駆逐艦 秋月 あきづき


第61駆逐艦隊・駆逐艦秋月慰霊の碑



第61駆逐隊 駆逐艦秋月慰霊之碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

駆逐艦秋月は昭和17年6月11日秋月型防空駆逐艦第1号艦として舞鶴海軍工廠で竣工
総排水量3800トン特殊性能10糎高角砲8門3連装25粍機銃5基4連魚雷発射管1基更に全甲板に単装機銃を配し最新鋭の防空駆逐艦として誕生す
秋月は竣工間もなくアリューシャンに向け出撃
北方作戦に参加後マカッサル、カビエン、ラバウル、トラック島等南太平洋方面作戦に従事
ガ島攻防戦から「あ号」「捷1号」作戦まで機動部隊附属の防空駆逐艦として活躍転戦亦連戦
敵味方が共に瞠目する輝しい戦果と武勲を挙げ駆逐艦秋月の名声轟かせり
然し度び重なる戦斗で損傷も著しく昭和17年10月25日ガ島沖の戦で11名昭和18年1月19日ソロモン方面にて14名の尊い命を失う
併して昭和19年10月25日「捷1号」作戦中比島沖の航空戦で秋月は身を捨て旗艦瑞鶴始め空母の援護射撃中被爆遂に命運盡きて沈没せり
秋月の命は短くもその功績は偉大なり
ガ島から比島沖までの長い戦斗で最後の勝利と栄光とを信じて散華して逝った乗員数208名の多数に上る
茲に生き残りし我等一同尊き御霊に対して祖国日本の復興は成り平和と繁栄が続いている旨を告げ願くは心安らかに御冥福あらんことを心から祈ってこの碑を建てゝ祭る

秋月会

第61駆逐隊駆逐艦秋月戦没者慰霊碑

一等駆逐艦
新型防空駆逐艦「秋月型」12隻の1番艦として昭和17年6月11日舞鶴工廠で竣工
進水時の昭和16年7月2日付で本籍を佐世保に指定

本艦型の公称は「乙型駆逐艦」である。
初月、照月、凉月とともに第61駆逐隊を編成。
秋月型は艦型がスマートで、米側は軽巡「夕張」とよく誤認した。
その長砲身10センチ高角砲の威力は抜群で、就役早々、ソロモン海域でB−17爆撃機を一度に2機撃墜しており、アメリカ航空部隊は容易に秋月型には近づかないよう警報を発したという。
秋月は昭和18年1月19日、ショートランド付近において米潜の雷撃を右舷缶室下に受け、キールが折れる。
そのため応急的に艦首部を切断し、曳航されて6月24日サイパンを出港、7月2日に長崎に入港した。
三菱長崎造船所では、ちょうど姉妹艦「霜月」が建造中で、すでに進水も終わっていたが、秋月の修理が急がれたため、急遽「霜月」の艦首部を切断して秋月に接合するという非常手段がとられた。
10月末に修理工事を完工。
再び南方の第一線に進出し、昭和19年のマリアナ沖海戦などに活躍。
昭和19年10月25日の比島沖海戦においては小沢艦隊の一艦として参加。
エンガノ岬沖海戦におけるわが対空陣形中の秋月の占位位置は、空母「瑞鳳」の左前方1.5キロのところにあり、「瑞鳳」の右正横2.5キロには空母「瑞鶴」(旗艦)が占位していた。
第一次空襲が開始されてしばらく後の午前8時50分頃、被弾して缶室に損傷を受け航行不能となる。
濛々たる黒煙と火焔が立ち上った瞬間、2つに折れて沈没した。
秋月はエンガノ岬海戦において最初に沈没した艦であるが、その原因については諸説ある。
米潜「ハリバット」からの魚雷から「瑞鶴」を護るため、自らがその矢面に立って犠牲になったとか、味方の高射砲弾の破片が秋月の予備魚雷に命中して誘爆した、などである。
この戦闘で機関長以下150名が戦死。
碑は昭和56年10月24日建立。
歴戦の戦没者208名を祀っている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【秋月型】

