安藤信正像 平成20年4月26日再訪問

安藤信正 あんどう・のぶまさ

文政2年11月25日(1820年1月10日)〜明治4年10月8日(1871年11月20日)

福島県いわき市・JRいわき駅近くの「松ヶ岡公園」でお会いしました。


陸奥国磐城平いわきたいら藩の藩主です。
安政7年(1860年)1月、老中兼外国事務専掌。
同年3月、”桜田門外の変”で井伊直弼が暗殺されると、老中・久世広周くぜ・ひろちかとともに幕政を主導。
日晋修好通商条約締結や”ヒュースケン暗殺事件”の解決など、困難な外交問題を処理しました。
将軍徳川家茂いえもちの正室に孝明天皇の妹・和宮を迎える計画(公武合体)を推進したために、文久2年(1862年)攘夷派の志士たちに襲撃され負傷(坂下門外の変)、失脚しました。
戊辰戦争では、新政府側に対抗して奥羽越列藩同盟に参加、敗退して処罰されました。


安藤信正の像 平成15年6月14日

磐城平藩主対馬守安藤信正公 磐城平藩主対馬守安藤信正公

松ヶ岡公園






平成15年6月14日訪問

銅像の碑文

安藤信正公の銅像は旧平藩士並に其の他の有志が大正11年松ヶ岡公園の一角に建立した偶大東亜戦争中金属供出のため昭和18年撤去の運命に遭い台石のみを残した其の後復元の議興り今回再建された

昭和36年10月8日
安藤信正公銅像再建期成同盟会

訪問記

安藤信正公の銅像の側に彼について書かれた顕彰の石碑が建っています。
でも、旧漢字だったり見づらかったりで読むのが大変です。
こういう場合、別に読みやすく書き直した説明板があると良いと思うんですけどねぇ。
すぐ横は小さな遊園地になっていて家族連れが来ていましたが・・・
この銅像の人が誰だかわからないだろうなぁ〜

(平成15年6月14日訪問)

再訪問したところ、銅像の前に以下のような『安藤對島守信正公銅像の記』という説明板が設置されていました。
これには感激、感心いたしました。

(平成20年4月26日再訪問)


安藤信正公像



磐城平藩主対馬守安藤信正公
(福島県いわき市・松ヶ岡公園)

平市 本多朝忠 作



(平成20年4月26日再訪問)

安藤對島守信正公銅像の記

安藤信正公は文政2年(1819)11月江戸で生まれた。
父は安藤家9代の信由、母は吉田藩主松平信明の女である。
諱は初め信睦と称し、のち信行さらに信正、鶴翁と改めた。
弘化4年(1847)8月、29歳の時父の遺領を継ぎ磐城平藩主となった。
早くより俊英の才を発揮し、翌5年には奏者番に、嘉永4年(1851)には寺社奉行に、安政5年(1858)には若年寄として藩政に参画した。
万延元年(1860)42歳の時老中となり外国御用掛りを勤めた。
以来激動する日本の政治の中枢にあること2年、遣米使節・遣欧使節の派遣、条約締結、小笠原諸島の領有宣言、樺太国境決定の交渉、皇妹和宮の降嫁実現など、在任中に果した業績は大きい。
文久2年(1862)坂下門外で攘夷派の浪士に襲撃され、老中を退任した。
隠居後の慶応4年(1868)5月、平城に拠り奥羽列藩同盟に加わり西軍を迎え撃つも利なく、9月降伏の後東京に移る。
明治4年(1871)10月、東京の屋敷で歿した。
53歳であった。
この銅像は、平字八幡小路に居住した本多朝忠(1895〜1986)が制作し、大正11年(1922)6月旧平藩士の集い「平安会」によって建立された。
この像の建つ地は古来薬王寺台と呼ばれ、戊辰戦争では平藩の砲台が置かれ、西軍に抗戦した拠点として知られる。
また、宝暦6年(1756)美濃国加納(現岐阜市)より磐城平に移住した安藤家家中の者が、はるか西方を望んで旧地を憶い偲んだ「望郷の山」でもある。
のち銅像は太平洋戦争の激化にともない金属供出のため昭和19年に撤去された。
戦後、諸橋久太郎平市長を会長に安藤信正公銅像再建期成同盟会が結成され、現いわき市内を中心に行政及び一般さらに各学校の生徒たちから寄付を募り、昭和37年7月に再建された。

