安藤昌益 あんどう・しょうえき

元禄16年(1703)〜宝暦12年10月14日(1762年11月29日)


江戸中期の医師・思想家。
出羽国秋田郡二井田村生まれ。
江戸時代で唯一の徹底した封建制度批判者。
延享元年(1744年)から陸奥国の八戸城下で町医者として開業し、八戸近辺に多くの門人がいた。
万人が生産労働に従事し、自給自足の生活をする自然の世を理想とし、封建社会は支配階級が他人の労働成果を貪る差別の大系であると批判。
また儒教や仏教などの思想を差別と支配を合理化するものとして否定した。
二井田村で没す。


安藤昌益居宅跡碑



安藤昌益居宅跡碑

(青森県八戸市大字十三日町29あたり)





(平成21年11月4日)
安藤昌益居宅跡



安藤昌益居宅跡

(青森県八戸市大字十三日町29あたり)





(平成21年11月4日)

安藤昌益居宅跡

江戸時代中期の医者であり、封建制批判の思想家として知られる安藤昌益(1703〜1762)が居住していた場所である。
生涯のほとんどが不明であるが、八戸藩日記には、延享元年(1744)櫛引八幡宮の祭礼で行われた流鏑馬やぶさめの射手の病気を藩命で診療したことや翌年家老の病気を診療したことが記されている。
また延享3年の宗門改帳によると、昌益44歳で男2人女3人の家族でこの場所に住んでいたことが知られている。

昭和56年11月
八戸市教育委員会

(標柱説明文より)


昌益思想発祥の地



昌益思想発祥の地

(青森県八戸市大字十六日町27・天聖寺)





(平成21年11月4日)
昌益思想発祥の地



昌益思想発祥の地

(青森県八戸市大字十六日町27・天聖寺)





(平成21年11月4日)

昌益思想発祥の地

浄土宗法海山天聖寺の歴史は八戸町の誕生とともに始まる。
八戸の街地がほぼ形成されたのは、江戸時代の初頭、承応年間(1652〜1654)のことであるが、このとき八戸の人々の信仰の拠り所として町の中心部のこの地に建立されたのが当寺である。
所伝によると、往時は、根城にあり、涼雲山善道寺と称し、のち現在地に移転して天聖寺を名乗ったという。
寛文4年(1664)八戸藩が誕生すると、領内「近回り五か寺」の一つに数えられ、燈明料5駄が与えられた。
元禄年間(1688〜1703)には、鐘楼などの諸堂が整備され、城下の町寺として極楽往生を願う人々の厚い崇敬を集めた。
寛保3年(1743)、当寺8世則誉守西は「糠部三十三観音巡礼」を定めて、信仰の道を説いた。

武士が農民を支配する封建社会を激しく批判した思想家として名高い安藤昌益は、ここ天聖寺においてその思想を初めて八戸の人々に語った。
延享元年(1744)12月、八戸にやって来た昌益はここで数日にわたる講演を行った。
参会者は則誉守西、当寺9世延誉擔阿を始め、藩士、藩医、神官、僧侶、商人など八戸の主だった知識人たちであった。
彼らは昌益の話に深い感銘を受け、「大医元公昌益、道の広きことは天外にもなお聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳もなお浅し」と賛辞を贈った。
昌益42歳のときである。
その後、当寺には岡本高茂や神山仙庵、高橋大和守などの檀徒、さらに中居伊勢守、中村忠平、関立竹、上田祐専などといった昌益の門弟が集まり、談論風発して親交を深めた。
やがて、寛延2年(1749)の猪飢渇いのししけかじから始まる飢饉の頻発は昌益を社会批判に向かわせた。
昌益は『統道真伝』や『自然真営道』を執筆しながら、すべての者が「真耕」する平等な社会とは何か、そこにおいて最も人間らしい生き方とはどのようなものか、さらに人間と自然とはどのように相互依存して共生できるのかなどを追い求め、「自然の世」という理想社会の実現をめざした。
宝暦8年(1758)頃、全国の門人が集まり、シンポジュウムが開かれた。
場所は恐らくこの八戸、想像すると天聖寺と思われる。
これに参加した門人は、八戸は神山仙確、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風の6人、他は松前の葛原堅衛、須賀川の渡辺湛香、江戸の村井中香、京都の明石龍映・有来静香、大阪の志津貞中・森映確の7人である。
昌益は八戸に来てから確龍堂良中と号するが、昌益の「良りょう」が八戸の地で到達した最終的思想を門弟に「演」べ、これを門弟の「哲てつ」たちが「論ろん」ずるという形で討論が進められた。
この討論は確門第一の高弟といわれた仙確の手により稿本『自然真営道』巻二十五に「良演哲論」として編さんされた。
仙確とは昌益の号にちなんで名付けられた仙庵の号名である。
昌益はこのシンポジュウムを最後に、15年にわたって過ごした八戸の地を旅立ち、故郷の大館の二井田へ向かった。
このように天聖寺は昌益の八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所であり、昌益思想を独創的に深化発展させるうえで大きな役割を果たした所である。
紛れもなく昌益思想はこの地より発祥したものといえよう。

平成8年10月14日
安藤昌益基金
天聖寺

(説明板より)

天聖寺



天聖寺

(青森県八戸市大字十六日町27)





(平成21年11月4日)

『自然真営道』

八戸藩の町医者だった安藤昌益は、宝暦の飢饉に米の作り手である百姓が飢え死にし、米を作らぬ武士が米を施すという矛盾を見すえて『自然真営道』を書いた。
凶作の原因が東北の気候(特に冷害)にあったとしても、そのために農民が飢えて死ぬという飢饉の直接の原因は、機構よりも武士支配の政治にあった。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月17日追記)


【アメリカ人の評価】

安藤昌益は、アメリカ人の学者が農業中心の世界観を封建的な制約の中で確立したことを評価して有名になりました。
一方、東北大学の浅野裕一教授が安藤昌益の思想は、単に中国の農家思想の焼き写しにすぎない旨を述べています。
儒家、道家、墨家、縦横家などの諸子百家の一つに農家というのもあったのです。
安藤昌益は庶民の救済実践では問題になりません。
実践面からいえば、庶民の飢餓対策を実際に行なった一関の偉人・建部清庵がもっと評価されてしかるべきと思うのです。
安藤昌益の場合はアメリカ人が評価したので、マスコミが大きく報道して世に知られることになりました。

(参考:千坂げんぽう 編著 『だまされない東北人のために〜地域おこしにニセ物はノー!〜』 本の森 2016年6月 初版発行)

(令和2年9月7日 追記)




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