荒木又右衛門 あらき・またえもん

慶長4年(1599年)〜寛永15年8月28日(1638年10月5日)


伊賀国生まれ。
父親は藤堂家に仕えた服部平左衛門。
大和国郡山藩松平氏に剣術師範として出仕する。
柳生十兵衛に師事したといわれているが、疑問とする説もある。
寛永11年(1634年)備前国岡山藩池田氏家臣の義弟・渡辺数馬の敵を伊賀上野で討った事件は、「伊賀越の仇討ち」として有名。
藤堂家預けとなったのち、寛永15年(1638年)因幡国鳥取藩池田氏に引き取られたが、急死した。


荒木又右衛門



荒木又右衛門の墓
(鳥取市新品治町しんほんじちょう・玄忠寺)




(平成16年11月18日)

荒木又右衛門

大和郡山藩の剣術指南番をつとめる。
寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起きた。
その後、江戸の旗本にかくまわれた又五郎をめぐって、引き渡しを求める池田家とこれを拒む旗本との対立が熾烈を極め、仲裁に入った幕府も手を焼いた。
荒木又右衛門は、仇討を悲願とする源太夫の兄渡辺数馬を助け、寛永11年11月7日伊賀上野鍵屋の辻において又五郎を迎え討ち、首尾よく本懐を遂げさせた。
この仇討は日本三大仇討の一つとして有名である。
仇討後、藤堂家にあずけられたが鳥取藩の強い希望によって、寛永15年8月13日、鳥取・上野両藩の丁重な護衛の下、数馬と共に鳥取藩へ迎えられた。

鳥取市

(説明板より)


荒木又右衛門の墓石について

 江戸時代の記述には、真中に「秀譽行念禅定門 霊位」 向って右側に「伊州阿拝郡荒木住 荒木又右衛門尉保和生年四十歳」向って左側に「寛永拾五戌寅暦八月廿八日」とありますが、現在では昭和18年の地震で割れたため、「拝郡荒木住」が欠けています。他の所は今も残っています。

(平成20年7月7日・玄忠寺ご住職からのメールより)

(平成20年7月8日追記)


玄忠寺



浄土宗 玄忠寺
(鳥取市新品治町しんほんじちょう





(平成16年11月18日)

荒木又右衛門 住職 記

慶長4年伊賀国荒木村の服部家に生れる。
柳生兵庫助に入門、柳生新陰流の印可を受く。
故郷名の荒木姓を名乗り大和郡山藩の剣術師範役となった。
天正12年、長久手の戦いで池田忠雄かつ公の祖父が安藤直次に刺殺され、池田家と安藤家は不仲となった。
更に寛永7年、岡山藩主池田忠雄公の世継よつぎ(光仲)誕生祝いの最中、河合又五郎が藩主の小姓を殺し安藤家に匿われた。
池田家と安藤家の確執は更に熾烈となり外様とざま大名と旗本の争いに進展、天下を二分しかねない様相を呈した。
幕府が調停に入った途端、忠雄公が急死、岡山藩と鳥取藩の国替えが断行された。
荒木は小姓の兄数馬を助けて又五郎を討ち取り、忠雄公の無念を晴らし、池田・外様大名の面目を立てた。
この事件は伊賀越仇討といい、長久手の戦い以来、45年に及んだ大事件で、荒木はその決着点に立った人物である。
寛永15年8月13日鳥取に入り28日急死。
行年40才

(説明板より)


玄忠寺訪問後記

平成16年11月18日、玄忠寺を訪問した際に団体客と同時の訪問となり、団体客優先の見学のように感じられましたので、「個人客には不向きな場所」とのコメントを過去に掲載いたしましたところ、ご住職から当時の状況の説明のメールをいただきました。
当日は年に一度の十夜大法要の日で、観光客の対応は案内係1名だったため団体客と個人客の両方に対応し切れなかったようです。
現在では案内係も2名で、個人観光客への対応も丁寧に行なわれているとのことですので、過去のコメントを削除すると共にここに訂正文を掲載いたします。
偶然のタイミングの悪さによる誤解から「個人客には不向き」とのコメントを書きましたことをここにお詫び申し上げます。

