ボードワン像 平成18年10月8日

ボードイン Antonius Franciscus Bauduin

1820年6月20日〜1885年6月7日

東京都台東区 上野公園でお会いしました。


ユトレヒト陸軍軍医学校卒。
文久2年(1862年)2月長崎に着き、ポンペのあとを受けて慶応2年(1866年)まで長崎養生所で講義をしました。
理化学教育を行う分析究理所を併設してオランダからハラタマを招きました。
翌年一時帰国しましたが、明治2年(1869年)頃に再来日し、大阪仮病院で教え、大阪軍事病院に移りました。
翌年帰国予定のところを、依頼により東京の大学東校で短期間講義をして同年末に離日しました。


ボードワン博士像


ボードワン博士像
(東京都台東区・上野公園)

今までの像は弟の肖像だったため、2006年10月6日に胸像のみ建て直されました。



(平成18年10月8日)

ボードワン博士像

オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。
かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。
上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館

1973年10月

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
大阪市 法性寺

2006年10月

(碑文より)


HPを訪問してくださった(株)太田胃散のH氏のメールによると、胃腸薬「太田胃散」の処方はボードウィン氏から教わったものなのだそうです。
そのお話を聞いたら、アララ・・・この人が急に身近に感じてきました。

(平成16年12月24日追記)


【オランダ人軍医・ボードイン】

長崎には安政4年(1857年)、西洋医学伝習所が設立され、ウトレヒト陸軍軍医学校出身のポンぺが教鞭をとり、我が国で初めての西洋式の医学教育が行われていた。
文久元年(1861年)7月には、我が国初の西洋式の付属病院である長崎養生所も開設され、医学校として本格的な西洋医学が教えられた。
文久2年(1862年)、ポンぺは長崎を去り、後任としてオランダ陸軍一等軍医のアンソニィ・フランシスコ・ボードインが赴任してきた。

ボードインは1820年の生まれで、1847年にはウトレヒト陸軍軍医学校の教官となり、ドンデレスと共著で生理学の教科書を執筆したり、外科手術や眼科用器具使用法の手引きを出版した。
その後、オランダから来日した教官13名のうち9名はボードインの教え子で、残りの大半のオランダ医師たちも彼の関係者だったという。
ボードインは生理学・外科学・眼科学などを講義し、ヘルムホルツの検眼鏡を日本に紹介し、眼科手術を行った。
当時のカルテには脱疽患者に対して、切断術を行っている。
ボードインは著名なオランダ医師として、肥前藩主・鍋島直正を診察したり、江戸に医学所を開設する準備などをした。
明治2年(1869年)には、大阪の仮病院でも教鞭をとっている。
この頃、暴漢に襲われた大村益次郎の右大腿部の切断手術を行っている。

日本政府がドイツ医学の導入を決定したことから、明治3年にボードインはオランダに帰国することになった。
明治天皇は今までのボードインの功績に報いるために、礼状を与え、政府も3000両の退職金を与えて、小石川薬園(現在の植物園)で盛大な送別会を開いた。
1873年、ボードインはオランダ陸軍に復職。
1885年、64歳で独身のまま没した。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)

(平成29年1月26日・追記)


【大学東校で教鞭をとる】

ボードワンはポンぺの後を継いで長崎の医学所と養生所で蘭医学を教えた。
勝海舟や松本良順らに海軍病院を創設を託され、ヨーロッパで器材、薬剤、書籍をそろえて再来日したわけだが、その時には、すでに幕府は壊滅していた。
新政府に雇われて大阪の病院で教え、帰国直前に懇願され、明治3年7月から2ヶ月間だけ、大学東校で教鞭をとった。
2ヶ月間とはいえ、その講義内容はすこぶる充実したものらしい。
大学東校は、後の東京医学校で、元々は幕府の種痘所(西洋医学所)であり、今の東京大学医学部の前身である。

池のほとりに武士が鈴なりになった記念写真がある。
大学東校で医学を講じたボードワンが、帰国する明治3年、小石川薬園の日本庭園で壮行会を開いた時のものだ。

(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)

(令和元年10月19日 追記)


浪華仮病院跡の碑



『浪華仮病院跡』の碑
(大阪市天王寺区上本町4丁目・大福寺)





(平成20年6月16日)

大坂の西洋医学の教育は明治元年(1868)新政府によってここ大福寺に仮設された大坂仮病院に始まる。
この史蹟を記念した碑が境内にある。

大阪天王寺ライオンズクラブ建之

(説明板より)

浪華仮病院跡



浪華仮病院跡
(大阪市天王寺区上本町4丁目・大福寺)





(平成20年6月16日)

法性寺



法性寺
(大阪市中央区中寺1−1−32)





(平成20年6月16日)

法性寺は慶長3年(1598)豊臣秀吉没年に創建されました。
幕末から明治に掛けて坂本竜馬が身を隠したり、オランダの医師ボードウィンが逗留して隆盛を極めていましたが、昭和20年の空襲で焼失し、復興を重ね今日に到ります。

(説明板より)


今までの銅像

今までの銅像はボードイン(ボードワン)の実弟の顔で、間違った胸像のため、大阪の法性寺の山本住職により新しい胸像が寄贈された。
下の写真は今まで当ホームページに掲載していたボードイン(ボードワン)の写真。
この胸像は撤去されオランダ大使館に返却されたらしい。

(平成18年10月10日記)

  平成15年6月26日

上野公園のボードイン像

上野公園のボードイン像
(ボードワン博士像)

ボードインの提言で”上野の山”は公園になったのですが・・・
今では銅像の周りはホームレスの”住宅地”になっていました。
まさか・・・こうなるとは・・・


(平成15年6月26日訪問

【ボードワン兄弟とその後】

後年、領事になる弟のA・J・ボードワンは、1859年4月、オランダ東印度会社(VOC)の社員として長崎・出島に来日。
兄の医師・A・F・ボードワンは、弟の勧めもあって、1862年10月、医官ポンぺの後任として出島に来た。
仲の良い兄弟で、長崎、神戸、横浜と移り住み、助け合って遠い異国での危険で困難で、退屈極まりない暮らしを乗り切った。
弟A・J・ボードワンが姉たちに出した100通を超える手紙が、当時の出島の様子や生活ぶりを表わしている。

ボードワン兄弟は帰国の際、日本の品々を3隻の船に積み、オランダに送った。
刀剣、漆器、陶磁器などで、そのうちの1隻は難破してしまった。

二人とも生涯独身を通したため、兄弟の死後、これらの日本的な品々は親戚の手に渡った。
1900年頃になって一部は競売に付され、一部は姪たちが嫁ぐときに持ち去ったりした。
ボードワン兄弟の甥にあたるフリッツ・ボードワンは、残ったコレクションをライデンの民族博物館に預けて少しでも守ろうとした。

第二次大戦が勃発し、間もなくドイツ国境に近いザッフェンにあるボードワン家は、真っ先にドイツ兵に占領されてしまった。
ドイツ兵が去った時、天井部屋には、まだ少しは日本の品も残っていたが、今度は平和維持軍として進駐してきたカナダ兵たちが、何がしかのものを持ち去った。
最後に空き家になると、家を焼かれたオランダ人たちが住み着き、取れるものは根こそぎ盗んでいった。
だから、ザッフェンの家には、ほとんど何も残っていなかった。
フリッツ・ボードワンの孫娘は、コレクションの相続税を払うため、祖父が博物館に預けていた品を返してもらい、競売にかけた。
それは主として刀剣類であり、手元には値もつかない古びた「幕末の日本」のアルバム3冊だけが残された。

(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)

(令和元年10月19日 追記)


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