(旧・愛媛県美術館分館郷土美術館)
(平成23年11月29日・国重要文化財に指定)
愛媛県松山市一番町3−3−7
平成19年11月8日
萬翠荘ばんすいそう
萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨ひさまつさだこと伯爵が別邸として建てたものです。
陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場でした。
各界の名士が集まり、また皇族方が御来県の際は必ずお立ち寄りになられました。
貴重な建築物として、昭和60年(1985年)、愛媛県指定有形文化財に指定されています。
設計者である木子七郎きごしちろうは、県内では愛媛県庁本館、石崎汽船本社なども残しています。
(説明板より)
※ 平成24年1月12日、『萬翠荘』(愛媛県指定管理者・(株)ウィン)担当者様からメールをいただきました。
@平成21年4月より『萬翠荘』は指定管理者制度の導入により、「愛媛県郷土美術館分館」の幕を閉じ、新たな文化施設となった。
A平成23年11月29日に国重要文化財に指定された。
B平成22年12月、当初ハワイに特別注文して作られたと伝えられていたステンドグラスは、木内真太郎の作品である事が判明した。
C基本データ
営業時間 9:00〜18:00
休業日 月曜日(祝日の場合開館)
入場料金 2階常設観覧料 大人300円 小人100円
(営業時間・休館日・観覧料 イベント等により変更することもあります)
以上の内容で、本ページの修正の依頼がありましたので、一部修正をしました。
(平成24年1月15日追記)
「美術館分館」当時の解説文 (平成19年当時) |
愛媛県美術館分館郷土美術館について この建物は、戦後、米軍将校宿舎、家庭裁判所、県立郷土芸術館と変遷して、昭和54年に美術館分館となり、現在に至っています。(昭和60.2 愛媛県指定有形文化財に指定) (参考) 1.設計者について 木子きご七郎(明治44年東京帝国大学卒)は、この建物の外、県内では愛媛県庁本館、松山市役所の駐車場にあった元の県立図書館等を設計された方です。 2.敷地について この敷地は、松山藩の家老屋敷の跡地であり、夏目漱石が明治28年、松山中学の英語の教師として赴任した折に下宿をしておりました、「愛松邸」のあったところでもあります。 〔現在の敷地面積9,535.05u(含山林)(2,884坪)〕 3.分館の建設費について 大正11年に建てられ、約30万円といわれております。 県庁本館が昭和4年に約100万円で建設されましたが、その7〜8年前にはるかに小規模の分館に約1/3の30万円を要したということは、いかに巨費であったかご理解いただけると思います。 (『愛媛県美術館分館郷土美術館について』チラシより抜粋) |
(平成24年1月15日) |
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現在の建物 鉄筋コンクリート造り地下1階、地上3階 面積:887.58u(268坪) 屋根頂部:銅板、その下の急勾配は天然スレート葺 (平成19年11月8日) |
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玄関 (平成19年11月8日) |
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玄関扉 鳳凰と久松家の家紋の「梅鉢」をデザイン化した (平成19年11月8日) |
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玄関ホールの左右の柱 万成まんなり石(花崗岩の一種、通称:紅べに桜)造り (平成19年11月8日) |
階段部 細かい彫刻の南洋チーク材を使用 (平成19年11月8日) |
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踊場壁面のステンドグラス 当初、ハワイへ特別注文したものといわれていました。 平成22年12月、木内真太郎の作品と判明しました。 (平成24年1月15日追記) (平成19年11月8日) |
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『三坂峠』 | 『神奈川台場の図』 |
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萬翠荘壁画 制作の経緯
萬翠荘1階広間を飾る2面の壁画は、松山出身の画家、八木彩霞によって描かれました。
左側の絵は「三坂峠」。
伊予松山藩15万石の財政を支えた水田の広がる松山平野を三坂峠から遠望したパノラマです。
右側の絵は「神奈川台場の図」。
江戸幕府から神奈川湾警備を命じられた松山藩が、藩財政1年分に当たる7万両と延べ30万人を投入し、わずか1年で築造した神奈川台場から神奈川湾、さらには遠く房総半島を望むパノラマです。
現在人口360万人余りの横浜市も、幕末には、神奈川宿と横浜村を合わせても人口5千余りでした。
明治以降、横浜が港町として発展し始めた背景を、萬翠荘の2点の壁画に見ることができます。
大正11年、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が松山を訪問することとなり、旧松山藩主久松家の当主で軍人でもあった久松定謨さだこと伯爵は、城山の麓に純フランス風の萬翠荘を建築して裕仁親王を迎えることにしました。
萬翠荘の応接室、暖炉の上にはベルギー製の大鏡を、大鏡の左右には上記の2枚の絵を配することとした伯爵は、松山出身の画家で横浜元街小学校訓導でもあった八木彩霞に、これらの絵を描くよう依頼しました。
松山藩が威信をかけて築造した神奈川台場の歴史を調査・研究していた彩霞は、これを快諾しました。
大正11年11月、新築なった萬翠荘で裕仁親王を迎えた久松伯爵は、横浜発展の歴史とこれらの絵画の由来を詳しく説明しました。
裕仁親王はここを気に入り、以後来松のたびに立ち寄りました。
※以上の解説は、八木彩霞の次男である八木洋美氏の記述にもとづいています。
(『萬翠荘壁画 制作の経緯』チラシより)
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