また、ご住職のメールによりますと、今年(平成20年)9月27日には荒木又右衛門370年祭を企画(法要・講演会)しているそうで、市民を挙げて遺徳の顕彰を行なうとのことです。

(平成20年7月8日追記)


玄忠寺ご住職様提供の資料より

玄忠寺

永正5年(1508)開創、浄土宗の寺。中国地蔵尊霊場第30番札所。境内には、日本三大仇討の1つ、伊賀越仇討の剣豪荒木又右衛門の墓や遺品館がある。荒木又右衛門遺品館には、決闘で実際に使用した大刀(2尺7寸5分 藤原来金道作)、鎖かたびら(鋼鉄製防具)、仇討始末書(決闘の顛末を詳細に記載)を始め、錦絵や古文書など多数の遺品資料が展示されている。また、庫裏には、墨一色で伸びやかに描かれた羅漢襖絵があり、方言を交えたガイドの説明も味わい深く、四季折々の風情が楽しめる鶴亀の庭など見所がある。

拝観料金、遺品館・羅漢堂 300円 (15名以上団体割引 250円)
拝観時間 9時〜16時
休館日 1/1〜3、春分の日、御忌(4月頃)、8/12〜15 8/20 秋分の日 十夜(11月頃)
    (御忌と十夜の日程は、お寺にお問い合わせください)
駐車場 無料 (第1、第2駐車場あり)
鳥取砂丘より車で10分程の距離。
関連情報、現在、鳥取砂丘で砂の美術館が開催されています。期間は来年1/3まで。兵馬俑やタージマハルなど11点のアジアの世界遺産が砂丘の砂で作られています。9月から第2期展示替えもありますので、砂丘にお立ち寄りの際は、ぜひ当寺にもお越し下さい。

(平成20年7月7日のご住職からのメールより)

玄忠寺

玄忠寺は、浄土宗に属し、法然上人の教えを信奉し、ひたすら口称念仏を修し、生きるしあわせを体得する道場である。
本尊は、上品下生の立像・阿弥陀仏(恵心僧都作)。
永正5年(1508)、深心大忠和尚が、鳥取城西の門外に開創。
元和2年(1616)、城下町の薬弦堀と袋川の接地点、中島に移転。
寛永15年(1638)、荒木又右衛門を当寺に祀る。
万治3年(1660)当寺類焼し現在地に移転。
7代住職は、名僧祐天上人(将軍家宣家綱の法匠)の叔父。
明和5年(1767)、当寺は、14代住職が、柞戸御所に昇殿説法するなど、諸般の実績によって中本寺の寺格を得た。
寛政12年(1800)建造物は焼失。
文化4年(1807)本堂再建。
庫裏(14間×6間半)は、秋里屋藤右衛門が寄進。

(『荒木又右ヱ門遺品館と羅漢堂』リーフレットより抜粋)

剣豪 荒木又右衛門遺品館(玄忠寺)

荒木又右衛門は、伊賀上野の荒木村に生まれ、柳生新陰流の奥義を受けてのち、大和郡山藩の指南役をつとめていた。
寛永7年(1630)岡山藩主、池田忠雄公の小姓、渡辺源太夫が河合又五郎に殺害された。
又五郎は旗本の安藤家に逐電。
又五郎の身柄をめぐって、旗本と外様大名の対立が深まり、当時の社会を二分するような険悪な事態となった。
折りしも池田忠雄公が急死。
調停に苦しんだ幕府は、幼君を擁する岡山藩を鳥取へ国替えさせた。
しかし、それでは主君の意は晴れないと、鳥取藩は、源太夫の兄、渡辺数馬に義兄の荒木又右衛門を助太刀させ、上意討を断行。
寛永11年、荒木らは、伊賀上野の鍵屋の辻で見事又五郎を討ち取り、4年後、鳥取に迎えられ、大名側の面目をたてた。
その偉業を讃え、「事をなす」と「なすび」をかけて、初夢のルーツとなっている。
なお、当館では、又右衛門の所持品、錦絵、古文書など数百点を展示している。
また、当寺には、又右衛門の墓がある。

