秋山好古像 平成19年11月8日

秋山好古 あきやま・よしふる

安政6年1月7日(1859年2月9日)〜昭和5年(1930年)11月4日

愛媛県松山市・『秋山兄弟生誕地』でお会いしました。


伊予国生まれ。
海軍中将・秋山真之さねゆきの兄。
陸軍士官学校卒。
陸軍大学校を経てフランスに留学。
大正5年(1916)大将になる。
その間、乗馬学校校長・騎兵監などを歴任。
騎兵科の確立に尽力し、日清・日露戦争では騎兵部隊指揮官としても活躍した。


秋山好古像



兄・秋山好古大将像
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)





(平成19年11月8日)

兄・秋山好古あきやまよしふる(1859〜1930)

秋山好古は松山藩士久敬ひさたかの三男。
教員を志して大阪に出たが、陸軍士官学校創設に応じて入学、さらにフランスの騎兵学校に学び、日本陸軍騎兵の父となる。
日露戦争起こるや世界最強のコサック騎兵隊を破って勇名を馳せた。
陸軍大将に栄進、要職を歴任したが教育総監を拝命したとき最も喜んだという。
退役時元帥奏請げんすいそうせいの動きがあったが固く辞退した。
退役直後、郷里松山の私立北豫ほくよ中学校長を懇請されると直ちに快諾。
勲一等陸軍大将の一私立中学校長就任は全国を驚倒きょうとうせしめた。
その教育を重んずる志を知るべきであろう。
校長就任後は、亡父の残したこの旧屋きゅうおくから6年半、一切軍服を着ることなく騎馬で皆勤した。
「墓は大きなものを作ると子孫が迷惑する。軍人は立派な家を建ててはいかん。銅像などいらん」
生前のこの希望には叛そむいたが郷党きょうとうの敬慕の念止みがたく、弟・眞之さねゆきの銅像に続いて昭和11年同じ道後公園に騎馬像が建設された。
先の戦争中金属供出で無念にも鋳つぶされたが、幸いにも銅像制作時に作られたレプリカが残っていたので、それを基に新技術を駆使した拡大粘土モデルを制作し、さらに作者の遺族らの監修を受け、出来る限り昔の姿にと念じ復元した。

(説明板より)

秋山兄弟生家



秋山兄弟生家(復元)
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)





(平成19年11月8日)

秋山兄弟生家

秋山兄弟(兄・好古よしふる、弟・眞之さねゆき)はこの地で生まれ、育った。
父・久敬ひさたかは松山藩士徒目付かちめつけで、江戸時代からここに居を構えていた。
当初は藁わら屋根で僅わずか数室という典型的な下級武士の家で、その質素な家から日露戦争で救国の働きをした秋山兄弟が育ったことは、感慨深いものがある。
兄・好古は大正13年から昭和5年まで、生家を増改築して住み、没後は有志により手厚く保存されていたが昭和20年、米軍の爆撃で焼失した。
このたび、生家の復元に際しては秋山家子孫、秋山兄弟伝記、好古友人の記録等を参考にし、また、関係法規も順守しながら、できるだけ生家の原型に近い形で建築した。
家の位置は、兄弟の銅像設置のため当初よりは北側に寄せた。
この秋山兄弟生誕地の整備は、全国から延1万人の個人・有力企業をはじめ、松山中学・松山東高同窓会、北豫中学・城北高女・松山北高同窓会、愛媛友愛会、連合愛媛等の諸団体から賜たまわった募金で賄まかなわれた。
ご協力いただいた全ての方に感謝の意を表し、ここに記す。

平成16年11月吉日
財団法人 常盤同郷会

(説明板より)

生家内部 生家内部
生家内部 生家内部(復元)
北予中学校長時代の写真 北予中学校長時代の写真
秋山兄弟産湯の井戸

秋山兄弟産湯の井戸
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)

井戸の位置は、江戸時代からこの場所にあり、産湯や家事に使われました。
現在も散水用に利用されています。
(説明板より)


(平成19年11月8日)
秋山両将遺邸之碑


秋山両将遺邸之碑
(愛媛県松山市・秋山兄弟生誕地)

陸軍大将 南次郎 書




(平成19年11月8日)

秋山両将遺邸之碑

陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功三級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵■然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北豫中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ舘■ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投シテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳■ヲ傳ヘントス而シテ■保護管理ハ擧テ松山同郷會ニ託シタリ同會ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曽テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ■テ同會ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ會舘ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトトセリ■シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目■アリ復タ■説ヲ要セザルナリ

