6.戦車!

(オーストラリア陸軍戦車博物館・戦争慰霊館・「ビクトリア・バラックス」~成田)


平成26年(2014年)5月1日・第6日目

朝食後、出発までかなり時間があるので、一人で散歩に出かける。(笑)
時刻は午前7時45分。

向かったのは・・・駅!!(大笑)
昨晩のライトアップされた駅舎もいいが、朝日を浴びる駅舎もなかなかいい・・・
ここを見学することとする。

FLINDERS STREET STATION 構内

いいなぁ~こういう駅・・・・(大喜)

 改札口

改札口の機械・・・・日本のものより大きい気がする。
機械の背が高いし・・・これ、カードとかタッチしづらい気がしますが・・・・(汗)
外人は背が高いから、これでいいのかな?(大笑)

同じようなことを考える人はいるもので・・・・
我がツアーの添乗員も、この駅に写真を撮りに来ていた。(笑)
「いいですよねぇ~こういう建物!」と意気投合・・・・
一緒に駅周辺を散策することになる。

 私が泊まった「シティゲート・メルボルン」ホテル

正面玄関以外にも、この駅には何箇所も改札口がある。
これも、その一つで、日本で言えば、「東口」とか「西口」とかという改札口かな?

こういうデザイン・・・・好きだなぁ~(大喜)
いくら見ていても何故か飽きない。(笑)

ホテルの向かい側をそのまま通り過ぎ、線路沿いに歩いてみる。

線路の下は赤煉瓦の高架(?)・・・・
こういう赤煉瓦のガード下(?)というのもいいなぁ~
東京のどこかに似てるな・・・・
昔、鉄道博物館があった秋葉原とか・・・・?

「線路の下をくぐって向こう側に行ってみますか!」
二人での行動となると、結構勇気が出るものである。(苦笑)

線路の下をくぐって向こう側に出る。

駅の反対側には川が流れていて、その向こう側はまた違った雰囲気の景色である。
あら・・・・こういうのもまたなかなか良い・・・(喜)

この橋・・・・
どこか形がおかしい・・・(笑)
うねっていると言うか、なんというか・・・・
よくこの橋を渡れるものだ・・・見ているだけでクラクラしそうなんですけど・・・・(笑)

さて・・・問題は、ここからどうやって向こう側に戻るかである。(大汗)
どこかに「連絡通路」のようなものがあるんじゃないか?・・・・と探してみたら・・・・あった!
地下道を通ると、向こう側に出るらしい。
この地下道は薄暗いので一人では、ちょっと不安で通りたくないが・・・・(大汗)・・・・同行者がいると勇気が湧いてくるから不思議なものである。(大笑)

地下道から出てきたら・・・・あら・・・・道の向こう側に我がホテルが見える!
あ~この改札口と繋がっていたのか・・・・
“冒険小旅行”は、これで終り(笑)・・・・ここで、添乗員さんと別れて別行動を取る。

 通勤者の列?

土産物店を見つけたので、そこで、いつものようにステッカーを探す。
オーストラリアのステッカーの他にアボリジニの旗(?)のステッカーを見つけたので、それを購入する。(大喜)
時刻は午前9時・・・・まもなく出発の時間である。
急いでホテルに戻り、チェックアウトする。

今日は、これから、郊外にある「オーストラリア陸軍戦車博物館」へ向う!(大喜)
ここには、我が日本陸軍の軽装甲車と中戦車が展示されているはず・・・・
是非、ここはじっくりと見学したい!!

移動中の景色をバスの車内から写す・・・・

移動中、保守派の論客“ミヤザキさん”が「戦車博物館?そんなところへ行く必要ねぇだろ!」とグズグズ言い出した・・・(汗)
やっぱり予定変更の元凶は“ミヤザキさん”だな・・・・(苦笑)

そもそも、ツアー旅行というのは、募集段階で日程表を見て、どこに行くのかによって、そのツアーに参加するかどうかを決めるのであるから・・・
当初の予定を、現地に来てから、そうそうひっくり返されたのでは困るのである。
今回は、博物館訪問が多いので私は参加を決めたわけですから、その博物館訪問をキャンセルされたのでは、このツアーに参加した意味が無い。
自分が行きたくないところばかりに行くツアーなら、最初から参加しなければいいわけで・・・
参加しておきながら訪問場所にケチをつけられたのでは困る!
これは、相手が立派な「大先生」であろうと「論客」であろうと、私は一歩も譲れない。
たとえ・・・昨晩の夕食をご馳走になっても・・・・である。(大笑)
ダメなものは絶対ダメ!
行くぞ!絶対、行くぞ!(大笑)

 消防署

時刻は11時20分。
ホテルを出発して2時間弱で陸軍の基地に到着する。
この基地の中に「戦車博物館」がある。
が・・・・
基地の周辺、基地の敷地内は撮影禁止!
博物館の建物の前でカメラを取り出して構えていると怒られそうなので、博物館の建物の撮影も遠慮した。

博物館は小さな建物で、ショーケースの中に雑多な展示物が・・・・
結構、日本軍のものが保管されていたのには驚いた!(大喜!)

