4.カウラを巡る

(ビジターズセンター・日本人墓地・カウラ捕虜収容所跡・カウラ日本庭園~キャンベラ)


平成26年(2014年)4月29日・第4日目

朝起きたら、部屋の前に車が停まっていた。
屋根には四方八方にカメラが装着されている・・・・

この車は、あの「グーグル」の地図にあるような「ストリートビュー」の映像を撮影する車ではなかろうか?
会社は「グーグル」じゃないから、別の、そういう地図サイトのものだろう。
へぇ~・・・・こういう車で撮影しているんだぁ~

午前7時少し前・・・・朝食まで時間があるので、モーテルの周囲を撮影する。

モーテル モーテルの前の街路樹

道路の木が真っ赤に色づいていて綺麗である。
う~ん・・・・秋だなぁ~・・・4月だけど・・・(笑)

 「COUNTRY COMFORT」

ホテルの看板を見たら・・・・
「モーター・イン」と書いてある。
「モーテル」とは呼ばないらしい・・・・(汗)
その上に「カントリーマン」の文字が・・・・
「カントリーマン」というのは「田舎者」っていう意味じゃなかったっけ?(苦笑)
こういう場合は、下手に日本語には訳さないほうがよさそうである。(大笑)
田舎者の宿泊所・・・ではねぇ~(大笑)

 朝食

部屋もシンプルで広かったし、朝食も美味しかった。
モーター・インのおばさんも明るくて親切な人だったし・・・・
ここ・・・良かったなぁ~(喜)

チェックアウトして最初に向かったのは、街の中にある「世界平和の鐘」である。

「世界平和の鐘」

AUSTRALIAN CHAPTER
OF THE WORLD PEACE BELL
DEDICATED TO WORLD PEACE
IN THE PRESENCEOF
HIS EXCELLENCY REAR ADMIRAL
PETER SINCLAIR
AC AO GOVERNOR OF N.S.W.
ON WORLD PEACE
DAY 15 SEPTEMBER 1992.

(プレートより) 

Australian Chapter of the World Peace Bell
Re-dedicated to World peace in the presence of
Her Excellency Professor Marie Bashir AC CVO
Governor of New South Wales

World’peace Day
18 September 2012

(プレートより)

WORLD PEACE BELL

THE BELL IS A REPLICA OF THE  ORIGINAL
WORLD PEACE BELL WHICH IS LOCATED IN
THE INNER COURT OF THE UNITED NATIONS
HEADQUARTERS IN NEW YORK.

LIKE THE ORIGINAL.THIS BELL IS CAST FROM
MELTED DOWN COINS AND MEDALS OF MEMBER
COUNTRIES OF THE UNITED NATIONS IN THE HOPE
THAT WARLD PEACE WILL BE REALISED.

COWRA WAS CHOSEN BY THE AUSTRALIAN GOVERNMENT
AS THE SITE FOR THE AUSTRALIAN WORLD PEACE BELL
IN RECOGNITION OF ITS UNIQUE CONTRIBUTION
TO INTERNATIONAL UNDERSTANDING.PROMOTION OF
PEACE AND AS A CENTRE OF WORLD FRIENDSHIP.

(プレートより)

英文の説明板に色々書いてあった。
この鐘はレプリカで、オリジナルは国連本部に置いてあるとか・・・
そういえば、30年前に国連本部を独りで訪問した時に、日本の鐘を見たような記憶がある・・・
各自、鐘を突いて平和を祈願する。

 カウラの町の中

時刻は9時過ぎ。
次に向かうのは「ローズ・ガーデン」という場所だそうだ・・・・
「バラ園」??
バラの花を見に行くのか?(汗)

 ビジターズセンター

行って見たら、「ローズ・ガーデン」に隣接して、「ビジターズ・センター」がある。
そこにカウラ捕虜収容所に関するミニ資料館があるそうで、そこを見学するのだそうだ。
そうだよねぇ~・・・・朝からバラの花を見学するような趣味はないよな・・・オッサンたちのツアーだもん・・・(大笑)

資料展示室の内部にはホログラム・シアターもあった。
ホログラムで現われる女の子がカウラ捕虜収容所について解説してくれるのだが・・・・
当然、すべて英語である。(大汗)
でも、まぁまぁ何とか意味はわかった。(苦笑)