脆弱な空母を敵の空襲から護る為には、対空用の防空艦が必要という考えから生まれたのが本型である。
最初は駆逐艦にせず、「直衛艦」という新艦種にすることも考えられたが、魚雷戦に偏重していた海軍はこの艦にも魚雷を搭載し、結局、駆逐艦として完成させた。
魚雷戦用の駆逐艦を駆逐艦甲と呼び、本艦は駆逐艦乙とされた。
ちなみに、丙が「島風」型であり、丁が「松」型である。
船体は3000トンを超え、軽巡洋艦の「夕張」に匹敵する大きさとなったのは、空母に随伴して遠距離作戦をこなすためである。
新開発の長10センチ連装高角砲は、従来の12センチや12.7センチ高角砲よりも砲弾の初速が速く、半自動式装填で、砲身の旋回俯仰速度も速いという高性能砲であった。
連装2基づつを前後に分け、2基の高角測距儀により、それぞれ別の目標を狙うことが可能だった。
「冬月」以降は高角測距儀を1基にするなどの装備や船体の簡素化が行われたため、「冬月」型として別型扱いすることもある。
空母増勢計画と共に大量生産が計画されたが、12隻の完成で終わった。

【要目】
公試排水量:3470トン
機関出力:5万2000馬力
速力:33ノット
航続力:18ノットで8000海里
乗員数:263名
兵装:10cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×2
    61cm4連装魚雷発射管×1

【同型艦】
秋月(昭和17年6月13日竣工〜昭和19年10月25日戦没)
照月(昭和17年8月31日竣工〜昭和17年12月11日戦没)
涼月(昭和17年12月29日竣工〜終戦時残存・解体)
初月(昭和17年12月29日竣工〜昭和19年10月25日戦没)
新月(昭和18年3月31日竣工〜昭和18年7月5日戦没)
若月(昭和18年5月31日竣工〜昭和19年11月11日戦没)
霜月(昭和19年3月31日竣工〜昭和19年11月25日戦没)
冬月(昭和19年5月25日竣工〜終戦時残存・解体)
春月(昭和19年12月28日竣工〜終戦時残存・ソ連へ引渡し)
宵月(昭和20年1月31日竣工〜終戦時残存・中華民国へ引渡し)
夏月(昭和20年4月8日竣工〜終戦時残存・英国へ引渡し)
花月(昭和19年12月26日竣工〜終戦時残存・米国へ引渡し)

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


【乙型「秋月」クラス】

1935年(昭和10年)、英国は古いCクラス軽巡(4290トン)を改造して世界初の防空巡洋艦を造った。
米国も1941年(昭和16年)、アトランタ級(6000トン)防空巡洋艦を11隻を建造した。
ところが日本海軍は防空巡洋艦を建造しなかった。
その代わり巡洋艦よりは小さい防空駆逐艦「秋月」クラス12隻を乙型と称して、昭和17年以降、竣工させた。
時代としては米国のアトランタ級と同じころであるが、2700トンだから米防空巡洋艦の半分以下だ。

太平洋戦争勃発より3年前の昭和13年、「陽炎」(甲型)クラスのB(マルサン)計画より1年後のC(マルヨン)で軍令部は防空駆逐艦を要求した。
目的は空母の護衛である。
まず従来の駆逐艦が3〜4日に1回ずつ燃料を補給してもらわねばならぬ面倒を廃し、18ノットで1万カイリの航続力を要求してきた。
これは普通の駆逐艦の倍以上、1200トンの重油を積まねばならないことになる。
空母は航続力が長いから、その護衛艦も足が長くなければならない。
1万カイリといえば太平洋を往復距離で、この要求を満たすとなると4000トンもの大型艦になってしまう。
結局、軍令部は譲歩し、「8000カイリでよい。速力も35ノットから33ノットに下げる」となる。
空母は飛行機の発着艦の際、30ノットの高速を出すから、30ノットは最低必要だった。
やがて実現したのが「秋月」クラスだが、甲型の「陽炎」クラスの2000トンに対して2700トン(燃料1080トン)と大きくなってしまった。

当初、「秋月」クラスに魚雷を積む計画はなかったが、後に「こんな便利な大型駆逐艦に発射管を積まなければもったいない」という要望が出てきて、次発装填装置を付けた九二式四連装1基を載せてしまった。(魚雷:計8本)

乙型と称する「秋月」は甲型の「陽炎」クラスと同じ缶3個とタービン5万2000馬力をつけた。
主機もボイラーもわざわざ新しく設計すれば半年余りもかかるからである。
1番缶は2番、3番缶から離れて艦橋後部の真下にあった。
ここに直立煙突を立てると煤煙は艦橋に逆流して信号が見えなくなる。
そこで1番缶からの排気は後方へ湾曲させて後ろの煙突と上方で結合させた。
戦艦「長門」や軽巡「夕張」などにみられる結合煙突である。
だから「秋月」は大きさも外見も軽巡「夕張」と似ている。