珍しいところでは・・・・これなんか、珍しい・・・・

Jap Tank Night Sight-Recovered from
Japanese Medium tank,Rabual,New
Guinea 1945.

(説明プレートより)

この箱に入っているのは、説明文によれば、戦車の暗視装置とのこと。
1945年にニューギニアのラバウルで日本軍の中戦車から見つけたということである。
中戦車ということなら、九七式中戦車だろう。
当時の日本軍にも暗視装置なんてあったのか?
「ジャップ・タンク(日本の戦車)」という表記・・・日本を蔑視した「ジャップ」の文字は、チョット気に入らないなぁ~(怒)
「ラバウル」のスペルが間違っているのは愛嬌か?(大笑)

Type 89(1929) 50mm Grenade Discharger-
Recovered from the Milne Bay Battle field on
27 August 1942.Stamped on the base of the
launcher is:
CLARIDGE
MILNE BAY
27-8-42

(説明プレートより)

この筒のようなものは、八九式重擲弾筒じゅうてきだんとうである。
専用の八九式榴弾を遠くに飛ばす、簡単に言うと、携帯式の迫撃砲と言ってもいいかな?
説明文によると、ニューギニアの「ミルン湾の戦い」で1942年8月27日に入手したという。
「ミルン湾」は東部ニューギニアにある湾で、連合軍は「ミルン湾の戦い」と称しているが、日本軍はミルン湾のラビというところで戦ったので、「ラビの戦い」と呼んでいる。
1942年は昭和17年・・・・
日本が進撃していた時のことで、日本海軍の陸戦隊が、このラビというところにある連合軍の飛行場を攻撃するため、ここに上陸し攻撃をかけたが、結局は占領できずに退却したという戦いである。
この時の敵はオーストラリア軍と米軍・・・・オーストラリア軍がこれを持ち去ったんだろうなぁ~(汗)

これは、日本陸軍の九七式手榴弾である。

The Type 97 Hand Grenade-Japanese

The Type 97 had the same principles as most of fragmentation grenades of
the period,a grooved ‘pineapple-sharped’segmented body which dispersed
sharp pieces of sharpnel when it exploded.

A sharp blow against a hard surface,such as a rock or combat helmet would
crush a thin brass cap,allowing the pin to hit the primer and initiate the
delay sequence before throwing at the target.

(説明プレートより)

この「円盤」のようなものは、日本軍の九三式地雷である。

Japanese Type 93(1933) Land Mine

This mine was used to cut tank tracks,
cripping it,then finishing it off with a
near by hidden 37mm anti-tank gun.
Collected by Maj Ken Tyre,OC B SQN
2/6 ARMD REGT.

(説明プレートより)

説明文の英文は私の解読能力の限界を超えていて苦労する。(大泣)
え~と・・・・・・
37ミリ対戦車砲の近くに撒かれて、対戦車砲と共に戦車のキャタピラを破壊したり、操縦不能にしたり、というようなことを、この地雷はしたんだよぉ~ってなことが書かれているようである。(大汗)
あ~参った・・・もっと英文はシンプルに書いてくれ!(大涙)

これもまた珍しいものだと思う。
ちょっと見づらいが・・・・日本軍の小銃の先に空き缶のような筒がくっ付いている。(笑)
説明プレートが見当たらないのだが、これは多分、「一〇〇式擲弾器てきだんき」だと思う。
この筒に九九式手榴弾を入れて、銃を撃つと、手榴弾が遠くに飛ぶというものである。
人間が手で投げるよりは遠くに飛ばせる。

さて、ここでの見学時間は1時間15分である。(汗)
あまりショーケースの中ばかりを見ているわけにも行かない。
早く“お目当ての”戦車を見に行かねば・・・・

我がツアーの参加者の姿が殆ど見えなくなった・・・・(汗)
またもや、私一人か?(苦笑)