 ホログラム・シアター

このホログラムシアター・・・・
東京のどこかの郷土博物館で見たことがあるのだが、どこで見たのか思い出せない・・・(涙)
葛飾区だったのか、台東区だったのか、江東区だったのか・・・
すごいもんだと思ったが、こんな田舎町(失礼!)の小さな資料展示室でもお目にかかれるとはねぇ~
やっぱり、オーストラリアは先進国か?(大笑)

ここには、本なども販売されていたので、カウラに関する本を3冊ほど購入する。
英文の本だが、辞書を片手にボチボチ読めば何とかなるんじゃなかろうか?(汗)
それにしても、どうして英文の本というのはこんなに分厚いのかねぇ~(汗)
アルファベット文字を5個も6個も繋げてようやく一つの単語・・・・という有様だから自然と文章が長くなりボリュームが多くなるのかもしれないな・・・・
そう考えると、日本の「漢字」というのは大したものだと思う。
ついでに「文庫本」というのも大したものだと思う。(笑)

お土産物コーナーで、カウラのステッカーを見つけた!(大喜)
スーツケースに貼ろう!(大喜)

時刻は9時50分・・・・次は10分程度走って、「日本人墓地」に向う。

 JAPANESE WAR CEMETERY

赤や黄色の落ち葉の絨毯・・・・フサフサした参道を歩いて向う。
こういうの、好きだなぁ~(喜)

Japanese War Cemetery

太平洋戦争勃発により北米・東南アジア・オセアニア・太平洋諸島など世界各地
で日本人・日系民間人が敵性外国人として抑留された。オーストラリアで抑留さ
れた日本人・日系民間人は、最高時4300余人に達した。これは、オーストラリ
ア国内で検挙された1140人に加えて、近隣のニュージーランドやニューカレド
ニア、蘭領東インドなどの地域で拘束された3200人を受け入れたためである。
抑留者には、現地生まれの日系2世や3世だけでなく、当時日本統治下にあった
台湾・朝鮮の人々も含まれた。抑留者のうち、単身男性は南オーストラリア州の
ラブデー及びニューサウスウェールズ州のヘイ収容所に、家族組や女性はビクト
リア州のタツラ収容所に収容された。抑留中に病気などで亡くなった人々は、現
地の一般墓地にいったん埋葬されたが、1964年にこの場所に日本人戦没者墓地
が設置されたのを機会に改葬され、現在193名が墓地内に眠っている。なお193
名のうち、10名は戦争捕虜扱いになっているが、これは海業に従事していた移
民労働者の取り扱いを、民間人抑留者から戦争捕虜に戦争中に変更したためであ
る。(文責:永田由利子)

(説明板より)

解説板の文中に「現在193名が墓地内に眠っている」と書かれてあるが、これは日本人抑留者だけの数だろう。
分かりやすく言えば、民間人の数だけ・・・という事ではないかと思う。
この説明文は、ちょっと紛らわしい書き方かな?
ここにはカウラ捕虜収容所での暴動で死亡した陸海軍軍人等231名については何も書かれてはいない。

昭和39年9月に建立された「日本人戦没者の墓」の碑

事前の勉強で読んだ本によれば、この墓地にはオーストラリア各地の収容所で亡くなった522名の遺骨が埋葬されているという。
いったい、どんな人が何人埋葬されているのか、総数で何人なのか・・・というようなことを明記した説明板があるといいのになぁ~と思う。
時間の関係上、すべての墓石を確認することはできなかったが、ザッと数えて、400名を超す墓石(プレート)があるようなので、522名という数字は正しいかも・・・・

この最前列の左端の人は・・・・
1945年4月19日に25歳で亡くなった方である。
その隣りの方は、1944年6月29日に76歳で亡くなられた方である。
この他にも、3歳とか5歳で亡くなった子供の墓もある。
年齢が明記されているということは、多分、民間の抑留者だろう。

墓地の左の方にカウラ収容所の暴動で亡くなった方々のお墓があった。
氏名と死亡日だけが刻まれているが、当然、氏名は偽名である。
捕虜になった際、殆どの日本兵は偽名を使ったので、偽名で記されている。
本当は誰なのかは誰も知らない・・・・
なんともかわいそうな気がする・・・・

