天野清三郎像 平成15年7月25日

天野清三郎 あまの・せいざぶろう

天保14年(1843年)〜昭和14年(1939年)

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


天野清三郎 (渡邊蒿蔵わたなべ・こうぞう

天保14年(1843)〜昭和14年(1939)
武士の家に生まれ、松下村塾には16歳の時に入りました。
塾に寝泊りして学び、松陰はその学識を高く評価していました。
のち長州藩の海軍所に入り、馬関ばかん戦争や奇兵隊創設ににも参加しました。
明治維新後は長崎造船所の創設に貢献し、また松陰門下生の中で最も長命で、97歳まで生きました。

(説明板より)

野村和作と天野清三郎像 萩往還公園(道の駅)に建つ銅像
(山口県萩市郊外)

右:野村靖
左:天野清三郎(渡邊蒿蔵)

【吉田松陰の渡邊蒿蔵 評】

松陰先生が門下生一人一人のよいところを見抜き、それぞれにあった声をかけたことは有名である。
渡邊蒿蔵という門下生は「奇識あり。人を視ること虫の如く、その言語往々吾われをして驚服せしむ。一世の高人物」と評する書を与えられたという。
松陰先生は、他の人にはない、少し変わっている部分にも長所を見出し、その人ならではの能力を伸ばした。

(参考:『歴史街道 2002年7月号』)

(平成23年9月29日追記)


【天野清三郎】

天野清三郎は、1857年(安政4年)の冬、15歳で松下村塾に入門しました。
癖のある扱いにくい少年でしたが、松陰は安政5年6月19日の久坂玄瑞あての手紙で「天野はなかなか変わった人物で人々からよく思われていないが、私が独り可愛がって目にかけている〈訳〉」と述べています。
ところが、安政6年正月27日の入江杉蔵あての文書では「天野は奇識きしきあり、人を視ること虫の如く、その言語往々吾をして驚服せしむ」と言い、指導よろしきを得ればひとかどの人物になるであろうが、下手をすれば駄目になってしまう恐れがある、と期待とともに心配しています。
安政6年10月7日、処刑が迫った松陰は獄中から高杉晋作あての手紙で、「天野少しく才を負たのみ勉強せず、是れ惜しむべし」と心配を表明したうえで、「深く顧みて呉れ給え」と天野のことをくれぐれも頼んでいます。

松陰の死後、高杉晋作は天野を引き取って面倒を見、天野も高杉を尊敬し、高杉の指導の下で勤王倒幕の政治運動に参加。
ところが、懸命に働きながらつくづく考えたことは、自分は政治運動には向いていないのではないかということでした。
「このまま勤王倒幕運動に加わっていても高杉晋作の足手まといになるだけではないか」と思いつめた天野は、ついに政治活動から身を引く決心をしました。

1853年(嘉永6年)6月、ペリーが浦賀に来航したとき、松陰は直ちに現地に行ってつぶさに米艦を視るとともに、幕府をはじめ日本側の大狼狽のありさまに憤慨して帰り、対応策を説いて、わが国も同様な堅艦けんかんを製造しない限り国を守ることはできないことを強調した。
この松陰先生の説いた「船造り」になって立派な堅艦を造り日本を守ると心に決めた天野は、脱藩し密航して上海に逃げ、さらにイギリスのロンドンに行き、グラスゴー造船所で働きながら船造りを学ぶことになりました。
1867年(慶応3年)のことです。

ところが、造船所で船大工として働いて船造りを学んでいるうちに、とんでもない重大なことがわかってきました。
それは、船を造るにはただ手先の技能だけではなく、基本となるいろいろな学問が必要であるという事実です。
そこで、昼間働きながら夜学校に入り、英語で基礎の数学や物理学から学び始めました。
その苦労は並大抵のものではなく、のちに、血を吐く思いで勉強したと述懐しています。

3年経ち、学校を卒業しましたが、船造りのことは依然としてわからない。
再入学を申し出たところ、断られたため、アメリカのボストンに渡り、そこの造船所で働きながら学校に通いました。
今度は、最初から理解できたそうです。
1874年(明治7年)に日本に帰国。
時代は変わり、松下村塾の同輩が明治政府の要人になっていたこともあり、天野は明治政府の工部省に入りました。
そして長崎造船所の建設に尽力し、その所長として今日では世界に冠たる日本造船業の草分けの偉業を成し遂げました。
さらに、日本郵船の社長になって日本の海運業の発展に尽くしました。

(参考:岩崎文吉 著 『人はなぜ勉強するのか〜千秋の人 吉田松陰』 平成21年12月第6刷 財団法人モラロジー研究所発行)

(平成26年10月9日 追記)


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