 屋外の戦車展示場

「もういい加減、そのくらいにして、終りにしないか!」と後ろで声がした。
振り返ったら、“保守派の論客”の“ミヤザキさん”である。
我がツアーの参加者のほとんどは、早々と見学を終えてバスに戻ってしまったのか?
ちょうど、添乗員の“アサダさん”が私と一緒にいた・・・・
「戦車を見ずに帰るわけにはいかないですよね?」と添乗員さん
「当然ですよ!僕は戦車師団の戦友会の事務局長ですよ!!これを見ずに帰れますかって!」(笑)
「ですよね・・・・」(笑)
「見学時間は1時間15分ですよね?絶対、時間ギリギリまで見学しますからね!!」(笑)
“ミヤザキ先生”は、もういい加減にしろよとばかりにイライラしておられたようだが・・・・
無視!!(大笑)
申し訳ないけど・・・・無視させていただく。(大笑)

展示場の隅っこに日本軍の戦車が!(喜)

手前にあるのは、九七式軽装甲車・・・・

これは、「装甲車」・・・・「戦車」ではない。(笑)
2人乗りだが、日本軍としては「豆戦車」としての扱いを受けていたようである。
主に捜索連隊(むかしの騎兵連隊)に装備されていた。
私の祖父は捜索連隊の連隊長だったので、この装甲車にも親しみが湧く。
祖父が満州から台湾を経てフィリピン防衛に向かった時、「戦車を全部、他の部隊に持って行かれた」と言っていた。
戦車(多分、この装甲車のことだと思うが)は他の部隊に差し出すように命令されたのだろう。
この装甲車には、大きく2つのタイプがあって、機関銃を装備したものと、大砲を装備したものがある。
ここに展示されているのは大砲を装備したもの。
残念ながら、説明板がどこにもないので、入手の詳細等はわからないが・・・・
多分、ニューギニア方面で鹵獲したのではあるまいか?

九七式軽装甲車

この九七式軽装甲車の後ろにあるのは、「九七式中戦車改」である!

九七式中戦車には2種類ある。
初期の型は、砲身の短い57mm砲を搭載したものである。
この57ミリ砲型の九七式中戦車は靖国神社の遊就館に展示されている。
後期には砲塔部分を改良し、一式47ミリ対戦車砲を搭載したものが出来た。
「47ミリ搭載型」とか「九七式中戦車新砲塔型」とか、「九七式中戦車改」とかと呼ばれている型である。
ここに展示されているのは、この改良型の九七式中戦車。
乗員は4名・・・・
2名乗員の九七式軽装甲車より、当然、車体が大きい。

九七式中戦車改(新型砲塔) 

この九七式中戦車改は、我が戦車第2師団の戦車第7連隊に装備されていたものと同じ型である。
というわけで・・・戦友会事務局長である私としては是非お会いしたかった戦車なのである!!(大喜)
写真を撮って会報に載せなくては・・・・(笑)

この戦車にも説明板は設置されていなかったので、詳細は不明であるが・・・・
多分、ニューギニア・・・・ラバウルあたりで鹵獲されたものではなかろうか?

運良く、これら装甲車、戦車の内部の撮影も出来た!(大喜)
通常、こういったものは、内部がかなり破壊されて何も残っていないのだが・・・・
想像以上に状態がいい!
操縦席などもちゃんと残っている!!(大喜)

日本の戦車は小さいというが・・・・
近くで見ると、結構、頼りがいがあるように見えるんですけど・・・・(笑)
そんなに悪くないじゃないか?・・・・日本の戦車だって・・・・と思ったが・・・・

隣りのオーストラリア軍の軍用車両と比較すると・・・・やっぱり、かなり小さいか・・・・
う~ん・・・・こういう置き方って・・・どうだろう?
日本軍の戦車が非常に貧弱に見えちゃうんですけど・・・・(涙)

ここで大失敗したことに後で気がついた。
戦車と一緒に記念写真を撮るのを忘れた!(大泣)

見学に与えられた時間はまだあるが・・・・
ここにある戦車や装甲車等の軍用車両を全部見学するのは無理・・・・
これもまた、ジックリ見るなら個人的に来るしかあるまい。(大涙)

敷地内をササッと見ながら駆け回っていたら・・・・(大笑)
あれ?
もしや・・・・
近づいてみたら、やっぱりそうだ!
日本陸軍の「一式機動47ミリ砲」である!!(驚)

 一式機動47ミリ砲

この砲は太平洋戦争の中期以降から使用された日本陸軍の対戦車砲である。
特徴のある防盾が失われているが・・・・砲身を見て気がついた。(笑)
こうなると、マニアックだよなぁ~(大汗)

砲身には刻印が刻まれていたが、不思議なことに、本来の刻印の上に更に日本語の刻印がされている。
なんで、そういうことをしたのだろう?