墓地の一番奥の隅っこに他とは違う墓石がはめ込まれていた。

Within this cemetery lie the uniddentified remains of
twelve Japanese naval airmen from three aircraft lost
over Darwin during World War Ⅱ
Aircraft lost 4 April 1942

Noboru Ashizawa
Takezo Ikeuchi
Masato Kishikawa
Haruo Koseki
Takao Ojino
Nobuo Tanaka
Todaichiro Yamakubi

3 airmen recovered

 Aircraft lost 4 April 1942

Matsu Ebisawa
Yoshio Ito
Shigeyoshi Matsuda
Jiro Nishikawa
Susumu Oniki
Terukazu Oyama
Kazuo Sasaki
Sadami Yamashita

6 airmen recovered

 Aircraft lost 6 July 1943

Takeo Ando
Jitsuo Enatsu
Kenji Fujinaga
Suekichi Ikezaki
Masao KObayashi
Takanori Miyagi
Sakae Taguchi
Shiro Wada

3 airmen ricovered

May they Rest in Peace

(プレートより)

ここには、ダーウィン上空で撃墜された3機の航空機に搭乗していた氏名不詳の12名の海軍航空兵を含む方々の名前が刻まれていた。
1942年4月4日死亡ということで7名プラス氏名不詳者3名。
同じ日に8名プラス氏名不詳者6名。
1機で6名ということは、陸上攻撃機か飛行艇の搭乗員か?
1943年7月6日死亡ということで、8名プラス氏名不詳者3名。
合計で35名となるが・・・・
この狭い一画に35名もの遺体が埋葬されているのか?
多分、バラバラに飛び散った遺体の一部なんだろうなぁ~

一つ一つのお墓を見てお参りをしたいところだが・・・・
時間の関係上というか、他の人はあまり興味がないというか・・・(汗)
さっさとお線香をあげて帰りましょうという雰囲気だったので、一つ一つのプレートを見て歩くのを断念する。(涙)

この木・・・・
何気なくプレートを見てみたら、三笠宮崇仁殿下のお名前が・・・・
殿下は、ここにも慰霊に来られていたのか・・・・
多分、今年98歳になられると思うが・・・・・
日本国内でも海外でも、よく殿下のお手植えの木に出会うことがある。
人知れず、戦後、慰霊巡拝をされていたようである。
殿下に最後にお会いしたのは、殿下が93歳か94歳の時だったような気がする。
ご自宅でのお誕生日会についてご質問させていただいたり、食事をしながら、おしゃべりをしたのが最後である。
殿下はお元気だろうか・・・・
ご高齢なので、もうお会いすることはない。
「カウラでお手植えの木を見ましたよ!」という話が出来ないのが残念である。(悲)

日本人墓地の隣りにオーストラリア軍戦没者墓地があった。
こちらにも立ち寄る。

COWRA WAR CEMETERY

THE COWRA WAR CEMETERY

THE CEMETERY CONTAINS 27 WAR GRAVES FROM THE SECOND WORLD
WAR,COMPRISING 26 AUSTRALIAN SOLDIERS AND ONE MEMBER OF THE
ROYAL AIR FORCE.FIVE AUSTRALIAN ARMY CASUALTIES OF THE SECOND
WORLD WAR AND ONE FROM THE FIRST WORLD WAR ARE BURIED IN THE
COWRA GENERAL CEMETERY.

IN 1940,A MAJOR INFANTRY TRAINING BASE WAS ESTABLISHED AT COWRA,
PROVIDING REINFORCEMENTS FOR THE 2nd A.I.F.COWRA WAS ALSO THE
LOCATION OF No.12 PRISONER-OF-WAR COMPOUND,AND IT WASTHERE
THAT 1,104 JAPANESE P.O.W.’s LAUNCHED A MASS BREAKOUT ON
5 AUGUST,1944.ALTHOUGH THE AUSTRALIAN MILITARY GUARS WERE
ABLE TO CONTAIN THE ESCAPE ATTEMPT,FOUR AUSTRALIAN SOLDIERS
AND 234 JAPANESE P.O.W.’s WERE KILLED.

THE AUSTRALIAN DEAD LIE IN THIS WAR CEMETERY THE GRAVES OF
THE JAPANESE ARE IN THE ADJACENT JAPANESE WAR CEMETERY,
AMONG THOSE OF OTHER JAPANESE WAR DEAD AND CIVILIAN INTERNEES.