昭和十二年七月
秋山両将遺邸保存會 井上要撰并書

(碑文より)

碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

碑に記載された人物
久松定謨:旧松山藩主久松家の当主、フランスに好古をともない留学。常盤同郷会を創設し、青少年の教育に尽した。
山下亀三郎:眞之を信奉した山下汽船創業者(吉田町出身)
新田長次郎:好古と親交があり「新田ベルト」他の創業し、好古と北海道で馬匹改良に尽した(松山市出身)

(説明板より)

秋山兄弟生誕地



秋山兄弟生誕地

(愛媛県松山市歩行町2−3−6)





(平成19年11月8日)
秋山兄弟生誕地



秋山兄弟生誕地

(愛媛県松山市歩行町2−3−6)





(平成19年11月8日)

◎開館時間:午前10時〜午後5時
◎休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)・年末年始(12/28〜1/3)
◎入館料:大人200円、高校生以下無料


【秋山家】

父・秋山久敬ひさたか
旧松山藩時代は徒行かち目付として信望が厚かった。
明治維新後は県の学務課に勤める。
「親が偉くなりすぎると、子供が偉くならない」が口癖。
母・秋山 貞さだ
松山藩士の娘で、秋山久敬に嫁ぐ。
真之が幼少の頃、ご法度の花火遊びをして警察に検挙された時、自分も死ぬからと、短刀を突きつけて叱った。
長女・種たね
早世。
長男・則久のりひさ
漢学の造詣が深かったが、壮年時代に病を得て廃嫡となる。
次男・正矣まさなり
おか家に養子に入る。
日本鉄道会社勤務などを経て、朝鮮京城けいじょう電気株式会社の重役となった。
三男・好古よしふる
好古の妻・多美たみ
好古が少尉時代に離れを借りていた旧旗本・佐久間家の娘。
非婚主義者の好古だが、母の懇願に負けて結婚。
(好古35歳、多美24歳)
四男・道一みちかず
西原家に養子に入る。
実業家を志し、横浜で貿易商を営むが、日露戦争の前年、事業が大成することなく没した。
五男・真之さねゆき
真之の妻・季子すえこ
宮内省御用掛ごようがかり、稲生真履いのうまふみの三女。
真之が海軍兵学校の教官時代、海軍大佐・八代六郎の仲介で結婚。
(真之36歳、季子21歳)

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月12日追記)


履歴
明治9年7月 大阪師範卒  
  名古屋師範付属小訓導  
明治10年5月 陸軍士官学校入学(旧3期) 陸軍士官学校長
曽我祐準少将(明7.10.30〜明11.12.14)
大山巌中将(明11.12.14〜明13.4.29)
明治12年12月 陸軍士官学校卒・騎兵少尉 96名卒業(歩兵科を3番で卒業)
(恩賜=楠瀬幸彦、上原勇作)
明治13年2月 騎兵第1大隊付  
明治15年1月 陸軍士官学校出仕  
明治16年2月 騎兵中尉  
明治16年4月 陸軍大学校入学(1期) この時期、校長は置かず幹事を置き参謀本部長に直隷。
幹事
岡本兵四郎大佐(明15.12.18〜明19.9.30)

19名入校
明治18年12月 陸軍大学校卒・参謀本部出仕 10名卒業(9番で卒業)
(同期=東条英教、仙波太郎、井口省吾、長岡外史等)
明治19年4月 東京鎮台参謀 東京鎮台司令官
三浦梧楼中将(明18.5.21〜明19.7.26)
三好重臣中将(明19.7.26〜明21.5.21)
明治19年6月 騎兵大尉  
明治20年7月

明治24年12月
フランス留学  
明治24年12月 騎兵第1大隊中隊長  
明治25年11月 騎兵少佐・騎兵監副官 騎兵監(初代騎兵監)
佐野延勝大佐(明20.6.3〜明31.2.2)
明治26年5月 騎兵第1大隊長  
明治27年10月

明治28年6月
出征 日清戦争
明治28年5月 騎兵中佐  
明治29年8月 乗馬学校長 陸軍乗馬学校=明治21年3月設立
明治30年10月 騎兵大佐  
明治31年10月

明治34年2月
騎兵実施学校長 陸軍騎兵実施学校
=明治31年10月1日「陸軍乗馬学校」を改称
明治33年7月 第5師団兵站監  
明治34年4月 清国駐屯軍参謀長  
明治34年7月 清国駐屯軍守備隊司令官  
明治34年10月 清国駐屯軍司令官 前任
山根武亮少将(旧1期)(明34.7.4〜明34.10)
後任
仙波太郎大佐(旧2期)(明36.4.2〜明38.6.25)
明治35年6月 少将  
明治36年4月 騎兵第1旅団長 騎兵第13連隊
騎兵第14連隊
明治37年5月

