広島県福山市丸之内1−9−2
平成22年5月2日
備後護国神社 御由緒 御神徳
当神社は、昭和32年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。
阿部神社の建立は、文化10年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
御祭神は、大彦命、武沼河別命(ニ柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。
御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。
歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永6年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。
例祭日
備後護国神社 10月23日
阿部神社 勇鷹祭 5月19日
(説明板より)
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑
拓魂碑
レイテ、ミンダナオ島戦没者慰霊碑 (歩兵第41連隊)
慰霊碑 (歩兵第232連隊)
メレヨン島戦没者慰霊碑 (独立混成第50旅団)
第65旅団戦歿者慰霊碑
東部ニューギニア方面戦没者慰霊碑 (歩兵第41連隊)
硫黄島戦没将兵 慰霊碑 (平成22年5月2日) |
碑文
硫黄島は東京南方千二百粁の地点にあり 南北八粁東西四粁の火山島である
昭和20年2月16日米艦六百隻海兵三ヶ師団超重爆撃戦隊三ヶ連隊艦載機千六百機戦車六百輌を以ってする猛攻撃に対し 我軍二万一千は打って一丸となり勇奮敢斗鬼神の如き死斗を以って米軍を殺傷すること二万五千の損害を與へたり
而し戦斗は地獄の様相で緑の島の総ての物は余すことなく爆砕され瓦礫の原には身を隠す蔭もなく飢を満たす草木もなく渇をいやす水もなく優勢なる米軍と昼夜の別なき戦いに矢尽き刀折れ遂に三月十七日玉砕の運命を辿りたり
国家の危急に身を捧げ傷つき仆れても看護の手もなく暗い熱い壕の中で求むるものの何ものも与へられずして死に至った数多くの将兵の遺骨今も尚地下壕の中に惨嘆たる姿で内地からの迎へを待ち焦がれている有様は誠に慟哭の極みなり
余りにも変り果てた地形は完全収骨はとても不可能でありかつて仍ってここに報はれなかった硫黄島周辺を含めた戦没将兵の武勲を賛へ後世にその戦史を伝へて永遠の供養にと硫黄島戦没遺族と生還者相計りここに慰霊碑を建立せり
昭和四十八年九月十七日
河野義治書
(側碑・碑文より)
マリアナ 慰霊碑 (平成22年5月2日) |
碑文
戦後三十三年祖国は平和に蘇った
しかし最大の激戦地マリアナ諸島には多くの遺骨が残されている
一日も早くご奉還するため全力を尽くすことを誓うとともにマリアナ旧南洋群島中部太平洋に散られた陸海空総ての戦争犠牲者のご冥福と再び戦争のない世界恒久平和を祈念してこの碑を建つ
1978・7・18 広島県マリアナ会
(側碑・碑文より)
ノモンハン戦没者慰霊碑 (平成22年5月2日) |
慰霊碑建設趣意書
ノモンハン事件は昭和14年5月満洲国と外蒙古との国境ノモンハン附近に於て越境問題に端を発し約5ヶ月に亘り炎熱不毛の草原で戦史に稀な激戦を繰返し惨烈悲壮な苦斗を重ね遂に国境防衛の重責を完うした。
この間 第23師団主幹部隊は1万2千有余柱の戦死者を出し広島県出身も多数に及んだ其の忠勇義烈なる英霊の遺徳顕彰と永遠不滅の慰霊の為関係部隊戦友が遺族と共に茲に慰霊碑を建立す。
昭和53年9月
広島県福山地区ノモンハン會
(側碑・碑文より)
シベリヤ抑留者慰霊碑 (平成22年5月2日) |
趣意書
1945年8月15日大東亜戦争は出征兵士の5%戦死者を数え終結した
ポツダム宣言第九条
日本国軍隊は完全に武装を解除せらるたるのち各自の家庭に復帰し平和的かつ生活的な生産を営む機会を得しめられるべしと定めたるもソ連政府は右条約に違反し日本人を着の身着のまゝでシベリヤに連行拉致し自国の復興5ヶ年計画に駆りたて残酷非道にも一日わずか黒パン3百グラムの食糧で厳寒の中朝まだ暗き内より夕闇せまるまで時間なき重労働を課し為に栄養失調と防寒衣なき厳寒の山野に労苦し凍傷に罹かり万斛の恨みを呑みし死歿者は戦争中の戦死者の倍率以上を数え餓死者はシベリヤの凍土と化し又復員後も後遺障害に苦しみ日成らず他界せし同志も数多くあり未だ遺骨拾集もならず墓参もできぬ同胞の御魂を此の地にお迎えし永遠の眠り安かれと念じ御魂鎮座碑建立す
敬白
全抑協
広島県連合会福山支部
慰霊碑建立委員一同
慰霊碑賛歌 作詞 江種孝士
作曲 佐藤貢
シベリヤ抑留者 円通寺住職良禅謹書
(側碑・碑文)
義勇奉公の碑 明治丙午春 海軍大将東郷平八郎書 (平成22年5月2日) |
碑文
海軍大尉正七位勲五等功五級 大塚林八
明治三十七年十二月十二日旅順沖哨戒中戦死於軍艦高砂
海軍大尉正七位勲五等功四級 行廣清太
明治三十八年五月二十八日日本海海戦中戦死於軍艦敷島
友人胥謀為ニ君建碑於此以為紀念且欲地方青年諸士之興起海事思想矣
明治四十二年十月
(碑文より)
慰霊碑群 (平成22年5月2日) |
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