(プレートより)

オーストラリア人戦没者墓地および日本
人戦没者墓地

  オーストラリア戦没者墓地および日本人戦没者墓地は、第二次世界大戦中カウ
  ラで起こったできごとに由来しています。

 1940年代には、二つの陸軍部隊がカウラに配置されていました。カウラの東側の
シドニー街道に置かれていた大規模な歩兵隊基地からは第二次AIF(オーストラリア
帝国軍)への援兵が送られていました。およそ八万人の兵士たちがこの駐屯地に滞在
した経験を持ち、訓練中の事故や病気で亡くなった兵士たちがここに葬られていま
す。墓の一つは、戦後すぐにオートバイの事故で亡くなった空軍兵士のものです。

 町の北東の別の場所に、第十二捕虜収容所が建設されました。カウラ捕虜収容所
として知られていますが、この収容所は元々イタリア人の捕虜を収容するためのも
ので、後に日本人の捕虜を収容するようになりました。この中には朝鮮人や中国人
も含まれていました。この収容所にはまた、オランダ領東インド諸島を統括してい
たオランダ政府により抑留されたインドネシアの民間人や商船隊員たちも拘禁され
ていました。

 オーストラリア戦没者墓地には、1944年8月5日の早朝に起こったカウラ集団脱
走事件の際に亡くなった兵士、ラルプ・ジョーンズ(ジョージ十字勲章)、ベン・ハー
ディー(ジョージ十字勲章)、チャールズ・シェパードも、その日の午後にカウラの北
で日本人捕虜を再捕獲しようとして命を落としたハリー・ドンカスター中尉と共に
埋葬されています。

 カウラ捕虜収容所で亡くなったイタリア人兵士たちも当初はカウラに埋葬されて
いましたが、彼らの遺骨は1961年にビクトリア州のマーチソンにあるイタリア人捕
虜および拘留者専用の墓地に移されました。カウラで亡くなったインドネシア人た
ちは、カウラの一般墓地に葬られています。1997年には記念碑が建立され、墓地は
装いが新たになりました。

 集団脱走事件以前に亡くなった日本人は、一般墓地に印をつけて埋葬されていま
したが、1944年の脱走事件後は日本人の墓地は一つの区画にまとめられました。戦後
、地元の退役軍人の会が連合軍の兵士の墓と同様に日本人兵士の墓の世話をしてい
ました。1963年に日本政府が日本人戦没者墓地を建設することを提案し、オースト
ラリア政府はこれに同意しました。オーストラリア北部で撃墜されたり、墜落した
パイロットたちを含め、戦時中に亡くなった日本人の遺骨は全て、民間人のものも
軍人のものもカウラに運ばれ、それ以来、第二次世界大戦中の日本人の遺骨はここ
に埋葬されています。

 第二次世界大戦中のカウラの歴史に関する詳しい情報は、捕虜収容所跡およびカ
ウラ観光案内所でご覧いただけます。

 オーストラリア人戦没者墓地および日本人戦没者墓地はオーストラリア政府の復
員軍人省を通し、オーストラリア戦没者墓地管理局が管理しています。

 この碑は、元日本国総理大臣橋本龍太郎氏の経済的援助により建立されました。

(説明板より)

この説明文を読んでみると、橋本元総理が個人的にポケットマネーを出して、この説明板を設置したように解釈できますが・・・・
そう解釈していいのかな?(大汗)

それにしても、どちらの墓地も綺麗に整備、管理されていてすごいものだと感心した。
自国民に関するものは分かるが、日本人の墓地も綺麗にしてくれているのだから、感謝、感謝である。

時刻は10時半過ぎ・・・・
「カウラ捕虜収容所跡」へ向う。

捕虜収容所跡には、当時の監視哨のタワーを模したモニュメントが建っている。

 記念碑

THIS CAIRN MARKS THE SITE OF
JAPANESE BREAKOUT AT COWRA 1944



IN THE DARKNESS AT ABOUT 2 O'CLOCK IN THE MORNING OF THE 5th AUGUST,
OVER NINE HUNDRED JAPANESE PRISNERS OF WAR IN A CAMP AT COWRA
MADE A MASS ATTACK ON THEIR GUARDS.