平成18年12月吉日
磐城平藩主安藤家入部
250年記念事業実行委員会建之

(説明板より)

進修の碑

『進修』の碑

進修 君子は徳に進み業を修む
出典 易経
平成18年12月吉日
揮毫 安藤家16代當主安藤綾信
磐城平藩主安藤家入部250年記念事業実行委員会建之


(平成20年4月26日)

老中就任と外交・失脚

井伊直弼亡き後の外交は、老中・安藤信正が担当することになった。
安藤は、外国奉行に任せきりにするのではなく、自分から指揮をとり、積極的に使節たちとも会見した。
安藤信正の外国掛閣老としての最初の仕事は、ポルトガルとの修好通商条約の調印であった。
万延元年(1860年)6月、ポルトガル使節イシドーロとの間に日葡修好通商条約を調印した。
次いで、条約締結の使節を送ってきたのがプロシアであった。
プロシアとの交渉は、井伊直弼襲撃殺害事件の年であり、これを機会に攘夷運動が一気に燃え上がり始めた頃であった。
プロシア使節オイレンブルグとの会談は、7月29日(9月14日)に信正の屋敷で行なわれた。
安藤信正は、イギリスやアメリカと条約を結び、貿易を始めただけでも、国内に大きな混乱が生じ、攘夷運動が激化したのに、さらに、プロシアと条約を締結したならば、世論を刺激し幕府の立場を危うくするかもしれないことを恐れていた。
条約締結の交渉が動き出したのは、万延元年11月2日。
これはハリスの調停に基づくもので、幕府の兵庫や新潟の開港を延期したいという願いを入れる代わりにプロシアとの条約締結交渉を行なうというものであった。
全権には外国奉行の堀織部正と新しく就任した竹本図書頭ずしょのかみ、目付の黒川左中が任じられた。
主席通訳官は森山多吉郎であった。
しかし、その4日後の11月6日早朝、堀織部正は自殺を遂げた。
何故の切腹であったのか、今でも謎となっているが、プロシアとの正式な交渉を始めた直後の死であることから、その関係が取り沙汰されている。
条約はヒュースケンと森山多吉郎とで入念にオランダ語の条文に照合し、仕上げていった。

万延元年12月5日(1861年1月15日)、プロシア使節団宿舎での仕事を終えたヒュースケンは、アメリカ公使館へ戻る途中、数人の暴漢に襲われ斬り殺された。
このアメリカ公使書記官の暗殺は、国際問題となり諸外国の外交官は抗議して、江戸を引き払い、横浜に退去した。
このことは幕府を窮地に追いやったが、ハリスは江戸にとどまり、穏健な態度をとった。
ヒュースケンの死を乗り越えて日普通商条約が締結されたのは、9日後の万延元年12月14日(1861年1月24日)であった。

文久2年(1862)の遣欧使節は、イギリスとフランスの公使から、アメリカに条約批准のための使節を送ったのだから、ヨーロッパの国々にも使節を送るべきであるとの要請に応えたものである。
また、プロシアとの条約締結にあたって、アメリカ公使ハリスは、プロシアとの条約を結ぶならば、アメリカ本国に開港延期の進言をしようとか、イギリス公使のオールコックも、各国を歴訪するなかで、開港延期についても話し合ったらいいだろう、とかの言葉に動かされ、安藤信正が周囲の反対を押し切って派遣したものである。
正使は竹内下野守、副使は松平石見守で、外国奉行としての使節であった。
この使節団には、福沢諭吉も咸臨丸での渡米に続いて今度は翻訳方御雇として同行している。
交渉そのものは成功しなかったが、西洋文明の吸収には大きな成果を挙げている。

