9.歴史資料館に立ち寄る

(カリナン、カタルナングランデ)


平成21年(2009年)4月25日(第3日目)

ここからUターンして戻ることにする。
もう少し奥地まで走ってもいいのだが・・・・
あてもなく走るというのも藤井さんを疲れさせてしまうだろう。
今回は、ここで引き返すこととする。

で・・・・カリナンの町まで戻ったところ・・・
「ここには歴史資料館がある」とドライバーが言う。
「行ってみますか?」とのことなので・・・・ぜひ!(笑)
資料館や博物館は私の“大好物”(笑)
ここは我がままをさせてもらい、藤井さんにお付き合いを願う。

住宅街の中の細い道を右へ左へと曲がり・・・・到着!

歴史資料館

門の所に大きな看板と横断幕があるが、幹線道路際に看板らしきものが見当たらないので、知る人ぞ知る・・・という感じ。
看板には「フィリピン・ジャパン・ヒストリカル・ミュージアム」と英語で書かれている。
もう一つの看板には「フィリピン・ニッケイジンカイ・インターナショナルスクール・オブ・ダバオ」と英語で書かれている。
この資料館には日系人会が運営している日本語学校が併設されているらしい・・・
いや・・・日本語学校に併設されている歴史資料館なのかもしれない。

常駐のガードマンに門を開けてもらい敷地内に入る。
不思議なことに、彼はなにも尋ねず、すんなりと中に通してくれた。
まぁ〜どこから見ても我々は日本人にしか見えないもんなぁ〜(笑)

左の建物:日本語学校
右の建物:資料館
PHILIPPINE ・ JAPAN MUSEUM
CALINAN, DAVAO CITY

フィリピン・日本 歴史資料館

一見、かなり小さな建物のように見えたが、奥に広がっていて、意外にも広いスペース。
内部にはダバオと日本人の歴史に関する資料が展示されていた。
原住民の古写真、日本人移民の古写真、戦前の町の様子を手書きで表した地図(○○商店とか××床屋などと書き込まれている)などが展示されている。
更に、日本語学校の生徒の研究発表らしきものが日本語で展示されていた。
それによれば、初日に行った捕虜収容所跡には、どうやら記念碑があったらしく、現在は別の場所に移転されていることがわかった。
いやぁ〜こりゃ、なかなかお勉強になる。(笑)
ここに立ち寄って正解であった。

マンサカ族の娘たち
在ダバオ帝國領事館

日本領事館は1920年9月、アンダ通り沿いに建設された。
想い出のダバオの街角
優秀な日本人企業家古川義三。
古川拓殖株式会社の創立者、社長。
古川拓殖株式会社独身者の会


1941年1月1日撮影
歯医者の椅子(右のもの)

古川拓殖の歯科医レオン・ヴィサベリア先生が1930年に使用していた椅子である。
太田をダバオに連れてきたのは、カーペンターであった。
又、外国人の協力を得てミンダナオの開発を行うという方針に賛同したのは、カメロン・フォーブス総督であった。
日本人はそれまで開発の行われていなかった土地を開発し、我々に近代的プランテーションの方法について教えてくれた。
日本人がこの地でおこなっていることから学び、それを生かせれば、フィリピン人にとって日本人がダバオにくることは、天の恵みであるといえるだろう。

(説明文より)
太田興業株式会社麻挽工場
太田会社のタロモ機橋倉庫からトロッコに乗せて日本船に船積み
ダバオ日本人高等尋常小学校(枠内服部校長)
刀剣

2005年、トゥグボック地区、マニュエル、ギアンガのサロ洞窟でジュンジー・トマンタンにより発見された。
この剣は、軍服を着た日本兵の白骨死体の胸部にあったものである。
発見者は、この兵士が切腹をしたのではないかとみている。

時刻は3時過ぎ・・・・・
まだもう少し動き回れそうだ・・・・
カタルナングランデというところにあるらしい慰霊碑を捜しに向かう。
これまた正確な場所はわからない。
このへんかな・・・というところで何人かの住民に尋ねたら、トライシクル(オートバイに座席を付けた3輪車)のお兄ちゃんが先導して案内してくれた。
あれ?・・・この道・・・・さっき通ったよな?
我々はうっかり通り過ぎていたのである!(笑)
この幹線道路の脇道を少し入ったところに、その慰霊碑があった。
目立たないよなぁ〜
これじゃ通り過ぎるのも無理はない。

カタルナングランデの慰霊碑建立場所

慰霊碑は「YAMADA MUMON」という人が建てた「平和」という碑と、「眠」と書かれた個人の戦没者の慰霊碑。
もう一つ、1986年に歩兵第9連隊戦友会が建てた碑のコンクリートの土台が残っていた。
上部が破壊されているので、どういう碑だったのかはわからない。
歩兵第9連隊はレイテ島で玉砕しているはずだが・・・・
このミンダナオ島にも一部が派遣されていたのだろうか?

THE ETERNAL PEACE
『平和』の碑
慰霊碑の残骸


萬國の諸英霊の菩提を弔い、日比親善と世界平和を祈る
1986.12.18 京都・歩兵第9聯隊戦友会
『眠』の碑


昭和20年6月10日戦死
木村芳数
名古屋市熱田区旗屋町
平成元年12月吉日
木村兄弟一同建碑

この慰霊碑にお線香をあげてお参りをする。
と・・・・この土地の持主の“じい様”がやって来て、やたらとしつこく話しかけてくる。
しかし・・・この“じい様”の話がさっぱりわからん。
それもそのはず・・・・ビサヤ語らしい。(笑)
フィリピン人のステラさんも「ビサヤ語はわかりません!」と言う。(大笑)

この“じい様”の娘さんたちは英語が話せたので通訳してもらったところ、「最近は日本人が全然来ないので資金不足だ」という。
「慰霊碑の周辺も整備したり、道ももっと良くしたいのに金がない。」
だから・・・・「金をくれ」・・・・ということらしい。
言いたい気持ちはわからんでもない。
日本人が慰霊碑を建てたはいいが、その後は高齢になったり、戦友会が解散したりで、誰も来なくなり放置状態・・・・
土地を提供した人にとっては、当初は収入源でも現在では「お荷物」である。
しかし・・・・道を良くするとか、という前に、道路際に看板を立てたらどうだろうか?
慰霊碑がどこにあるのかわからないので我々は通り過ぎてしまったのである。
道路際に看板を出しておけばすぐにわかる。
周りには何もない直線道路なんだから・・・・・
そうすれば、日本人観光客も立ち寄るかもしれないし、多少の寄付ももらえるだろ?
「まずは看板を立てなさい。看板に日の丸を描けば日本人がすぐわかるから、そういう看板を立てなさい」と伝えて、看板代を渡す。
さて・・・実際に看板を立てるか、それとも酒でも飲んで使っちゃうのか・・・・知らないけど・・・(笑)
いつか確認に来てみようか?
もし看板が立っていなかったら・・・・この“じい様”をとっちめてやろう(笑)


  


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