有栖川宮熾仁親王像 平成18年7月25日

有栖川宮熾仁親王 ありすがわのみや・たるひとしんのう

天保6年2月19日(1835年3月17日)〜明治28年(1895年)1月15日

東京都港区南麻布・有栖川宮記念公園でお会いしました。


有栖川宮第9代。
嘉永2年(1849年)親王宣下で熾仁の名を受ける。
元治元年(1864年)国事御用掛。
同年の禁門の変で謹慎処分を受けたが、慶応3年(1867年)王政復古により総裁に就任。
翌年の戊辰戦争では東征大総督。
明治8年(1875年)元老院議官、のち議長。
明治10年(1877年)西南戦争で征討総督となり、その功により陸軍大将となる。
明治15年(1882年)露国皇帝即位典礼に参列して欧州各国を歴訪。
明治18年(1885年)内閣制度の発足にともない、参謀本部長となり、のちに近衛都督を兼任。参謀総長も務める。
日清戦争では陸海全軍の総参謀長となる。


有栖川宮熾仁親王騎馬像

有栖川宮熾仁親王騎馬像

(東京都港区南麻布5−7−29・有栖川宮記念公園)

熾仁親王薨去の後、大山巌山県有朋西郷従道などの提唱で、三宅坂の参謀本部前に騎馬像が建立された。
太平洋戦争後、有栖川宮記念公園に移築された。



(平成18年7月25日)
有栖川宮熾仁記念公園説明碑




有栖川宮記念公園説明碑






(平成18年7月25日)

有栖川宮熾仁記念公園

位置 港区麻布盛岡町広尾町
面積 35,601・12平方米
開園 昭和9年11月17日

沿革

この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治29年有栖川宮家の御用地となり、大正2年高松宮殿下がこれを受けつがれた
殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが、昭和9年1月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄附されたのがこの公園である
本部はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手
同年11月これを完工し広く都民に開放したものである

東京都

(碑文より)


【有栖川宮熾仁親王】

熾仁親王は、孝明天皇の妹・和宮かずのみや親子ちかこ内親王(静寛院宮せいかんいんのみや)の婚約者だった。
しかし公武合体策から、婚約は破棄され、和宮は14代将軍・徳川家茂いえもちのもとに嫁ぐ。
そのためかどうか定かではないが、熾仁親王は攘夷論者として早い時期から倒幕を志し、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、自ら東征大総督として東下した。
維新後の熾仁親王は、総裁職、兵部ひょうぶ卿、福岡藩知事、元老院議長、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、参謀本部長、近衛都督ととく、参謀総長といった顕職を歴任。
明治天皇がいちばん信頼をおいた皇族だったといわれる。
大本営参謀長として広島出仕中に腸チフスに罹患し、新築したばかりの有栖川宮舞子別邸(現・シーサイドホテル舞子ビラ神戸)で静養中、明治28年1月に死去している。

明治36年、有栖川宮熾仁親王像が参謀本部正門前(跡地は国会前庭北地区洋式庭園)に建てられた。
銅像は、戦時中の金属供出や敗戦後の“軍国主義の銅像撤去”の荒波をくぐり抜けて残ったが、昭和30年代後半、移転を余儀なくされた。
東京オリンピックという現代の錦旗きんきには勝てなかったのだ。
有栖川宮熾仁親王の騎馬像は、道路拡張のためという理由で昭和37年に旧参謀本部敷地から移され、現在は三宅坂から南西に3.5キロ離れた広尾の有栖川宮記念公園に、来歴を示す碑文など一切ない状態で、所在なげに立つ。

(参考:竹内正浩 著 『戦争遺産探訪 日本編』 2007年7月 第1刷 文春新書)

(平成27年12月23日・追記)


【参謀総長】

有栖川宮熾仁親王が死去したのは日清戦争の最中だが、親王は明治25年頃から、健康上の理由で何度も参謀総長辞任を願っていた。
しかし、天皇はそれを許さず、日清開戦直前の明治27年5月には親王を呼び、直接、「明治29年までは在任してもらいたい」と申し渡す。(『熾仁親王日記』27年5月10日)
親王の健康状態は相当悪く、天皇もそれをよく知っていたが、清国との関係が緊迫している状況のなかで、親王が参謀総長の職から去ることはなんとしても避けたかったのだ。
天皇の熾仁親王への信頼はこのように厚かった。

(参考:浅見雅男 著 『皇族と帝国陸海軍』 文春新書 2010年9月第1刷発行)

(平成28年12月10日 追記)


トコトンヤレ節(宮さん宮さん)

トコトンヤレ節は品川弥二郎が作詩しました。
師である吉田松陰を罪人として処刑した徳川幕府を恨み、倒幕を「トコトンヤレ」と囃はやしたてた歌を作ったといいます。
現在伝えられている歌詞には何種類かあるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
ちなみに作曲は大村益次郎であるといわれています。

宮さん宮さん 御馬おんまの前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵ちょうてき 征伐せいばつせよとの 錦にしきの御旗みはたじゃ知らないか
トコトントンヤレ トンヤレナ

一天万乗の 一天万乗の 帝王みかどに手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ トンヤレナ

音に聞こえし 関東武士さむらい どっちに逃げたと問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ


この曲は日本で最初の軍歌といわれています。
”宮さん”は東征大総督の有栖川宮熾仁親王を指しています。


供養塔

故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊
故近衛師団長陸軍大将大勲位功三級北白川能久親王尊霊
明治二十七八年没戦病死者
貳萬壹千四百貳拾四名 霊
供養塔

(長野県長野市・善光寺)



(平成20年10月28日)

日清戦争戦没者供養塔

明治27・28年の日清戦争において戦病没せる二万一千四百二十四名の兵士と有栖川宮・北白川宮の供養塔であります。

建立 明治35年(1902)9月
善光寺

(説明板より)

善光寺



善光寺

(長野県長野市元善町)





(平成20年10月28日)



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