平成20年11月25日
弘治2年(1556年)(?)〜元和元年6月6日(1615年7月1日)(?)
福岡県福岡市・光雲てるも神社でお会いしました。
母里但馬守太兵衛友信像 (福岡県福岡市・光雲神社) (平成20年11月25日) |
碑文
昭和五拾壱丙辰年拾月大吉祥日
題字 従三位勲三等黒田長禮書
歌字 同夫人黒田茂子書
母里家二十一代大行満母里嘉道大阿闍梨
奉納 天台宗天壽山大聖院地蔵坊
信者有志一同
原型 県無形文化財保持者 中ノ子タミ
彫塑 中ノ子富基子
鋳造 太田篤佛具店
石匠 國松大次郎
宮司 石津新四郎
母里但馬守太兵衛友信像
黒田二十五騎の一人で知勇兼備の武将で主君長政公の命を受けて福島正則公に使いした時禁酒の太兵衛がなみなみと注がれた大盃の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家、家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名であります。
母里家21代嘉道氏外有志が主君長政公の有名な水牛の兜と当神社の社頭を固める守護像として奉納されたものであります。
母里太兵衛居宅の門は福岡城跡内に復元され、また墓所は県下嘉穂町大隈の麟翁寺にあります。
(説明板より)
光雲神社 (福岡県福岡市中央区西公園13−1) (平成20年11月25日) |
光雲てるも神社御縁起
所在地 福岡市西公園
社格 別表神社
祭神 黒田勘解由次官孝高(如水) 法名 龍光院殿
黒田筑前守長政 法名 興雲院殿
この神社には、黒田如水公と黒田長政公の霊を祭ってある
如水、長政両公は、全国的に有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、また「福岡」の名付け親でもある
光雲神社という名前は、両公の法名からそれぞれ一字ずつをとってつけた
この神社は如水、長政両公の子孫嗣高公が藩主になられたとき福岡市舞鶴城内(現、平和台)本丸天守台の下につくられた「ところが」明治4年(1871年)廃藩置県のさい黒田家が東京に移転されることに決まると歴代藩主の恩恵をしたうあまりに旧藩民有志が当時11代藩主であった長溥公に懇願し、許可を得て明治4年8月小烏吉祥院(現在の警固神社の近く)に神社を移した
1 明治8年3月県社に昇格
2 同40年4月西公園社殿落成移転
3 昭和20年6月被戦災
4 同41年10月現在社殿に鎮座
(説明板より抜粋)
母里太兵衛邸長屋門 (福岡県福岡市・福岡城跡) (平成20年11月25日) |
母里太兵衛邸長屋門 (福岡県福岡市・福岡城跡) (平成20年11月25日) |
福島県指定文化財
旧母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田24騎の1人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。
黒田長政が筑前入国後、6つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長20年(1615)6月6日病没した。
現在の天神2丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
昭和53年3月
福岡市教育委員会
(説明板より)
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