刻印は上から「1機47砲」「426」「53ほ」と三行にわたって刻まれている。
その下に薄っすらと当初の刻印が見える。
「1機47砲」の下には「砲粍七十四動機式一」と「一式機動四十七粍砲」を右から左に刻まれていたようである。
「426」という数字の下には、同様に元々は「製年八十和昭」(「昭和十八年製」)と刻まれていたようである
「426」は製造番号(426番目に出来上がった砲)という意味か?
しかし、問題は、「53ほ」である。(汗)
その下には「廠兵造阪大」(「大阪造兵廠」)と刻まれているようなのだが・・・・
「53ほ」とは、歩兵第53連隊(鳥取で編成)という意味だろうか?
この部隊はラバウル方面にいた部隊なので、もしかしたら、この部隊の砲かもしれないなぁ~とも思うし・・・
「ほ」というのは「製造所記号」だということになると、大阪造兵廠の製造所記号は「ほ」なのである。
となると・・・「53ほ」は、大阪造兵廠で製造された53番目の砲ということになるのだが・・・(汗)
元々の「大阪造兵廠」の刻印の上に、下の文字を消すように、わざわざ「53ほ」と刻印するだろうか?
う~ん・・・わからんなぁ~(大汗)

この博物館には、ミュージアムショップというようなものはないらしく・・・・
何か戦車に関する資料がないものかと探したが、残念ながら何もなかった。(大涙)
収蔵品の図録があったら(かなり分厚い本になるだろうが・・・)最高なんだけどなぁ~
あ~残念である!(涙)

予定の時間をタップリと有意義に使ってバスに戻る。
ほとんどの人達は、すでにバスに乗り込んでいて、憮然としていた・・・・(苦笑)
ん?遅刻なんてしていませんからね!
予定通りの時間ですからね!!(苦笑)
私が、今回のツアーに参加した理由の一つは、この戦車博物館の見学が含まれていたからである。
九七式中戦車改が見られて本当に良かった!!(大喜)
この気持ち・・・・誰にもわかるまい・・・・ (大笑)

郊外の陸軍基地から町のほうへ戻り昼食をとるという。
それにしても、町から一歩郊外へ出るとこの景色である。
大草原・・・・・
これって、誰か持ち主はいるのかね?

町の中に入り、メインストリートから一本横に入ったところにあるイタリアンレストランで昼食。
時刻は午後2時・・・・

 レストラン「cafe italia」

昼食後、『戦争慰霊館』に向う。

戦争慰霊館
Shrine of Remembarance
ガリポリ・メモリアル・ガーデン

GALLIPOLI
MEMORIAL
GARDEN

COMMEMORATING THE
SERVICE AND SACRIFICE
OF THE AUSTRALIAN AND
NEW ZEALAND ARMY CORPS
IN THE GALLIPOLI CAMPAIGN
25 APRIL - 20 DECEMBER 1915
The Australian and New Zealand Army Corps
was created in Egypt in 1914,in preparation for
the landing at Gallipoli on 25 April 1915.The
experience at Gallipoli and during the First World
War (1914-18) through defeat and victory,has
powerfully influenced the way each country
sees itself.Since 1914 Australians and New
Zealanders have shared a tradition of service and
sacrifice in war and peacekeeping operations.

This Memorial garden incorporates the original
Lone Pine tree (1933),the Man with the Donkey
(1936),the Memorial to Fallen Horses,relocated
from St Kilda Road to the Shrine (1987) and the
young Lone Pine tree (2006).

THE BATTLE OF LONE PINE

The Battle of Lone Pine,6-9 August 1915,was
one of the firecest fought at Gallipoli.During this
battle,which took its name from a single pine
tree on the battlefield,some 3,000 Australians
and 1,800 New Zealanders lost their lives.

As a measure of their gallantry,Australians
received seven Victria Crosses and many other
awards for bravery in the Battle of Lone Pine.

Private Thomas McDowell,23rd Battalion,
Australian Imperial Force,carried a pine cone
from the battlefield on the Gallipoli Peninsula,
While he served in northern France,and brought
it home to Melbourne on his return from the First
World War.A seed from this cone was planted in
the Shrine Reserve in 1933.