THE JAPANESE HAD ARMED THEMSELVES WITH MESS KNIVES ,BASEBALL CLUBS AND
OTHER IMPROVISED WEAPON . THEY FIRST SET THEIR SLEEPING HUTS ALIGHT AND
THEN RUSHED THE FENCES OF THE CAMP.THE JAPANESE HAD PREPARED THEMSELVES
WITH EXTRA CLOTHING,GLOVES AND PADDING FOR SURMOUNTING OR PASSING THROUGH
THE WIRE FENCES.THOSE WHO ESCAPED INTO AN INTERNAL CAMP ROAD ENDEAVOURED
TO BREAK OUT OF THE GATES AT EACH END OF THE CAMP.LARGE NUMBERS WHO
ESCAPED THROUGHTHE OUTER FANCE OF THE CAMP ATTACKED AND KILLED AN
AUSTRALIAN MACHIN-GUN CREW AND ATTEMPTED TO STORM THE GARRISON QUARTERS.
THESE ATTACKS WERE MET BY FIRE FROM THE AUSTRALIAN GUARDS WHO SHOWED
EXCELLENT DISCIPLINE AND RESTRAINT THROUGHOUT THE INCIDENT.AS THE RESULT
OF THESE EVENTS SUBSTANTIAL NUMBERS OF JAPANESE WERE KILLED OR WOUNDED.

THE PRISONERS OF WAR WHO ESCAPED AFTER THE ATTACKS HAD FAILED WERE
SUBSEQUENTLY RECAPTURED.DURING THE SEARCH FOR ESCAPEES AN AUSTRALIAN WAS
KILLED BY A PARTY OF JAPANESE.

EIGHTEEN OF THE TWENTY HUTS AND TWO ADMINISTRATION HUTS IN THE CAMP WERE
BURNT TO THE GOUND.IN BURNT HUTS INCINERATED BODIES OF JAPANESE WERE FOUND.
MANY OTHER JAPANESE COMMITTED SUICIDE OR WERE KILLED BY THEIR COMRADES
INSIDE AND OUTSIDE THE CAMP.

THE TOTAL CASUALTIES SUSTAINED BY THE JAPANESE PRISONERS OF WAR
WERE AS FOLLOWS:
1 OFFICER KILLED
230 OTHER RANKS KILLED OR DIED
OF WOUNDS OR DIED OF SUICIDE
1 OFFICER WOUNDED
107 OTHER RANKS WOUNDED

AUSTRALIAN CASUALTIES WERE:
1 OFFICER KILLED
3 OTHER RANKS KILLED
3 OTHER RANKS WOUNDED

AUSTRALIAN AND JAPANESE SOLDIERS KILLED ARE BURIED AT THE
COWRA WAR CEMETERY,ONE AND-A-HALF MILES NORTH WEST OF THIS POINT.

ERECTED BY
COWRA MUNICIPAL COUNCIL
A.J.OLIVER ,MAYOR.

(プレートより)

カウラ(Cowra)第12戦争捕虜収容所(跡)
Cowra No.12 Prisoner Of War Camp Site
太平洋戦争中、捕虜となった日本軍の将校、兵士がこのカウラ(Cawra)第12戦
争捕虜収容所に集められた。その数は次第に増え、1944年(昭和19年)に
1,104名にのぼった。彼らは、ダーウィン爆撃の際に撃墜された日本海軍の飛
行兵やニューギニアほか太平洋戦線の各地で戦った将兵たちであった。

この年の8月5日午前1時50分、900名を超える日本兵が集団で脱走(ブレー
クアウト)を図った。彼らは、宿舎に火を放った後、食事用のナイフ、野球の
バット、毛布などを手に、鉄条網に向って突進したが、すぐさま衛兵の機関
銃やライフル銃による攻撃を受け、多くが死傷した。かろうじて収容所外に脱
出できた者も程なく全員が捕らえられた。事態の収拾にあたったオーストラリ
ア兵にも犠牲者が出た。日本兵の死者は231名、負傷者は108名を数え、負傷
者のうち3名もまもなく亡くなった。オーストラリア兵は死者4名、負傷者4
名であった。死亡した日本兵は、カウラ戦没者墓地に手厚く葬られ、その墓は
その後カウラ復員軍人連盟(RSL)の管理に委ねられた。

