安寿と厨子王の母子像 平成20年4月26日

安寿と厨子王 あんじゅとずしおう

福島県いわき市金山町・金山公園でお会いしました。


安寿姫厨子王母子像



安寿姫厨子王母子像
(福島県いわき市金山町・金山公園)





(平成20年4月26日)

安寿あんじゅと厨子王ずしおうの物語

この母子像はあの有名な森鴎外の小説「山椒大夫さんしょうだゆう」にでてくる姉の安寿(万寿まんじゅ)と弟の厨子王(千勝ちしょう)、そしてお母さんの旅の姿です。
今から約1000年の昔、いわき地方を良くしようとする仕事についていたお父さんの平政道たいらのまさみちは、小山田おやまだ(今の山田町)の桜を見物に行った帰り姥うばヶ岳たけ(近くの水道バックのところ)でおそわれ命を落しました。
次の年、母と子は家来の大村次郎と召使めしつかいの小笹こざさをともなってお母さんの実家のある信夫しのぶ(今の福島市)に逃れましたが、途中大村次郎は追っ手と戦い戦死してしまいました。
主従の一行はお父さんが殺されたことを訴えるためにさらに都(今の京都)へ向かいました。
ところが途中越後えちごの国(今の新潟)で悪者にだまされて母と子は別々の船に乗せられ、安寿と厨子王は丹後たんごの国の山椒大夫という人買ひとかいに売られ、お母さんは佐渡へ売られてしまいました。
召使の小笹は船から身を投げ自殺しました。
安寿と厨子王のつらい生活が3年ほど続きました。
水がぬるみ草が萌える季節がやってきました。
ある日、安寿は自分の身を捨てて厨子王を山椒大夫のところから逃れさせました。
やがて立派に成人し朝廷に仕える身となった厨子王は、人買いを禁止してよい政治を行ない、父の仇あだを出羽でわ神社付近(東田町あずまだまち)で討ちました。
そして盲目もうもくになったお母さんと佐渡で再会をはたしました。
いわき市のこの金山町かねやままちの周辺には安寿と厨子王にまつわるゆかりの地が沢山あります。
親子、姉弟のかたく結ばれた愛情を物語るこの母子像の姿は、永くのちの世まで伝えてゆきたいものです。

平成12年
金山の昔を伝える会

(説明板より)

安壽姫厨子王遺蹟顕彰碑

今から約1千年の昔、平政氏は奥州の賊徒を平定した功によって、朝廷からこの岩城の地を賜わり、岩城判官と号して住吉御所に住んで當地方を治めました。
尚滝尻御所は出城だったと見られます。
政氏はこの地に着任すると間もなくその昔、東北地方平定に来られた日本武尊が、東北鎮護を祈願して建立したと傳えられている鳥見社(この金山台地にあった)が荒れ果てゝいるのを再興したり、付近の浜から砂鉄を運ばせて、良質の粘土の出るこの金山台地で砂鉄工業を興したりして政治に励みました。
その後、政氏は朝廷への勤めに怠りがあったといふことで筑紫の國に流されましたが、幸ひ判官職はその子政道が継ぐことを許されました。
政道も父の志を継いで政治に努力しましたが、その内に政治にゆるみが出たりそれまで領地の一部であった信夫地方を失ったりすることになり、一族に不和が生じました。
そして長和5年という年の春、小山田の櫻狩りの帰り道、この金山の丘で逆臣の手にかゝり一命を落としたのであります。
當時政道には万壽という13才になる女の子と千勝という11才の男の子がありました。
これが安壽姫と厨子王なのであります。
父政道の死後、奥方や安壽姫厨子王母子の身の上にも危険が迫りましたので、奥方は忠臣の大村次郎、召使の小笹を伴ってある夜住吉御所を脱出し、奥方の實家のある信夫を指して逃げたのでありますが、途中追手との戦で大村次郎は戦死しました。
野に臥し山に寝て主従4名はようやく信夫に着いたのでありますが、そこにも長くは居られません。
それに主従4名には岩城家再興といふ仕事があるのです。
京都にのぼることにした4名は、また長い苦労の末に越後の直江の浜に着いたのでありますが、ここで、山椒大夫の手下の者に見つかり、母と小笹とは佐渡への舟に乗せられ(小笹は投身自殺)、安壽姫と厨子王とは別の舟に乗せられて山椒大夫の家に連れて行かれ、あの有名な山椒大夫物語でよく知られている苦しい生活が約3年の間續いたのであります。
そして姉安壽姫の強い勧めで厨子王はたゞひとり、山椒大夫の屋敷を抜け出して念願の京都に出たのでありますが、幸ひに偉い坊さんや立派な人にめぐりあい、數年の後には朝廷に仕える身となり大炊介に任ぜられ、名前も平政隆と命名されました。
厨子王18才の年であります政隆は父を討った逆臣の追討を朝廷に願いましたところ、お許が出たばかりでなく兵3千をも戴きました。
その兵を引き連れて遥々都からこの菊多の郷に参った政隆は、遂に逆臣だちを塩谷城(今の出羽神社附近)で討ち平げ、少年の日の思い出も残る鳥見野に参り、その南方の台地に祭壇を設けて、父や姉に戦勝を報告し併せて将兵の労をねぎらってから京都に帰りました。
政隆はその後丹後の守に任ぜられ、人買いを禁止し、奴隷を開放したりして政治に励む一方、佐渡に渡って盲になって苦しんでいた母を探し出して京につれもどり孝養を盡しましたが、老後はまた岩城にもどり平和な生活を送りました。