Lone Pine seeds have been planted throughout
Australia and have come to symbolise the
courage and sacrifice of Australians in the
Gallipoli campaign.

A seed from the original Shrine Lone Pine was
propagated in the 1990s to create a young lone
Pine.It was planted in 2006 to ensure that the
ANZAC tradition of service and sacrifice would
continue to be observed in the Shrine Reserve.

(説明プレートより)

ウ~ン・・・正直言って、もうどうでもいい・・・(苦笑)
私としては、戦車博物館で全精力を使い果たしてしまったのである。(大笑)
他のものには、もう興味も何もない・・・(大汗)

時間に余裕があったので、当初の予定にはないが『ビクトリア・バラックス』に立ち寄ろうかという話が持ちあがり、訪問することになる。

 ビクトリア・バラックス

ここは、1939年から1945年まで「オーストラリア戦時内閣」が置かれた場所である。
残念ながら敷地内への立ち入りは禁止とのこと。
ここにはフィリピンから“逃げた”マッカーサーが“住んでいた”と、誰かが言っていたけど、それは違うだろう。
ここはオーストラリアの戦時内閣事務所だし、マッカーサーは米国の軍人なんだから・・・・(苦笑)
多分、ここでの会議に出席したことがある・・・という程度ではなかろうか?
“保守派の論客”の先生たちがマッカーサーについて、この施設の受付(警備?)の職員に尋ねたらしいが、知らないとのこと。
皆さんは「マッカーサーを知らないのか?」と呆れていたが・・・
マッカーサーと言えば、我々日本人にとっては著名な米軍人だが、さて、オーストラリアにとってはどういう位置にあるか・・・
単なる米軍人の一人・・・・という程度かも・・・・
マッカーサーを知らないことを、あざ笑う態度のほうがおかしいかもね。(苦笑)

ビクトリア・バラックス前の歩道沿いの緑地帯から見る

 説明プレート

WAR CABINET ROOMS
VICTORIA BARRACKS MELBOURNE

THIS BLUE STONE BUILDING HOUSES THE WAR CABINET ROOMS USED THROUGHOUT WORLD WAR Ⅱ
(1939-1945).ALL MAJOR DECISIONS CONTROLLING AUSTRALIA’S WAR TIME OPERATIONS WERE MADE HERE
BY THE WAR CABINET.
THE CABINET WAS COMPOSED OF THE SENIOR MEMBERS OF THE GOVERNMENT OF THE DAY WITH
PORTFOLIOS DIRECTLY RELATED TO THE WAR EFFORT.ADVICE TO THE WAR CABINET CAME FROM MANY
SOURCES INCLUDING THE CHIEFS OF STAFF (HEADS OF THE NAVY,ARMY AND AIRFORCE) AND THE
ADVISORY WAR COUNCIL COMPOSED OF MEMBERS OF THE GOVERNMENT AND OPPOSITION.
THE FIRST WAR CABINET MEETING WAS HELD HERE IN SEPTEMBER 1939 WITH PRIME MINISTER ROBERT
MENZIES PRESIDING.HE WAS SUCCEEDED VERY BRIEFLY BY ARTHUR FADDEN IN OCTOBER 1941.A NEW
GOVERNMENT WITH JOHN CURTIN AS PRIME MINISTER CONTROLLED THE WAR CABINET FOR THE REST
OF THE WAR HOWEVER CURTIN DIED ON 5 JULY 1945 ONLY FIVE WEEKS BEFORE PEACE WAS DECLARED.

(説明プレートより)

時刻は午後4時・・・・空港へ・・・・

午後6時30分発のカンタス航空460便でシドニーへ向う。

 夕食

午後8時頃、シドニー空港に到着し、今度は国際線に乗り換え、午後9時半発のカンタス航空021便で成田空港へ向かう。

 二度目の夕食?

夜の11時ごろに機内食が出る。
こうなると、この機内食は夕食なのか、何なのか、さっぱりわからん・・・・
国内線で出たのが「夕食」で、この国際線で出たのは「夜食」なのか?(苦笑)
そんなことを気にするのは、私くらいか?(大笑)


平成26年(2014年)5月2日・第7日目

 朝食

日付が変わって5月2日午前4時(日本時間)・・・・朝食が出る。

機内食のサービスも結構だが・・・・これでは寝ている時間がない!
ウトウトし始めると食事で起こされ・・・・(涙)
完璧に睡眠不足である。

午前6時過ぎ、成田空港に到着する。
頭は・・・ボ~ッ・・・・(苦笑)

~完~



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