1964年(昭和39年)日本政府の出資とカウラ市の全面協力を得て、「由良 
滋」氏設計による日本人戦没者霊園が建設された。(北東へ約2km)。戦時中に
オーストラリアで亡くなった民間人・軍属の遺体もカウラに運ばれ、ともにこ
の霊園に埋葬された。また、1986年(昭和61年)には「中島 健」氏の設計
による日本庭園と日本文化センター(南へ約2km)が完成した。カウラは恩讐
を超えて、日豪親善と平和のシンボルの町として、今日に至っている。

ブレークアウトから60年となる今日、ここを訪れる日本人の方々のご参考に
供すべくシドニー在住日本人有志によりこの案内を設けるものである。
2004年8月
シドニー日本人会
シドニー日本商工会議所
シドニー日本クラブ



収容所に到着した日本兵が衣類を支給されているところ
(1944年7月1日)
オーストラリア戦争記念館提供

(説明板より)

No.12 POW CAMP

Commenced June1941 as an Internment Camp for Civilians and was soon
reconfigured as a Prisoner Of War camp for Italians captured in North Africa.
As events unfolded in WWⅡ,the camp held not only Italians but Japanese Military
personnel including Chinese and Koreans serving with their forces and Indonesiaan
Merchant Sailors and Political Prisoners who had been imprisoned by Australia
at the request of the Dutch Government.
After the last POW were repatriated in 1947,the Camp was dismantled.

(説明板より)

収容所跡は、今は何もない野原である。

建物の基礎部分があちこちに点在していたが、どうも各キャンプの管理棟跡のようである。

Two of the remaining Sleeping Huts along with debris from other
huts burnt during the early hours of the 5th August,1944.

(説明板より)

彼らが行ったのは、「脱走」といっても、その後のことは全く考えていない。
単なる暴動であると私は思うのである。
鉄条網に向って走り、銃で撃たれて死ぬ事が目的・・・・
ところが、「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉を持ち出して、散々扇動した人間が、結構生き残っている。
煽るだけ煽っておきながら、自分は結局、弾が当らぬように隠れていたということだろう。
事件後、仲間から責められて、発狂した挙句、自殺した者もいたようだが・・・
こういうところが、日本人の「弱いところ」ではないかという気がしてならない。
威勢のいいことを言う割には、イザとなったら・・・・というのは、昔も今も変わりない・・・
声が大きい奴に引きずられてしまうという体質・・・・これも人間の弱さか?

私は人一倍「諦めが早い男」なので・・・・(苦笑)
ついつい、こう考えてしまうのだが・・・
捕虜になっちゃったんだから仕方がないんじゃない?
今さら、「虜囚の辱めを受けず」でもあるまい・・・・
それなら、捕虜になる前に自決すべきであって、捕虜になった時点ですでに「生きて虜囚の辱めを受けて」いるのである。
つまりは、既に手遅れなのである。
今さら「死ぬべきだ」は完全に時機を逸している。
にもかかわらず、「死ぬべきだ」と散々煽っておきながら、自分は生き残り、戦後も生き長らえた連中がいるのである。

扇動しておきながら、生き延びるとは、捕虜になるより恥ずかしいことではあるまいか?
これを、すべて「戦陣訓」や「軍国主義」のせいにして良いものだろうか?
こういう「卑怯者」は今も昔も、どこにでもいるような気がしてならない。
人を扇動する連中というのは、最終的には責任は取らないという気がする。
福島の原発事故も同様で・・・・
散々、原発の危険を煽る連中がいる。
誰も放射能を浴びて死んだわけでもないのに・・・・
「被害者意識」を前面に出して、それを“売り”にしている連中がいる。
日本人の弱さは、そういうものに乗ってしまうような「集団心理」「集団パニック」に陥り易いところか?

