平成23年8月6日

安積艮斎 あさか・ごんさい

寛政3年3月2日(1791年4月4日)~万延元年11月21日(1861年1月1日)

(1791年~1861年3月30日との説もあり)

福島県郡山市・安積国造神社でお会いしました。


江戸後期の儒学者。
名は重信、字は思順、別号は見山楼けんざんろう
父は陸奥国安積郡郡山の神主・安積親重。
江戸に出て佐藤一斎の学僕となり、ついで昌平黌しょうへいこうの林述斎の門人となる。
のち、神田駿河台に私塾・見山楼を開く。
陸奥国二本松藩儒官を経て嘉永3年(1850年)に昌平黌儒官となり、人材を育成。
詩文に優れ、「艮斎文略」により名声を得た。
幕末期には対外問題に関心を持ち『洋外紀略』などを著わした。






艮斎先生之像
(福島県郡山市・安積国造神社)




(平成23年8月6日)

碑文

安積艮斎先生ハ安積國造神社ノ祠官安積親重ノ子其ノ家系安積國造ニ繋カル
十七歳立志江戸ニ上リ佐藤一斎ニ就テ力学シ更ニ林述斎ニ従遊ス
学大ニ進ミ盛名卓然関左ヲ風靡ス
二本松藩ニ仕へ後幕府ノ儒官トナリ其師一斎ト共ニ昌平黌ノ教授タリ
昌平黌ハ俊秀ノ府維新前後先生及門ノ士ニシテ其名ヲ成シタルモノ頗ル多シ
先生宋学ヲ主トスルモ必スシモ拘泥セス其ノ文章暢達明快自ラ一家ヲ成ス
人ヲ誨ヘテ倦マス性山水ヲ愛シ富貴利達見テ浮雲の如シ
寔ニ一代ノ通儒ト謂フヘシ
萬延元年昌平黌ノ廨舎ニ逝ク
享年七十

昭和二十八年十月廿二日
   火國後学蘇■九十一撰
     静峯塩崎彦書




「昌平黌教授贈従四位艮斎安積先生誕生地」碑

(福島県郡山市・安積国造神社)

大正五年十月建

平成22年6月重修

(平成23年8月6日)




安積国造神社

(福島県郡山市清水台1-6-23)




(平成23年8月6日)

ご祭神

和久産巣日神わくむすびのかみ
若々しい生成力を持つ神様。
伊耶那岐命いざなぎのみこと・伊耶那美命いざなみのみことの神生みにおいて、尿ゆまりより生成した神様。
『日本書紀』に、頭かしらの上に蚕と桑が生り、臍ほその中に五穀が生ったとある。
伊勢神宮の外宮の御祭神豊受大神とようけのおおかみは、御子神みこがみ

天湯津彦命あまゆつひこのみこと
邇芸速日命にぎはやひのみことが天磐船あめのいわふねに乗られて河内国河上の哮峰いかるがみねに天降りされた時、従われて降臨された神様。
比止禰命の御祖神みおやのかみ

【比止禰命ひとねのみこと
天湯津彦命の十世孫。
第13代成務せいむ天皇5年、勅命により阿尺国造あさかのくにのみやつこに任ぜられた。
安芸の国から未開の当地へ赴かれ、社稷しゃしょくの神様として和久産巣日神、天湯津彦命を赤木山に祭られ、阿尺の国を開かれた。

誉田別命ほんだわけのみこと
第15代応神天皇、八幡大神はちまんおおかみと称え奉る。
坂上田村麻呂東征の砌みぎり、国造神社くにつこじんじゃに奉祀ほうしされた。
天和3年現在の鎮座地へ奉遷ほうせんされた。
安産、子供の成長、厄除け、交通安全などのご神徳が著しい。

倉稲魂命うかのみたまのみこと
稲荷大神いなりおおかみ
中世の領主安積伊東氏領主城内(現在の陣屋)に鎮座されていたが、天和3年現在の鎮座地に奉遷された。
五穀豊穣、商売繁盛の神様。

ご由来

天湯津彦命十世孫比止禰命は、第13代成務天皇5年、勅命により阿尺国造に任ぜられ、安芸国から当地へ赴かれた。
比止禰命が、国郡の範囲を定められ、赤木山(現在の赤木町)に安積国の神として和久産巣日神(穀神)、天湯津彦命(祖神)をお祭りしたのが本神社の起源である。
阿尺国は郡山市および旧安達田村両郡を領し、大領として位置づけられていた。
比止禰命は、未開の荒野を開かれ、田園を拓き農桑牧畜の業を奨励、善政を敷かれた。
第20代安康天皇2年、比止禰命は赤木山のお社に合祀され、国造神社と号した。
延暦年中、坂上田村麻呂は、東征の砌、国造神社に宇佐八幡大神を合祀し、軍旗と弓矢を奉納した。
永承年中、源頼義東征の折、当社に戦勝祈願し「幕内」の地名を付した。
寛治元年(1087)、源義家東征の際、神領を寄進された。
天和3年(1683)、八幡大神が国造神社から、稲荷大神が中世安積領主伊藤摂津守城内(稲荷舘から)現在の清水台の鎮座地に奉遷され、八幡宮、稲荷大明神として崇敬された。
明治5年(1872)、赤木山に鎮座されていた国造神社は清水台の鎮座地へ奉遷され、三社を総称して安積国造神社と号した。
古来郡山の総鎮守として尊崇され、旧社格は県社に列せられた。

(説明板より)




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