湖月会

明治36年5月17日、東京新橋烏森の湖月楼の土蔵で初会合を開いた、日露戦争開戦を推進する外務省、陸軍、海軍の有志の会。
明治37年2月開戦までに自然消滅。

外務省 石井菊次郎(電信課長)※
落合謙太郎(書記官)
坂田重次郎(書記官)
本多熊太郎(秘書官)
松井慶四郎(書記官)※
山座円次郎(政務局長)
海軍 秋山真之中佐(海軍大学校教官)
上泉徳弥中佐(軍令部副官)
財部彪少佐(軍令部第2局員)※
富岡定恭少将(軍令部第1局長)
松井健吉大尉
八代六郎大佐(海軍大学校学生)
山下源太郎(軍令部)
陸軍 井口省吾少将(参謀本部総務部長)
木下宇三郎少佐(参謀本部第1部)
田中義一少佐(参謀本部第1部)
西川寅次郎少佐(参謀本部第3部)※
福島安正少将(参謀本部第2部長)
福田雅太郎少佐(参謀本部総務部)
堀内文次郎少佐(参謀本部副官)
松川敏胤大佐(参謀本部第1部長)※

※印は文献によって異同のある者。
メンバーには諸説あり、途中から参加した者もいる。

(参考:東京大学出版会『日本陸海軍総合辞典』)


【秋山真之】

秋山真之は明治30年、大尉でアメリカに留学され、米西戦争(1898年)に参加された。
アメリカの指揮官はサムソン提督で、旗艦は「ニューヨーク」、艦長はチャードウィック大佐。
サムソン提督はサンチャゴの封鎖をやり、後で上陸軍の指揮官をやった。
秋山少佐がアメリカから帰って提出した報告が大したものでした。
それに兵棋演習のやり方、地図を四角な枠に分割した地点図、それにロジスチックス(戦務)というようなものを持って来られた。
戦務を学問として体系づけられたのは秋山真之である。

日露戦争がすんでから、再び海軍大学校の教官をされましたが、「自分はこの戦争で国に奉仕したのは戦略・戦術ではなく、ロジスチックスであった」と言われていた。
命令の書き方であるとか、部隊の編制であるとか、そういう筋で奉公したのだと言われていた。

海軍大学校の講義では、ジョミニあり、クラゼヴィッツ、孫子などが口をついて出てくる。
特に川中島の戦史に詳しく、「車懸りの戦法」とはこういうものだと、詳しく説明しておられた。

のべつに頭が回転している。
連合艦隊解散の辞は世界の名文。
あれはいっぺんで、殴り書きしたと清河純一参謀が言っているのです。
のべつに考えて、甲板を歩きながら文章を作っているのでしょう。
ちょっと筆をとるとああいう名文が生れてくる。
普通の人と違った頭でした。

秋山将軍は私(山梨勝之進)らの兵学の教官でしたが、「よく戦は先にはじめ、先制の手を打った方が得だといわれるが、これは相手が凡将の場合で、相手が名将のときは受け身の方が得だ」ということを言っておられました。
とにかく「相手が弱いときは先制の方が得だが、相手が強いときは、先制は危ない」と、こういうことを言われたのです。

(参考:山梨勝之進 著 『歴史と名将〜戦史に見るリーダーシップの条件〜』 毎日新聞社 昭和57年2月第9刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


【戦争不滅論】

秋山真之の「戦争不滅論」は10頁程度の簡単な記述で、石原莞爾の「世界最終戦論」にみられるような細部事項の分析はなく、人間の生き物としての一面を凝視し、生物の本能といった根源的な問題に着眼しています。

「世界の列國は其存立の爲め常に其國利國権を保護すると同時に之を伸張せんとするが故に其意志衝突抵触に依り遂に抗争せざる可ざるに至り、理非を平和的手段に依り決する能はざるときは遂に戦争なる威力手段に訴えざる可ざるに至は人類の生存競争より来るべき自然の趨勢にして決して避く可らざることなり」と説き、また「分合は事物の眞理にして合すれば分れ分るれば合うふものなるは人事も物理に洩るゝことなく、周天下を統一すれば春秋戰國に分れ、秦之を統一して更に、漢楚となり、漢天下を定むれば更に三國を生ずるが如き分合離結の現象は過去の歴史に之を見る如く将来にも亦是あるものと覚悟せざる可ざる」として、「たとえ世界が統一されようともその中で内乱が起こればそれは戦争ではないか」ということを暗示しています。

「戦争不滅論」を皮相的にとらえる人は、秋山真之があたかも戦争を謳歌する軍国主義者であったかのように考えがちですが、決してそうでなかったことを「戦争不滅論」の最後の言葉が示しています。
「古哲曰く國大なりと雖も戰ひを好む者は危し、國安しと雖も戰を忘る者は亡ぶ、實に至言にして彼の戰争を嫌悪して人為的に之を絶無ならしめんとして却って之に倍する惨害に陥るべきを覚えざる徒と、又彼の必要以外濫みだりに腕力を労してそのあまち得たる處失う處を償はざるが如きものとは共に憐むべき愚者の見なり」

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月9日 追記)


【第一次世界大戦】

第一次世界大戦には、日本からも観戦武官が行きましたが、その実態を見て、たとえば日本海海戦の連合艦隊参謀だった秋山真之のような人までがノイローゼになったほどです。
彼が見るところ、イギリスとかフランスには、銃後の国内にほとんど若い男がいない。
それなのに武器や弾薬はきちんと製造されていて、しかもむしろ質がいいくらいである。
なぜかというと、工場において個々の職人の能力によらず、システマティックに生産できる態勢が整えられているからである。
日本の当時の工場を考えると、それはとてもできない。
日本は戦争ができない国になったと彼は考えたのです。

(参考:渡部昇一 著 『東条英機 歴史の証言』 祥伝社 平成18年8月第3刷発行)

(平成29年5月2日 追記)


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