明治39年2月
出征 日露戦争
明治39年2月

大正2年1月
騎兵監 前任
渋谷在明少将(旧2期)(明36.4.2〜明39.2.6)
後任
豊辺新作少将(旧5期)(大2.1.15〜大6.8.6)
明治40年4月

明治41年1月
欧州出張
(ヘーグ平和会議代表)
 
明治42年8月 中将  
大正2年1月 第13師団長 前任
長岡外史中将(旧2期)(明43.6.1〜大2.1.15)
後任
安藤厳水中将(旧6期)(大4.2.15〜大7.7.24)
大正4年2月 近衛師団長 前任
山根武亮中将(旧1期)(大1.11.27〜大4.2.15)
後任
仁田原重行中将(旧6期)(大5.8.18〜大6.8.6)
大正5年8月 朝鮮駐剳軍司令官 前任
井口省吾中将(旧2)(大4.1.25〜大5.8.18)
後任
松川敏胤中将(旧5)(大6.8.6〜大7.6.1)

参謀長
白水淡(旧9期)(大5.4.1〜大6.8.6)
大正5年11月 大将  
大正6年8月 軍事参議官  
大正9年12月 教育総監兼軍事参議官 前任
大谷喜久蔵大将(旧2期)(大8.8.26〜大9.12.28)
後任
大庭二郎大将(旧8期)(大12.3.17〜大15.3.2)

教育総監部本部長
尾野実信中将(旧10期)(大8.11.25〜大10.6.11)
児島惣次郎中将(1期)(大10・6.15〜大11.5.13)
宇垣一成中将(1期)(大11・5.13〜大12.10.10)
大正12年3月 予備役  
大正13年4月

昭和5年4月
北豫中学校長  
昭和5年11月 死去  

(参考:東京大学出版会『日本陸海軍総合辞典』)


日清戦争・秋山支隊

明治27年(1894年)8月、日清戦争が勃発。
好古率いる騎兵第1大隊(2個中隊で編成・1個中隊は120騎)は、大山巌大将の第2軍に属し、10月5日、広島県宇品港を出発。
20日後、遼東りょうとう半島の要衝・金州きんしゅう方面を攻略するため、半島中部の花園江かえんこうに上陸。
好古は、騎兵第1大隊の第2中隊と歩兵第2連隊の第3中隊を指揮して、南下してくる敵の情報を捕捉するため、復州ふくしゅう街道の警戒に当った。
「秋山支隊」と呼ばれたこの部隊がもたらした情報によって、師団主力は金州北方の敵陣地の攻略に成功した。
第2軍隷下れいかの第1師団(師団長:山地元治やまぢもとはる)は、金州とその周辺の攻略後、旅順りょじゅん要塞を攻略することになった。
旅順要塞には1万4000の兵と百数十門の砲が守っていた。
大山軍司令官の命を受けた好古は騎兵斥侯せっこうを多く出し、集まった情報を分析して旅順攻撃で最も有効な攻め方、攻め口、撤退の際の安全性などを記した詳細で的確な報告書を提出した。
この報告書は、戦史に残るといわれるほどの優れたものであった。
これに基づいて、大山軍司令官は旅順攻撃日等を決定した。

