ベルツ像 平成17年9月30日

ベルツ Erwin Otto Eduard Von Balz

1849年1月13日〜1913年8月31日

東京大学医学部付属病院の向側でお会いしました。


チュービンゲン大学で基礎医学を学び、ライプチヒ大学で内科学教授のブンダーリヒにつき同大学を卒業。
明治9年(1876)東京医学校(のちに東京大学医学部)の教師招聘に応じ来日。
1902年まで26年間にわたって主に内科学を教え、病理学や精神医学なども担当。
その後3年間、宮内省御用掛(侍医)になり、1905年6月帰国。
この間、ツツガムシ病や脚気など多くの研究を発表。
人々の身近な健康問題に注意をはらい、温泉・スポーツ・海水浴の効用を説いた。


スクリバ像とベルツ像


右:スクリバ
左:ベルツ像
(東京大学敷地内)




(平成17年9月30日)

東京大學名譽教師ベルツ先生(在職1876〜1902)同スクリバ先生(在職1881〜1901)は本學部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科學外科學を教授指導しわが國近代医學の眞の基礎を築いた恩人である
この碑は両先生の功績を記念するため明治40年4月4日(1907)建設せられたがこのたび医學部總合中央館の新築にともなって昭和38年11月3日(1961)原位置の北方約60メートルのこの地点に移した

東京大學医學部

(説明碑文より)

加州大聖寺藩江戸上屋敷址



加州大聖寺藩江戸上屋敷址
(東京大学構内のスクリバ像・ベルツ像の脇)




(平成17年9月30日)

大聖寺藩由来記

寛永16年(1639)6月20日加賀藩3代藩主前田利常公は47歳の若さで小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩80万石を、二男利次に富山藩10万石を、三男利治に大聖寺藩7万石を与え分封した。
大聖寺藩領は江沼郡全域(133ヶ村)と那谷村及び能美郡6ヶ村を加えたものであった。
9代藩主利之の文政4年(1821)新田1万石、加賀藩から現米2万俵を受け加賀藩からの願出により幕府から10万石の待遇を公認された。
以降14代利■まで10万石として明治4年(1871)廃藩置県により、大聖寺県となるまで続いた。
久谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内久谷村に窯を築き産出したと伝えられており、その窯跡は国指定史跡「久谷磁器窯跡」として残されている。
この地大聖寺藩江戸藩邸(5,997歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝えるものである。


平成10年1月

(説明碑文より)

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発疹チフス

『日本医学史』(1972年9月発行、富士川游著)によると、日本で初めて発疹チフスという病気を認めたのは、1881年(明治14年)、ベルツ、ブツケマの両医学者によってであるという。

(参考:舘澤貢次著 『大戦秘史・リーツェンの桜』 ぱる出版 1999年2刷発行)

(平成22年9月22日追記)


大聖寺藩 東京大学 東京大学医学部 お雇い外国人 外国人医師



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