伊達宗紀 だて・むねただ

寛政4年9月16日(1792年10月31日)?〜明治22年(1889年)11月25日


天赦園



天赦園てんしゃえん
(愛媛県宇和島市御殿町)





(平成19年11月6日)

国指定名勝
天赦園

当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の敷地の一部である。
第7代宇和島藩主伊達宗紀むねただ(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶応2年(1866)に築造されたものである。
園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩
  馬上少年過  馬上に少年過ぐ
  世平白髪多  世は平かにして白髪多し
  残躯天所赦  残躯は天の赦す所
  不楽是如何  楽しまずして是如何せん
の一節による。
庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。
特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類が多く独特の風致をつくり出している。
作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るべきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。

昭和43年5月20日 名勝指定
伊達家

(説明板より)

天赦園



天赦園てんしゃえん
(愛媛県宇和島市御殿町)





(平成19年11月6日)

【天赦園の由来】

本園は寛文12年(1672年)宇和島藩二代藩主宗利が造成した浜御殿の一部南東部を、七代藩主宗紀(号:春山)が退隠の場所として大改造を行い、慶応2年(1866年)に竣工しこれを天赦園と命名した。
「天赦園」という命名の由来は、伊達政宗が退隠後群臣に示した述懐である。
  馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
  残躯は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん
という漢詩から採って命名したものである。
本園創設者である宗紀は、園内明心楼(明治29年取除)において八代宗城、九代宗徳の背後より真の実力者として国事に励み、維新四賢公の一人と云われた宗城をして、後顧の憂いなく維新の大業に参画せしめた。
また、本園は西郷隆盛大村益次郎高野長英等勤王の志士との会見が行われ、文久、元治、慶応より明治に及ぶ宇和島藩の国事斡旋の源を発したところである。

【様式】

本園の面積は11240uを有する池泉回遊式庭園であり、昭和43年に「名勝」の国指定を受けた。
池庭護岸や東南部の石組には陰陽石の扱いが見受けられ、三尊石組、立石と平天石の組合せ等心を楽しませるものがある。
芝生の南部には枯滝石組と枯流石組があり、この枯流の中に二個の水分石が用いられ、両岸には臥牛石、虎吠石等が対立し壮言な竹林を背景として、静かなたたずまいを見せている。

(リーフレットより)

春雨亭



国指定文化財
春雨亭





(平成19年11月6日)

【春雨亭】

愛書家としても有名な春山は、余生を楽しみながらこの書屋で書道を研鑽し、数多くの貴重な書を残した。
春山はここで穏やかな時を過ごしながら書道を愛し、明治22年、百歳の天寿をまっとうした。
また、この春雨亭は釘が使用されて」いない構造の、貴重な建物である。

(リーフレットより)

臥竜梅




臥竜梅






(平成19年11月6日)

臥竜梅の由来

政宗公が岩出山城に居城した時代(1591年〜1601年)秀吉の命により文禄の役に出陣した際、朝鮮の風土でたくましく延びた枝が地面に接して根を張り、その姿が竜に似ているので、その稚苗を持ち帰り植栽され「臥竜梅」と名付けられました。
その後、仙台城に移され今日まで幾星霜の樹齢を重ね大樹となり、昭和12年国の天然記念物の指定を受けました。
この臥竜梅は仙台市養種園技術者の一員として、保護対策に活躍された岩出山町出身の宇和野三男氏(仙台市泉区)の実家宇和野興一氏(岩出山町字大学町27で二十数年育てたもの)で、現在瑞鳳殿に植栽されている臥竜梅と兄弟木です。
    宇和島市  岩出山町
両市の歴史姉妹都市締結に伴い平成11年11月吉日交流事業として記念のため植樹

(説明板より)


伊達宗紀の治績

文政7年(1824年)、宗紀が襲封した当時、宇和島藩は財政難のなかで、萩森蔀しとみの事件、その他の「国益」論争、農民の救済策など、多くの問題を抱えていた。
宗紀は櫨蝋はぜろうの積極的な専売制の実施、質素倹約、魚類の五歩一銀運上の改訂、借金の無利息200年賦返還(1年に銀13貫宛)などの改革を文政年間に行ない、藩財政の再建に成功した。
幕府の天保改革が始まると、これに歩調をあわせるように、殖産興業策を打ち出す。
藩士・小池九蔵、若松総兵衛に佐藤信渕の経済学を学ばせて、これを応用し、融通会所を開設して商業の繁栄と統制(資本米500俵)をはかり、領内を検地し、また物価対策をたてた。
弘化元年(1844年)、養嗣子・伊達宗城に封を譲る頃、藩には「保字小判」6万両が蓄積されていたという。
木綿・塩・するめ・蝋の「座」を起こし、藩財政は小規模ながら黒字となった。
このことは、8代藩主・宗城の政治活動と富国強兵策の経済保証となった。

宗紀は、隠居後は将軍継嗣問題については井伊直弼を説き、ペリー来航に際しては、無策な攘夷を避け、実質的な日本の「独立独行」を可能にする貿易、近代兵器の購入、政治改革を幕府に建策している。
明治8年(1875年)以降は、地租改正事業進行の中、田地や金禄公債証書を購入して、伊達家経済の近代化を図った。
明治10年代には、加藤自慊じこうの漢字塾・継志館にも資金を出し、教育への関心も深かった。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月30日追記)



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