ほかの駆逐艦がまだレーダーを付けてもらえない頃、「秋月」クラスは早くも21号対空見張用レーダーを装備した。
これは戦艦や空母に装備する重量0.84トンもある重たいものだった。
東芝と日本音響で作られたこの21号レーダーは波長1.5メートル、敵機を70キロ彼方でキャッチできた。
畳状のアンテナは船体前部の三脚マストの上に据えられた。
昭和17年10月の南太平洋海戦時、このレーダーを付けていたのは空母「翔鶴」「隼鷹」「飛鷹」、戦艦「榛名」「金剛」「武蔵」「伊勢」くらいのものだった。

「秋月」クラスは高角砲に特徴があった。
従来の型より直径は小さいが砲身が極めて長い65口径九八式10センチ高角砲で、従来の12.7センチ高角砲(駆逐艦「松」クラスの主砲)より9年も新しく、日本海軍の高角砲の中で最新のものだった。
砲身が長いことは、砲弾のスピードが速いことであり、命中率も良く、射程も長いことを意味していた。
九八式10センチ高角砲の要目は、重量3トン、砲身長6.7メートル、弾丸重量13キロ、発射薬6キロ、砲弾のスピード1010メートル/秒、最大射程1万9500メートル、最大射高1万3000メートル(90度、真上に撃った場合)である。
1分間に15〜20発(砲身1門につき)を撃つことができ、砲弾数は1門につき300発を搭載していた。
二連装の砲塔を前後に2基づつ、つまり1隻で8門となる。
砲身を左右へ旋回させるスピードは1秒間に12〜16度、また上下への俯仰は1秒間に16度だった。
砲盾の厚さは3ミリだが、これは至近弾の破片から砲手を守る程度のものである。

従来の艦は昭和6年に制式採用となった九一式高射指揮装置を積んでいたが、「秋月」クラスは新しい九四式高射指揮装置を積んでいた。
これで敵機を捕えると、わずか4秒で8門全部の砲火をコントロール可能であった。
九四式高射指揮装置3基のうち1基は後部マストの下にあり、後部の砲4門の照準はこれで狙いを定めた。
九四式高射指揮装置と一体となっている4.5メートル測距儀は、敵機のみならず魚雷発射の際、対艦用にも使うことができた。

九六式25ミリ機銃は、当初、二連装2基というお寒い数だったが、戦争末期には50挺近くにも増備された。
弾丸は1挺につき3000発。
乗組員は原計画では263名だったが、戦争末期には機銃員が増したので450名にも増えている。

なお、8番艦の「冬月」以降の4隻は、船体を簡素化して早く建造工事を完了した。
造船に手間のかかる曲線の部分を少なくしたのだ。

(参考: 木俣滋郎 著 『駆逐艦入門』 光人社NF文庫 1998年発行)

(令和元年11月4日 追記)


【秋月型搭載高角砲】

他のクラスの駆逐艦に搭載されている12.7センチ砲は、対空射撃の場合、仰角60度で射高は8000メートル、発射速度は毎分10発程度。
「秋月型」の10センチ連装高角砲は仰角90度、射高1万2000メートル以上、水平射程約2万メートル、発射速度は毎分19発。

(参考:遠藤昭・原進 著 朝日ソノラマ発行 『駆逐艦戦隊』)

(平成22年8月25日追記)


【機関科員】

「秋月」の場合、乗組員263名のうち82名(士官も含む)が機関科である。
機関科は暑さと騒音の中で暮らすので健康を害する者も多い。
被雷した場合、下方に浸水が起こるから、「機関科員、上甲板へ」と退避の号令がかかるのが遅れると溺死してしまう。
ましてや戦闘中、防水隔壁を閉めるから隣りの部屋に逃げることもできない。
機関科員の内容は缶員、機械員、電機員の三種に分かれる。
高温・高圧のボイラーが被弾、破損したら機関兵は大火傷を負う。
フィリピンの北方で「秋月」が戦闘中、突如、大爆発を起こしたのは缶の爆発によるものではないかという説もある。

(参考: 木俣滋郎 著 『駆逐艦入門』 光人社NF文庫 1998年発行)

(令和元年11月1日 追記)




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