(『剣豪荒木又右衛門遺品館』のチラシより抜粋)

剣豪 荒木又右衛門

荒木又右衛門は、慶長4年(1599)伊賀国上野服部郷荒木村(三重県上野市・現在は伊賀市)服部はっとり平左ヱ門の次男として生まれ、幼名を丑うし之助といった。
11才の時、父が淡路の藩主池田忠雄ただかつに仕え、丑之助も小姓をつとめた。
その翌年、同族の服部平兵ヱの養子になったが、25才のころ養家を去って荒木村に帰っている。
このころ、丑之助は、柳生宗矩むねのり又右衛門に剣術を学び、師名の又右衛門を授さずかり、故郷名荒木を合わせて荒木又右衛門と名乗ったと伝えられている。
荒木又右衛門は、29才のとき大和郡山藩の剣術指南役を務めていた。
その11年後、日本三大仇討あだうちの一つ、伊賀越いがごえ仇討を成し遂げて有名になった。

伊賀越仇討の要因
@天正12年(1584)羽柴秀吉徳川家康が、雌雄を決する長久手戦が行なわれた。
この時、池田忠雄の祖父、池田恒興つねおき(鳥取、岡山池田家の祖)が、秀吉軍の武将として参戦したが、家康の旗本、安藤直次なおつぐに刺殺された。
主君を殺められた池田家にとって、安藤家に対する遺恨いこんは強いものであった。
A元和2年(1616)江戸において、安藤重信しげのぶ(直次の弟)の家臣、河合半左ヱ門が同僚を殺害して追われ、備前岡山藩主池田忠雄の行列に助けを求めた。
追手が安藤家と知った忠雄は、半左ヱ門の身柄を求める安藤の要求を拒絶して、岡山へ連れて帰ってしまった。
その14年後、
B寛永7年(1630)池田忠雄の世嗣よつぎ(光仲)が誕生し、藩を挙げて祝事が催された。
その最中、河合半左ヱ門の息子、又五郎が藩主の小姓渡辺源太夫(数馬の弟、荒木又右衛門の妻の弟)を殺害した。
息子の処罰を懼おそれた半左ヱ門は、又五郎を池田家と不仲の安藤家に匿かくまったため大事件となった。

[外様大名と旗本の確執かくしつ]
徳川の政策は、旗本を支配組織の核心におき、外様とざま大名には経済的基盤を持たせたが、権力と財力を合わせ持たせない方策をとったため、旗本は「われらは徳川の土台を築いた家臣、中途で徳川になびいた大名ども、広い領土を持ってけしからん」と息巻いきまき、大名側は「徒卒とそつ同然の旗本ども、三河以来を鼻にかけて」といって、大名と旗本双方の不満がつのり、一触即発の険悪けんあくな雰囲気を醸かもしていた。

その時、大名側の岡山藩で小姓こしょう殺害事件が起った。
又五郎の身柄引き渡しを求める池田家と絶対に渡さないとする安藤家、両家の確執が、外様大名と旗本と面子めんつをかけた争いとなった。
特に、寛永8年8月、旗本が「河合半左ヱ門を安藤家に届ければ又五郎を渡す」といってきた。
池田家は、仲介人を信じ、半左ヱ門を岡山から連れて旗本屋敷に届けた。
しかし、旗本は「又五郎が逐電ちくでんし行方不明、監督不行届きで申し訳ない」といって親子とも奪うばい取ってしまった。
愚弄ぐろうした旗本に激怒した池田忠雄は「半左ヱ門か又五郎を渡すまでは登城しない」と幕府に訴えたから大変。
池田忠雄は、徳川家康の孫。
家格は、徳川御三家に次ぐ重要ポスト。
縁戚には、蜂須賀はちすか小六(忠雄の妻の父)伊達政宗(忠雄の妹婿むこ、忠宗の父)など音に聞こえた剛ごうの者がいて何をするかわからん。
これら外様大名と旗本の狭間で苦悩した幕府は、妥協案として、寛永8年11月、旗本側に匿かくまわれた河合半左ヱ門を、備中松山藩主池田長幸に預けることを決めた。
ところが、