昭和49■5月建
安壽姫厨子王遺蹟顕彰会長 成清マサコ
いわき市文化財調査員    岡田實 撰
同市 勿来町          赤津一 書
同市 植田町          有限会社森石材 刻

ゆかりの地解説

小山田 千本桜
厨子王の父・平政道が政道に反対するけらいの勧めで桜見物をしたところ。
塩谷城
東田の出羽神社に続く台地で、厨子王が地方を治めるための国司となってから、亡き父(政道)の敵 村岡重頼を殺したところ。
菖蒲沢
しょうぶ苑の反対側にあり、厨子王が夫反対するけらい達と戦った所。昔は勝負沢といった。
金山原 金具坂
平政氏が岩城判官(今の警察署長のような人)としてこの地に赴任して以来、砂鉄による製鉄工業を開発した遺蹟の地名金山町の旧6号線沿い。
舞台
厨子王が亡き父に反対するけらいを討った後、父政道、安寿の追悼を行ない、一緒に戦った兵士の労をねぎらった所。
姥ヶ岳
逆臣村岡の家来がこの麓にひそみ、政道の桜見物の帰りを襲った所。植田東中学校の東200mの小高い丘の、金山配水池がある所。
愛宕神社跡地
安和元年(968年)の春、政氏が鳥見野台地(金山の昔の名)に、長い間すたれていた社を再建。日本武尊(やまとたけるのみこと)をまつった神社。
太刀洗川
金山町北端を東流する渚川上流の昔の名前で、早稲田バス乗り場の南側を流れている。政道を惨殺した逆臣達が血刀を洗った所。旧6号線の下を横切っている。
のめし沢
政道の遺骸を捨てた所。
滝尻城
泉城ともいう。今の泉の諏訪神社の所にあった。岩城判官政氏(厨子王の父政道の親)が住んでいた城。後に住吉城へ移る。
姫塚
厨子王が姉・安寿姫の遺品を埋めた塚と言われている。
住吉神社
岩城判官家崇拝の神社で、社殿の裏には「星見の井戸」という一対の井戸があり昼間でも星の影が写るという。
住吉山 遍照院
岩城判官の先祖の墓がある香華院(こうげいん)である。政氏の守護仏地蔵尊、奥室守護観音像が保存されている。小名浜三小のうしろにある。
住吉館跡
住吉城または玉川城ともいう。住吉保育所の裏にあり、岩城判官平政氏が滝尻城から移り住んだ城。
小浜町 愛宕神社
「鏡ヶ丘由来記」を伝えた政氏ゆかりの神社で、金山から移った。
小浜町 那智神社
岩城判官の守護神であった神社。

(案内板より)

安寿姫厨子王母子像



安寿姫厨子王母子像
(福島県いわき市金山町・金山公園)





(平成20年4月26日)

 平成21年11月2日

青森県弘前市・市民中央広場でお会いしました。

安寿と厨子王と母の像



「安寿と厨子王と母」の像

(青森県弘前市元寺町1−12・市民中央広場)





(平成21年11月2日)

趣意

この三神一体像は
弘前出身の彫刻家石場清四郎先生が畏友菊池武正氏の芳志を承け 故郷忘じ難く 彫心を霊峰岩木山の神社縁起に得て始めたものである
構想十有余年 先生は まさにこの業を終えようとして平成元年4月16日幽冥界を異にされた
石場ひさ江様並びに御遺族は 業のならざるを惜しみ 故人を良く知る友人たちに 完成を委ねた
爾来
塑像は松波智理雄先生が補い
石膏は青木武次郎氏が復し
鋳造は高原四郎氏が完うした
台座は故人生前の言に従い 万成石を三原建彦氏が調えた
時に
弘前市政は すでに百年を刻み 想いを新たに高く遥かにして 市民に この像を託そうとする
神韻縹緲 ますます広く深く 未知に棹して 永く ともに安からんことを

平成4年11月24日
施主・撰文 弘南バス株式会社
題字     代表取締役会長 菊池武正

(碑文より)




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