甘利虎泰 あまり・とらやす

?~天文17年2月14日(1548年3月23日)






甘利備前守虎泰屋敷跡
(山梨県甲府市岩窪町・山梨県護国神社入口)




(平成25年9月10日)





「甘利備前守虎泰屋敷跡」説明板
(山梨県甲府市岩窪町・山梨県護国神社入口)






(平成25年9月10日)

板垣信方と並ぶ武田家の重臣
甘利備前守虎泰
(?~天文17年2月14日)

武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職りょうしきという最高職に就任していたとされる重臣。
甘利氏は、甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。
本拠地は、甘利荘あまりのしょうと呼ばれた地域で、そこに館やかた(現在の韮崎市大輪寺だいりんじ)があった。
武田信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加したといわれ、百騎の士卒を率いていた。
天文15年(1546)8月、信玄が信濃志賀しが城(佐久市)の笠原清繫かさはらきよしげを攻めた際に、関東管領上杉憲政のりまさの援軍を、虎泰は、板垣信方らとともに、小田井原おたいはらの合戦でこれを撃破している。
同17年(1548)2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原うえだはらの合戦で戦死した。
その跡は、ただちに息子藤三昌忠とうぞうまさただ(後に左衛門尉さえもんのじょう)が継いだ。

(説明板より)




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