寛永9年  正月  二代将軍徳川秀忠(忠雄の叔父)が逝去。
同年  4月3日  池田忠雄「又五郎の首を墓前に供えよ」と遺言を残して急死。
同年  4月7日  池田長幸急死。
同年  6月18日  岡山池田藩と鳥取池田藩の入替え国替くにがえの幕命下る。

半左ヱ門の預け話は、将軍の死で喪明もあけまで据置すえおき、ところが忠雄の急死、池田長幸の急死、そして国替え。
間髪入れないこの事態に、旗本びいきの幕府の策謀がみえる。
案の定、伊達政宗は怒った。
伊達政宗の行列の供とも先を横切った旗本の侍に縄なわをうち、衆人環視しゅうじんかんしの中を小突き回し、首を打ち落とした事件があった。
事態の急をさとった幕府は又五郎を江戸から追放した。

荒木又右衛門 発
寛永10年(1633)4月26日、荒木又右衛門(以下荒木という)は、忠雄の遺言によって、上意討ちという大義名分をもって、義弟渡辺数馬と荒木の家来2人、計4人で又五郎の探索たんさくに発った。
寛永11年11月5日、江戸に下る又五郎一行を奈良で発見。
一行は11人。
その中には、槍の名手桜井半兵衛、大和郡山藩で荒木と共に剣術師範をした河合甚左ヱ門もいた。
荒木は、故郷の伊賀上野、鍵屋かぎやの辻で一行を待ち受けた。

鍵屋の辻の決闘
11月7日、早朝、又五郎一行が来た。
斥候せっこう役が通過、荒木らは一斉に躍おどり出た。
荒木は、馬上の河合甚左衛門の足を斬りつけ、馬の股ぐらを潜くぐって落馬する甚左衛門を一撃のもとに倒した。
家来の岡本武ヱ門は桜井半兵衛に、岩本孫右衛門は槍持ちに斬りかかって半兵衛に槍を取らせない。
そこに荒木が駈けつけ半兵衛を倒した。
その間およそ30分。
数馬が又五郎を討ち果たすまで6時間、その間、荒木は、数馬に弟の仇と主君の上意討を果たさせるため、手出しせず見守っていた。
多勢に無勢、如何に制すか、荒木の力量が問われる一戦であった。
すべて荒木の計算通り、美事に主君の意を晴らした。
討死したのは、河合方4人、荒木方は、家来の岡本武ヱ門1人。

仇討後の荒木又右衛門
仇討後、荒木ら3人は、伊賀上野の藤堂家で3年4ヶ月厚遇された。
その間、鳥取藩は、幕府に荒木らの鳥取入り交渉を重ねた結果、鳥取入りが決まった。
寛永15年(1638)8月7日、藤堂家の武装団270名に守られて伏見まで送られ、伏見から先は鳥取から差し向けた160人の武勇に守られ、8月14日、鳥取に到着した。
しかし、荒木は、到着後14日目寛永15年8月28日、40才で没した。
荒木又右衛門亡き後の荒木家は、荒木の言葉通り、鍵屋の辻で討死した家来、岡本武ヱ門の子庄助を、娘まんの婿むこ養子に迎え、以来、今日まで11代が継承されている。

