平成19年11月28日
1841年12月26日〜1901年4月24日
神奈川県横浜市・横浜公園でお会いしました。
ブラントン像 (神奈川県横浜市・横浜公園) (平成19年11月28日) |
ブラントンと横浜
明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国人土木技師R・H・ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
横浜居留地測量 | 1868〜70 |
電信敷設 | 1869 |
新橋・横浜間の鉄道意見書 | 1869 |
吉田橋(鉄かねの橋)架設 | 1869 |
居留地 下水道整備・マカダム式道路舗装・街路照明計画 | 1869〜71 |
水道計画 | 1870 |
築港計画 | 1870、73、74 |
新埋立居留地造成設計・施工 | 1871 |
中村川拡幅等設計・施工 | 1871 |
日本大通り設計・施工 | 1871 |
修技校開校 | 1871 |
横浜公園設計・施工 | 1871、72 |
(説明板より)
横浜公園 (神奈川県横浜市・関内駅徒歩5分) (平成19年11月28日) |
碑文
横濱公園は明治9年を以て創設せる我國最古の公園なり
初は神奈川縣の所管なりしか同32年以来横濱市の管理に帰し同42年に至り改造に着手し漸く整美を得たり
斯くて大正12年9月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多数の市民は緑隠池邊に避難して危くも九死に一生を得たる
今次復興事業として新公園を起工するに方り裏面■刻の有志忽那惟次郎外諸氏は發起して特に樹栽を資け以て美化の一助に供し併せて再生謝恩の意を表せんとするや忽ちにして曾て避難したる人々の賛同一和を得て計畫の遂行を告けたるは今にして之か美擧たるや論を俟たす
殊に幾百星霜の後其の欝蒼繁茂の状を観んか必すや回想の念の禁せさることのあるへ志
仍て茲に由来を録して之を他日に傳ふと云爾
昭和4年3月
横濱市長正三位勲二等有吉忠一
岩亀楼の石灯籠 (神奈川県横浜市・横浜公園) (平成19年11月28日) |
岩亀楼の石灯籠
横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政3年(1856年)に埋立てられ太田屋新田といった。
横浜開港にともない、新田の沼地約1万5千坪が更に埋立てられ、港崎町みよさきちょうと命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。
港崎町一帯は慶應2年(1866年)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することにきまり、明治9年(1876年)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。
当初、彼我ひが公園と俗称され、明治32年(1899年)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開され今日に至った。
この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることがわかる。
岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業した。
この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかは判明していない。
震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。
昭和57年12月
横浜市
(説明板より)
日本大通り (神奈川県横浜市中区) (平成19年11月28日) |
日本大通り
旧外国人居留地と日本人街を区分する街路で、慶応2年(1866)の大火災後に防火帯を兼ねて計画・整備された日本における近代街路の発祥地である。
当初は12mの中央車道の左右に3mの歩道と9mの植樹帯が設けられていた。
設計者ブラントンは、横浜公園や旧居留地下水道など横浜の都市基盤整備に主導的な役割をはたしたイギリス人技術者である。
沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産横浜ビルといった歴史的建造物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観を形成している。
所在地:中区日本大通
構造・規模:幅員36m
建設年代:明治4年(1871)〜明治12年(1879)
設計:R.H.ブラントン
施工:不明
(説明板より)
【「日本灯台の父」】
ブラントンは明治元年に明治政府の招きにより来日。
神子元島、菅島、犬吠埼などに灯台を建設し、「日本灯台の父」と呼ばれた。
明治9年に帰国。
(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)
(令和元年10月19日 追記)
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