その後、好古は更なる敵情視察に出る。
11月18日、双台溝そうだいこうを経て山間堡さんかんほに達したところで、水師営すいしえい方面から、敵1個旅団(約2000名)が進軍してくるという報告を受ける。
これに対して「秋山支隊」は騎兵2個中隊、歩兵1個中隊の3個中隊である。
兵数では比較にならない。
本来ならば、退却するのが当たり前の状況だが、普段から騎兵は実戦には向かないと軽く扱われているため、ここで逃げるわけにはいかず、「攻撃」を決意する。
騎兵を二手に分け、第1中隊は全員を下馬させて、徒歩で本道の東側に展開させた。
第2中隊には乗馬戦をさせるため、本道の西側から進ませ、自らは、歩兵中隊を率いて予備隊とした。
敵も「秋山支隊」を認めて射撃を開始。
好古の頭上を銃弾がかすめ過ぎたが、この時、好古は、水筒に入れていつも持参していた中国酒を馬上で飲んでいたという。
そこに附近を行軍中の歩兵第3連隊第3中隊が救援に駆けつけた。
しかし、1個中隊程度の参戦では敵の優勢は変わらない。
そのうちに第3中隊の中萬徳二ちゅうまんとくじ中隊長が戦死。
それでも好古は、一段と激しくなる銃撃と砲撃の中で、酒を飲みながら進撃を続けた。
まもなく敵は火砲を撃ち込みながら歩兵を左右に展開させて、三方から波となって押し寄せてきた。
さしもの好古も撤退を考える。
歩兵中隊を先に逃がすと、自らは騎兵隊を率いて殿軍しんがりに徹する。
敵に食いつかれる一番危険な役割を敢えて買って出るという、本来は一軍を率いる指揮官のやることではない。
最後尾に止とどまった好古は、追撃する敵と渡り合い、防戦と後退を繰り返した。
やがて歩兵第3連隊本隊が救援に現れ、危うく難を逃れる事が出来た。
戦闘が終わってみれば、秋山支隊の損害は、戦死1名、負傷6名という奇跡的な少なさであった。
好古が殿軍しんがりで見せた鮮やかな指揮ぶりにより、好古と騎兵隊の評価は大いに上がった。

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月13日追記)


日露戦争・秋山支隊

明治37年(1904年)5月、騎兵第1旅団(長:秋山好古)は遼東半島に上陸し、第2軍(長:奥保鞏おく・やすかた大将)の増加戦闘序列に加わる。
先行偵察と敵の通信網破壊を主たる任務として、得利寺とくりじ、熊岳城ゆうがくじょう、営口えいこうなどの占領の先陣を切る。
海城かいじょうへの進撃に際して、第2軍司令部は、騎兵第1旅団に歩兵1個連隊と砲兵1個中隊を加え、『秋山支隊』にと改編した。
その後、遼陽りょうよう攻撃の直前には、更に騎兵3個連隊、工兵1個中隊、砲兵1個中隊が増加された。

黒溝台こっこうだい会戦(明治38年1月)
ロシア満州軍第2軍の総攻撃に対し秋山支隊は弘前第8師団(長:立見尚文たつみなおふみ中将)と共に、矢面に立って戦う羽目となる。
意表を衝かれた日本満州軍総司令部は、名古屋第5師団を急派し、臨時立見軍を編成して防戦に努めた。
この時、秋山支隊は機関銃による弾幕を張り、ロシア軍を数度にわたり撃退している。

奉天会戦(明治38年2月末)
日本軍は右翼から左翼にかけて鴨緑江おうりょくこう軍、第1軍、第4軍、第2軍、第3軍と戦列を敷き、総攻撃を開始。
まず第1軍が突破力を発揮し、次いで第3軍に属する秋山支隊がロシア軍の戦線を切り裂く。
秋山は左翼の第3軍(長:乃木希典大将)の迂回の動きが鈍いため、一気に北上。
ロシア軍の騎兵は秋山支隊の阻止に動くが、砲兵を伴い、更には機関銃の斉射せいしゃにより撃退されるケースが続出した。
ロシア軍騎兵の常識を破った秋山支隊の戦術展開により、その進撃路が大きく拓かれた。
3月1日、日本軍の奉天への進撃が開始された。
3月7日には早くも秋山支隊の姿は奉天北北西20kmの地点にあった。

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月21日追記)


【乃木希典と秋山好古

明治38年(1905年)奉天会戦の時、秋山支隊は進撃の途中で、欧州より到着したロシア軍のビルゲル支隊を撃破した。
もし、この時、ビルゲル支隊が無傷で奉天西方に向かうような事になっていれば、乃木の第3軍は大変な苦境に陥っていたであろう。
乃木は秋山支隊の奮戦を評価して、個人感状を与えている。
奉天会戦後のある日、乃木希典は秋山好古のもとを訪れ、「さすがの秋山も戦地でスッポンを食ったことはなかろう」と言い、自ら料理して振舞い、二人で夜半まで語り合ったという。

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月21日追記)


晩年

陸軍大将が校長に

前陸軍参事官・陸軍大将・従二位勲一等功二級という肩書を持つ国家的重鎮が、郷里とはいえ、地方都市の市立中学校校長に就任するという、当時としてはほとんど椿事ちんじのような話は、たった10分間で決まったという。
「適当な後任が見つかるまで当分の間」であったはずのものが、大正13年2月から昭和5年4月まで、好古の校長在任は、6年2ヶ月の長きにわたることとなった。
しかも、「時々学校へ来て生徒と遊ぶ」どころでか、6年2ヶ月の在任中、公務出張以外は全くの無遅刻無欠勤。
見事なる皆勤賞であった。
校長就任の時点で65歳。
退任時には実に71歳。
文字通り老骨に鞭打って、校長職を大真面目で務め、退任後、7ヶ月で亡くなった。

