新井白石 あらい・はくせき

明暦3年2月10日(1657年3月24日)~享保10年5月19日(1725年6月29日)


江戸中期の儒学者・政治家。
上総国久留里くるり藩士・正済まさなりの子。
名は君美きんみ、字は在中、済美せいび、通称は与五郎、伝蔵、勘解由。
白石は号。
久留里藩などに仕えたのち牢人。
元禄6年(1693年)、朱子学者・木下順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(家宣)の侍講となる。
家宣の6代将軍就任と共に幕政に参画、7代将軍家継を補佐し、「正徳の治」を断行する。
武家諸法度改訂・貨幣改鋳・正徳長崎新例施行・朝鮮使節応接簡素化などを行うが、家継没後に失脚。
のち著述に専念する。
朱子学を基本とし、言語学・歴史学にも長じ、『東雅』『古史通』『読史余論』は代表的著作。
世界史的視野の広さを示す『西洋紀聞』『采覧異言さいらんいげん』『折たく柴の記』『藩翰譜』など今日の藩政史研究の必須書も著わす。


【ロシアについて】

新井白石の著わした『采覧異言さいらんいげん』(1713年)は学術的で、巻一にモスコービア(ロシア)のことが載っている。
全文漢文で、「冬積雪。人皆長大。赤髪晢せき(白)面緑瞳」といった調子である。
ピョートル大帝と北方戦役の新しい消息ももっている。
また、同じ白石の『西洋紀聞』(1715年)にも、モスコービヤのことが載っている。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 大月書店 1978年5月第1刷発行)

(令和元年10月18日 追記)






新井源公之墓

(東京都中野区・高徳寺)




(平成23年7月12日)




新井白石の墓所
(東京都中野区・高徳寺)




(平成23年7月12日)

東京都指定旧跡
新井白石墓

所在地 中野区上高田1-2-9 高徳寺墓地
指定  大正8年10月

江戸中期の朱子学者、政治家。
名は君美きんみ、通称勘解由かげゆ、白石は号。
木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣いえのぶ)の儒臣となり、宝永6年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房まなべあきふさとともに家宣を補佐。
正徳の治を開き、教学と政治の一致につとめた。
武家諸法度改訂、貨幣改鋳、海舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事績である。
享保元年(1716)引退。
学者として特にすぐれ合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。
主著「藩翰譜はんかんふ」「読史余論どくしよろん」「西洋紀聞せいようきぶん」「采覧異言さいらんいげん」「折おりたく柴しばの記」など。

平成10年3月 建設

東京都教育委員会

(説明文より)





高徳寺
(東京都中野区上高田1-2-9)




(平成23年7月12日)



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