後日譚余話
荒木の突然の死について、巷ちまたでは、過労死、切腹、毒殺、謀殺ぼうさつ、果ては隠匿いんとく生存、替玉かえだまなど諸説があり、真相は定かでない。
鳥取の古文書「因幡いなば民談記」に、この事件について三行だけ記され、後は空欄くうらん(この文書の中、空欄の箇所はこの部分だけ)になっている。
鳥取藩にとっては、大事件でありながら多くは語られていない。
そこには公表できない事情があったことが窺うかがわれる。
●ともかく、伊賀越仇討事件は、長久手戦に端たんを発し、荒木ら一行の鳥取入りまで旗本と外様大名と天下を二分しかねない確執を背景とした54年間にわたる超大型仇討ちであった。
面子にかけて又五郎を討たせないとする旗本、主君の意を晴らすため絶対に討ち取ろうとする外様大名、その外様大名側の戦士として、荒木は仇討ちを成し遂げたのである。
藩主を失い、国替までさせられた外様側の傷は大きい。
しかし、又五郎を討ち取られた挙句あげく、その張本人ちょうほんにんに鳥取入りされた旗本の面目は丸潰まるつぶれである。
ここに、両者の損害意識のバランスがとれて日本の二分化は避けられた。
その意味で、荒木の存在および鳥取入りの意義は大きい。
●作家村上元三氏が墓参し、「荒木は群を抜いた人物だったんですね、凡庸ぼんような人間では、鳥取入りするまでに見も心も擦り切れてしまう」と語っていた。
荒木は、精神面だけでなく、彼の愛刀「来金道らいきんどう」から割り出してみると、6尺に余る大男である。
(荒木は、伊賀忍者服部半蔵の一門であるが、大男のため忍者には適さなかったという)。
また、若くして藩の剣術指南役を任された剣士であって、まさに心、技、体を備え、剣豪にふさわしい人物であった。
日本三大仇討とは、一は冨士の裾すそ野の曽我そが兄弟、二は浅野の紋の鷹たかの羽ぶつ違い(忠臣蔵)、三は伊賀であだなす又右衛門。
「初夢や一冨士二鷹三茄子なずび」のルーツである。
身を挺ていして親のため、藩のため、国のため、大事を成し遂げた快挙かいきょに対する賞賛が、大衆の願望(夢)に転化された句である。

〔寸言〕
ある文芸者(?)が、伊賀越仇討ちは、池田忠雄が寵ちょう臣を殺された怒り、男色だんしょく問題が原因と著述している。
おそらく長谷川伸あたりの受け売りだろうか。
古文書にはそんな記録は全く見当たらない、雑談ならともかくも。
この事件は、もっと深いところに原因がある。

(参)
平成7年7月、寛永9年お国替以前の秘蔵「岡山古地図」を拝見した。
(所有関係者は、未だ、渡辺、河合の両宅を把握はあくしておられず、拙者が指摘しておいた)
この地図から、両家の間は4軒であることがわかった。
渡辺源太夫殺害は隣となり近所の若者同士の喧嘩とも考えられる。

池田忠雄の怒りの原因について、次の5点を挙げることができる。
1.祖父を殺めた安藤家に対する池田家一門の遺恨。
2.恩を仇で返した河合半左ヱ門に対する憤り。
3.藩の祝慶日を血で穢けがした怒り。
4・藩主の護衛役(小姓)を殺めた河合又五郎の罪科。
5.外様大名と旗本の確執。

(平成9年6月1日発行・玄忠寺住職田中芳兼著『剣豪 荒木又右衛門』360年祭記念冊子より著者の承諾を得て転載する)

