元禄11年5月12日(1698年6月19日)〜明和6年10月12日(1769年11月9日)
江戸日本橋小田原町生まれ。
京都古学派の伊藤東涯に入門し実証的な学風を身につける。
町奉行大岡忠相ただすけに見出され、享保20年(1735年)『蕃藷考ばんしょこう』を刊行。
甘藷(サツマイモ)の栽培普及を積極的に進めた功績は大きい。
御書物御用達を経て、元文5年(1740年)将軍徳川吉宗から野呂元丈げんじょうとともに蘭語学習を命じられ、寛保2年(1742年)以降は江戸参府のカピタン一行やオランダ通詞から言語・文化・社会などを学んだ。
延享4年(1747年)評定所勤務。
明和4年(1767年)幕府紅葉山文庫の書物奉行。
昆陽の修得した成果は前野良沢りょうたくに受け継がれた。
青木昆陽先生之碑 (埼玉県さいたま市・大宮公園) 衆議院議員勲一等粕谷義三謹書 (平成18年10月20日) |
碑文
昆陽青木先生ハ元禄11年江戸日本橋ニ生ル
學東西ヲ兼ネ篤行大ニ聞エ偶大岡越前守ノ知ル所トナリ
■サレテ幕府ニ仕ヘ甘藷栽培ノ普及ヲ圖リテ民生ヲ濟フ所多ク甘藷先生ノ名遠近ニ高シ
我縣亦其恵澤ニ浴シ遂ニ特産地トナレリ
我組合ハ先生ノ遺徳ヲ敬慕シ地ヲ氷川公園ニ相シ碑ヲ建テ以テ其徳ヲ頌シ之ヲ不朽ユ傳フト云爾
昭和4年8月 埼玉甘藷商同業組合
顧問正七位勲五等■谷周藏撰併書
※ ■は判読不可能な文字です。
青木昆陽之碑
青木昆陽は、元禄11年今の東京日本橋に生まれました。
学問に優れたうえ、人格高潔であることが大岡越前の耳に入り、幕府に仕えることになりました。
そして、甘藷かんしょ(さつまいも)の栽培を広く普及させた昆陽は、甘藷先生と呼ばれました。
やがて甘藷が県の特産物となり、農業共同組合は、県民の生活が潤うよう努力した昆陽の業績をたたえ、氷川公園(現在の大宮公園)に、昭和4年8月、記念碑を建設しました。
埼玉県大宮公園事務所
(説明板より)
甘藷試作跡 (東京都文京区・小石川植物園内) (平成17年10月1日) |
甘藷試作跡
青木文蔵(昆陽)は、江戸付近でも甘藷(サツマイモ)の栽培ができるならば、利益も大きく飢饉の時の食料作物としても役立つと考え、享保20(1735)年に幕府に進言し許可を得て、この地で栽培を試みました。
この試作は成功し、やがて全国的に甘藷が栽培されるきっかけとなりました。
大正10(1921)年にこの業績をたたえる記念碑が建てられました。
(説明板より)
昆陽青木先生碑銘 (東京都目黒区・目黒不動尊) (平成20年9月15日) |
目黒不動尊 (東京都目黒区下目黒3−20−26) (平成20年9月15日) |
目黒不動
下目黒3−20−26
天台宗で泰叡山たいえいざん竜泉寺りゅうせんじといい、大同3年(808)に慈覚大師じかくだいしが開創したといわれています。
徳川3代将軍家光いえみつが堂塔伽藍どうとうがらんを造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。
境内は台地の突端とったんにあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷どっこの滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。
壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門におうもん、書院、鐘楼しょうろうなどの再建が着々と進められ、「前不動堂まえふどうどう」(都指定文化財)、「勢至堂せいしどう」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。
また、境内には「銅像役えんの行者ぎょうじゃ倚像いぞう」「銅像大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう」(区指定文化財)があります。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽あおきこんようの墓(国の史跡)があります。
昭和61年3月
東京都目黒区教育委員会
(説明板より)
甘藷先生墓 (東京都目黒区・滝泉寺墓地) (平成20年9月15日) |
国指定史跡
青木昆陽墓
所在地 目黒区下目黒3−20−26 滝泉寺内
指定 昭和18年5月1日
江戸中期の儒者。
通称は文蔵。
元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。
幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
彼は8代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文字略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。
また、『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために“甘藷先生”と呼ばれた。
一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。
明和6年(1769)歿。
行年72歳。
昭和62年3月20日建設
東京都教育委員会
(説明板より)
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