遣欧使節団の出発は、イギリス軍艦オーディン号に搭乗して文久元年12月23日(1862年1月22日)、横浜港からであった。
ところが、遣欧使節が出発して1ヶ月もたたない文化2年1月15日(1862年2月13日)、老中・安藤対馬守信正は、坂下門外で襲撃された。
信正は駕籠から飛び出すと刀を振るい戦ったが、顔を斬られ、脇腹を槍で刺される致命傷に近い重傷を負った。
しかし、信正の果敢な指揮でたちまち刺客たちは、7名が斬り伏せられた。
逃亡したものは1名だけであったという。

安藤信正は、井伊直弼が殺されたのに、病死としてこの重大な事件を糊塗したり、皇女和宮の降嫁を進めたりして幕府の権威を失墜させたと非難された。
また、プロシアなどさらに多くの国と通商条約を結んだのは怪しからんと、攘夷派を中心に、幕府内からさえも非難の的となり、その失脚は歓迎された。
なかでも、兵庫・新潟の開港を延期する代わりに、関税を一律5%と植民地国並みに下げられたのは、後世に悔いを残したと痛烈に批判されている。
しかし、批難の的となったロンドン協約には5%については触れられていないので、これは冤罪である。

文久から元治にかけては、日本中が熱に浮かれたように攘夷の大合唱であった。
朝廷も、大名も、又、浪士や人民も、それが日本国をどのような危機に陥れるかは、露ほどにも頭に浮かばなかった。
日本が今日あるのは、四面楚歌のなかで開国を推し進め、未然に西欧諸国の野望を防いだ安藤信正らの働きがあったことを評価しなければならないだろう。

この事件は、信正の勇敢な働きにも関わらず、世間は暗殺者を称賛し、公武合体を進め、外国との交渉を行なう信正を非難した。
信正は、その後療養に努め傷が癒えると、4月には老中を罷免され、8月には、老中としての政治が不束であったとして蟄居謹慎を命じられ、以後、政治の表舞台に出ることはなくなった。

(参考:江越弘人著 『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)


【公武合体】

大老・井伊直弼が暗殺された後、政権を引き継ぐ形となった老中・安藤信正は、朝廷の権威を借りて幕府を立て直すことを思いついた。
すなわち公武合体である。
その動きは早かった。
幕府は孝明天皇に必ず攘夷、つまり鎖国政策を継続するから、天皇の妹・和宮を14代将軍・家茂(慶福よしとみ改め)の御台所みだいどころに迎えたいと申し入れた。
和宮は嫌がった。
彼女にはすでに有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたからだ。
しかし、孝明天皇は、神道の守護者としての立場から、攘夷を貫くのが正しいと考えていた。
コレラなどの疫病の流行も、この頃に頻繁に起こった地震や大津波も、「汚れた外人」が大手を振って日本国を闊歩しているせいだ。
こんな連中は叩きださねばならないというのが、孝明天皇の宗教的信念だった。
大老・井伊直弼は、自分を無視して外国と条約を結んだから「天罰」(桜田門外の変)を受けたのだ。
孝明天皇は日本国を守るためには和宮を犠牲にするしかないと考え、嫌がる和宮を説得して江戸に送った。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月15日 追記)


【坂下門外の変】

公武合体を主導した老中・安藤信正は過激派浪士の襲撃を受けた。
「坂下門外の変」である。
このときも「桜田門外の変」と同様、襲撃者はピストルを持ち1発放ったのだが、桜田門の教訓から駕籠脇は固められていたので、やむなく襲撃者は駕籠の正面から撃ち命中もしなかった。
結局、安藤信正は逃亡に成功した。
しかし、「桜田門外の変」に続き、またしても幕府高官が白昼堂々襲われるという事態は、幕府の権威をさらに失墜させた。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月19日 追記)


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