荒木又右衛門略譜
慶長 4年(1599) 伊賀国服部郷荒木村で荒木又右衛門誕生
服部平左衛門の次男
 
慶長 5年(1600)   関ヶ原の戦い
慶長13年(1608)   姫路城完成
慶長14年(1609)頃 荒木、池田忠雄(淡路時代)小姓 徳川頼房を水戸に封ず(水戸家)
慶長15年(1610)頃 荒木、服部平兵衛の養子となる 名古屋城着工
慶長19年(1614)   高山右近国外追放
元和元年(1615)   大阪夏の陣
元和 2年(1616) 安藤重信の臣河合半左衛門(又五郎の父)
伊能五郎左衛門を斬る
徳川家康没す(75歳)
元和 8年(1622) 荒木、服部平兵衛のもとを去り荒木村へ  
寛永 4年(1627)頃 荒木、大和郡山の松平忠明へ仕官  
寛永 7年(1630) 6月18日
池田忠雄の嫡子、光仲誕生
7月21日
河合又五郎が渡辺源太夫を殺害
キリスト教関係書物の輸入禁止
寛永 8年(1631) 江戸で池田家と旗本の交渉が続く  
寛永 9年(1632) 1月24日
前将軍徳川秀忠死す
10月
鳥取、岡山の池田家国替え
駿府城主徳川忠長を上野に配す
熊本城主加藤忠広を庄内に流す
嘉永10年(1633) 3月24日
荒木、渡辺数馬と又五郎探索に発つ
六人衆(若年寄)設置
海外渡航者の帰国を制限す
寛永11年(1634) 11月7日
伊賀上野の決闘
譜代大名の妻子を江戸に置く
中江藤樹、伊予より近江に帰る
寛永12年(1635) 10月24日
荒木、戸波又兵衛に入門
参勤交代制の確立
寛永14年(1637)   島原の乱
寛永15年(1638) 8月7日
荒木ら伊賀より伏見へ引き渡し
8月14日
荒木ら鳥取着
8月28日
荒木又右衛門死す(40才)
 
寛永16年(1639)   ポルトガル人の来航禁止
鎖国を断行
寛永19年(1642) 12月2日
渡辺数馬死す(35才)
諸国飢饉
寛永20年(1643)   天海没す(108歳)
寛文 8年(1666) 6月24日
岩本孫右衛門死す(73才)
山鹿素行、赤穂に配流
延宝元年(1673) 6月2日
荒木の妻みね死す
市川団十郎、江戸に歌舞伎を開く

(参考:玄忠寺住職田中芳兼著『剣豪荒木又右衛門』・他より)

剣豪と羅漢の寺 鳥取 玄忠寺


玄忠寺には、日本三大仇討の1つ、剣豪・荒木又右衛門の墓と遺品館がある。


位牌(中央荒木又右衛門)   くさりかたびら(鋼鉄製)          元服当時の肖像

遺品館には、決闘で使用した大刀(2尺7寸5分)や鎖帷子など、多数展示がある。
位牌も2尺の立派なもの、怨親平等の精神で、又右衛門と敵味方双方の位牌を祭っている。


    遺品館内部                  決闘で使用した大刀

庫裏には、方言で味わい深く語りかける羅漢襖絵がある。

ようこそ ようこそと語りかける羅漢さん。
44枚の襖に墨一色で伸びやかに描かれている。

癇癪玉は、玉といって宝だから、滅多に出さないように大切にというが、怒ってしまう自分。

ええだないか百拙百味。
どんなものにも味がある。
まずいと悩むのもいいが、前向きに生きよう。

鼻が下を向いとるで有難いぞな。
雨降りの時、鼻の穴が下を向いているからありがたい。
当たり前に感謝



四季折々楽しめる庭など、見どころがある。



玄忠寺の庭
7月下旬から8月に白い蓮が咲いてきれいです。
泥の中から汚れなき白い蓮が咲くのは、本当にすばらしいことです。
煩悩があるからこそ仏の慈悲は広大ですべての人を救うというたとえ。



荒木又右衛門の墓には、金網が張ってあります。
昭和18年の鳥取大震災で墓が倒れた時、石が3つに割れたため、修復したものです。
墓石をお守りにして削ったという話がありますが、単なるうわさ話のようです。
墓石の中央に戒名、秀譽行念禅定門、右の石の割れ目に俗名、荒木又右衛門保和、
左手に寛永十五年八月二十八日、と書いてあります。
享年は40歳です。



(ご住職作成資料より)

(平成20年7月8日追記)


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