日本人を殺すには武器はいらぬ・・・・パニックを起こさせれば自ら死んでくれる・・・
暴動を起こしたのは900名ほどいたらしいが、死傷者は300名程度である。
ということは・・・半分以上の人達は、とりあえず暴動には加わったふりをして、実際には弾が飛んでこない場所に隠れていたということだろう。
それなら最初から暴動に反対すればいいものを・・・・
他人の目を気にして、自分の意見を言わない・・・自ら思考を停止させてしまう・・・・
「長いものに巻かれる」のを好む体質か?
こういうところが、日本人の弱いところではなかろうか?
いや、「人間」の弱いところかもしれない・・・・
今も昔も変らない・・・・軍国主義など関係ない・・・・
「日本人」とは何か・・・を考えるにはいい場所である。

一番かわいそうなのは、この暴動で殺されたオーストラリア兵であろう。
捕虜達にはかなりの自由を与えて優遇していたらしい。
虐待でもしていたというなら話は別だが、実際はその逆である。
にもかかわらず「集団パニック」に陥った愚かな日本人に襲われたのだからかわいそうである。
暴動を起こして死んだ連中はかわいそうでもなんでもない・・・自業自得だと私は思うのである。
誰のせいでもない・・・・扇動に乗った自分が悪いのである。

いろいろ考えながら、近くの東屋で一人佇んでいたら・・・・
一人のオーストラリア人のご老人から声をかけられた。
が・・・この人の英語・・・・まったく聞き取れない!!(汗)
オーストラリアなまりが強いと言うか何と言うか・・・・
英語を話しているのだろうが・・・
チンプンカンプンである。(大涙)
マイッタァ~
適当にあしらったが・・・・結局、このご老人・・・何が言いたかったのか全くわからず仕舞いで、とにかく握手をして別れる。(苦笑)

続いて向かったのは、「日本庭園」・・・・・
ここで昼食とのことである。
昼食までの時間があるので、庭園内を各自で見学することとなる。
時刻は午前11時20分・・・・

 日本庭園の入口

植物を見るのは嫌いではないが・・・・
あまり時間がありすぎると暇をもてあます。(苦笑)

ちょうど、ピョンピョン跳ね回っている鳥を見つけたので、暇つぶしに追い掛け回してみる。(大笑)

ピョンピョン跳ね回るので、写真に収めるのに苦労をしたが、可愛い鳥である。
何という名前の鳥なのかは知らないけど・・・・(笑)

ちょうどお昼になり、日本庭園内のレストランで昼食!
で・・・・出てきたのは・・・・

 昼食

またもや、「フィッシュ・アンド・チップス」である!(涙)
オーストラリアは、どんな食文化なんだ?
これしかないのか?・・・・食い物は・・・・
案の定・・・・昼食は、これだけだった・・・・(涙)
不思議である・・・・
これっぽっちの食事なのに、どうしてオーストラリア人は太っているのだろう?(苦笑)

時刻は1時を過ぎた・・・・

日本庭園に別れを告げ、近くの高台からカウラの町を見る。
あらぁ~・・・・思ったより小さな町で・・・・
周囲は草原(?)
ちょっと寂しい感じもするが、のどかな風景である。

こういう田舎だから収容所が造れたのだろうから、田舎町なのは当然か・・・・(汗)

カウラの町を出て、オーストラリアの首都・キャンベラに向う。

窓の外の景色・・・・
草原が延々と続く・・・・
さすがに飽きてくる・・・・(大汗)
さすが、オーストラリア大陸は広いねぇ~

日本との大きな違い・・・・・
これが日本ならば、道路の脇に何かしらの広告の看板などが建ち並ぶと思うんだけど、それがない!
大草原の中を一本の道が延々と続く・・・・
その両側には何もない・・・・
それに、ここがもし日本ならば、道路の脇に、コンビニやらガソリンスタンドやらドライブインがあっておかしくないのだが、そういうものもない。
そういうものは全て“町”の中にしかない。
郊外には、そういうものがないのである。
当然、街灯もない・・・・
今は昼間だからいいが、これが夜だったら真っ暗だろう。

何時間も延々と車を走らせるわけですから・・・・
途中に何らかのお店を出せば便利なような気がするけどねぇ~(笑)

カウラから3時間ほど走り、キャンベラに到着!
真っ直ぐホテルにチェックインする。

あら・・・ちょっと洒落た部屋である。

時刻は午後4時半・・・・
夕食まで、時間があるので、ホテルの周囲を散策してみる。
が・・・オフィス街みたいな場所に建っているので・・・・う~ん・・・面白くない。

夕食はホテル内のレストランで・・・・
おお・・・チョット洒落ている・・・・
「お品書き」まで用意されているとはね・・・・
毎度、毎度、フィッシュ・アンド・チップスばかりだったような気がする。
たった2回しか食べてはいないのだが、2回も食べると毎日食べていたような気になるから不思議である。(大笑)


   


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