先進的な国際感覚と平等主義

藩校で英才ぶりを発揮し、陸軍士官学校・陸軍大学に学び、パリでの留学生活もたっぷりと経験した好古は、当時一級の教養人であり、先進的国際感覚の持ち主であり、かつ、福沢諭吉の平等主義を心底信奉していて、誰に対しても平等公平な人であった。
好古が北予中学校校長就任を依頼された理由はこのあたりにあるのであって、単に日露戦争で大活躍したからばかりではない。

無言の教訓、無為の感化

学校到着は、毎朝決まって始業20分前。
好古の通勤する姿を見て沿道の人々が時計を合わせ直したという話まである。
欠勤の教員がいると、好古自身ができるだけ代講を務め、休講になってしまうのを極力避けようとした。
たとえば、西洋史の教員が欠勤の時、好古は、英語で書かれた歴史書を教室に直接持って行って、その場で翻訳しながら生徒に語って聞かせたという。
漢文は藩校仕込み、英語・フランス語にも堪能で、獣医学をはじめ自然科学にも明るかったので、たいていの科目の代講を務めることができたようである。
校長がこのようであるから、学校全体が自ずと引き締まり、生徒の欠席や教職員の欠勤もずいぶんと減っていった。

生徒は兵隊ではない

大正14年、政府は、陸軍現役将校学校配属令を発し、学校教練教授要目を制定した。
これによって、全国の中等学校に陸軍将校が配属され、週に2〜3時間の軍事教練が必修科目として行われるようになった。
やがて、校内で、軍事教練の時間をもっと増やしてはどうかという意見も出るようになったが、好古は、「生徒は兵隊ではない」と言い切り、軍事教練の時間は最低限で済ませたと伝えられる。
好古は、軍隊のために学校があるのではなく、学校も含めての国民生活を守るためにこそ軍隊があるのだとよくわきまえ、学校は学校で、軍隊とは異なることをするべきところなのだということをきちんとわかっていた将軍であった。

運動競技を通じて品位を

軍事教練には消極的であったが、運動競技にのほうは大いに奨励した。
それまでの、柔道・剣道・相撲・庭球・野球・端艇(ボート)の各部に加えて、好古が校長になってから、陸上競技部・山岳部・水泳部が新設され、運動場の拡張・ボートの新調、バスケットボール台の新設など、設備面での拡充も行われた。
野球部は、四国大会出場の常連校となり、好古が校長を退任した翌年、全国中等学校選抜野球大会(現在の春の選抜高校野球)に出場している。
好古が生徒に述べた講話の一節。
「近時における運動競技は、ますます発達向上し、単に体育のみならず、徳育、知育をも兼ね備えるようになっている。特に、競技をもって国際的の親密を増加し、各国民の品位を代表するようになってきた」
好古にとっては、運動競技は、国威発揚と言うよりは国際親善の手段のひとつであった。
そして、運動競技を通じて、正々堂々のフェアプレイ精神という、世界的に通用する徳目を、生徒に体得させたいと考えていたようである。

「修身」でテント張りや野外炊事

好古は「修身」の時間にテント張りと野外炊事の実習をやらせている。
好古いわく、「こういうことは大いに必要であるから充分練習しておくように。満州蒙古ではテント生活である。軍人は1年間ほどもテント生活を強いられることがあるが、この訓練のおかげで、地震火災などのとき、困難をしのぐことができる。他日、自己一身が窮地にたつような場合もあろう。3日間なりともテント生活をする練習をしておくべきである」と。

自主自立、自労自活

大正14年、普通選挙法が成立し、納税額に関係なく、満25歳以上の男性に平等に選挙権が与えられることとなった。
好古は、一般市民向けの講演で、「これによって立憲自治の政治はますます発達する。市町村の自治も発達する。しかし、自治の制度のみが発達したのでは不完全である。その基礎に、一家の独立自治、個人の独立自治がないといけない」と述べている。
また、「自主自立の気概が大切である。その基礎は自労自活の精神である」と事あるごとに生徒にも語っている。
一国の独立発展の基礎は、自らを治めることができる国民と経済的生産力。
生産力上昇の基礎は勤労と科学技術の進歩。
これが好古の経綸けいりん思想の基本だったようである。

(参考:片上雅仁著『晩年の秋山好古』)

(平成21年6月7日追記)


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