土居晩翠像 平成21年11月9日

土井晩翠 どい・ばんすい

明治4年10月23日(1871年12月5日)〜昭和27年(1952年)10月19日

宮城県仙台市・仙台城本丸跡でお会いしました。


本名は土井つちい林吉。
昭和9年(1934年)以降、土井を「どい」と称した。
幼時から史書・漢籍などに親しむ。
東大卒。
大学在学中から詩作。
明治32年(1899年)、第一詩集『天地有情てんちうじょう』を刊行。
漢語脈の叙事詩風の詩編により、和語脈の島崎藤村と併称される存在となる。
『荒城の月』の作詞者。
昭和25年(1950年)、文化勲章受章。


土井晩翠先生像


土井晩翠先生像
(宮城県仙台市・仙台城本丸跡)


ライオンズクラブ国際協会302E−H地区
第22回地区年次大会記念


(平成21年11月9日)

土井晩翠

晩翠は本名を林吉といい明治4年(1871年)仙台市北鍛冶町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。
明治11年、培根小学校(今の木町小学校)に入り、のち立町小学校に転校、仙台英語学校、旧制第二高等学校を経て明治30年東京帝国大学英文科を卒業、明治33年母校二高の教授として帰仙した。
その間、31年に不朽の名作「荒城の月」を作詩発表、続いて第一詩集「天地有情」を処女出版した。
島崎藤村の「若菜集」におくれること2年の明治32年、晩翠の28才から29才にかけての頃であった。
のち6つの詩集や数多くの随筆など出版した。
昭和22年日本芸術院会員、24年仙台市名誉市民に推され翌25年、文化勲章を受章され昭和27年10月19日、仙台市本荒町の晩翠草堂で情熱の詩人としての81年の生涯を閉じられた。

この碑は昭和27年、晩翠会等によって建てられたものです。

 春高楼の花の宴  めぐる盃影さして
     千代の松が枝わけいでし  むかしの光いまいづこ

 秋陣営の霜の色  鳴きゆく雁の数見せて
     植うるつるぎに照りそいし  むかしの光いまいづこ

 いま荒城の夜半の月  変らぬ光たがためぞ
     垣に残るはただかづら  松に歌ふはただ嵐

 天上影は変らねど  栄枯は移る世の姿
     写さんとてか今もなほ  ああ荒城の夜半の月

(説明板より)


土井晩翠の生涯

本名:土井林吉(どい・りんきち)
「土井」は、本来「つちい」だが、昭和9年に「どい」と改称

出生〜少年時代
土井晩翠は、明治4年(1871)年、現在の仙台市青葉区木町通に、代々続く質屋の長男として生まれました。
文学好きの父親の影響を受け、幼いころから多くの小説や詩に親しみました。
小学校の高等科を卒業してからは、「商いに学問は不要」との祖父の考えにより進学は許されず、質屋の仕事を手伝いながら英語を独学します。
やがて16歳のころ、願いがかなって仙台英学塾に入学し、英文学への関心を高めていきました。
後に晩翠が詩人・英文学者として活躍する基礎は、この少年時代につちかわれたのです。

学問と詩作の時代
明治27(1894)年、第二高等中学校(旧制第二高等学校の前身)を卒業し、東京帝国大学英文学科に進んだ晩翠は、勉強のかたわら雑誌『帝国文学』の編集委員となり、次々に詩を発表していきます。
その壮大で神秘的な思想は当時の青年たちに熱く迎えられ、とくに、中国の『三国志』の英雄・諸葛孔明しょかつこうめいをよんだ「星落秋風五丈原ほしおつしゅうふうごじょうげん」のように、漢語を多く用いた力強い詩が高く評価されました。
明治32(1899)年、第一詩集『天地有情てんちうじょう』を刊行、また明治34(1901)年には、東京音楽学校が編集した『中学唱歌』のなかに、晩翠作詞の「荒城の月」が掲載されました。
「荒城の月」は、滝廉太郎の曲とあいまって人々に広く愛唱され、晩翠の代表作として知られています。

教師時代〜晩年
明治32(1899)年、晩翠は高知出身の林八枝と結婚し、翌年には、母校第二高等学校の英語・英文学の教師となり仙台に帰郷します。
その後、数年のヨーロッパ留学を経て、再び二高の教壇に立ち、昭和9(1934)年に退職するまで、詩人らしい情熱あふれる講義によって学生たちに慕われました。
また、専門の英文学以外にも、古代ギリシャの叙事詩である『イーリアス』など、さまざまな外国文学の翻訳を手がけました。
昭和のはじめから戦中戦後にかけて、晩翠は3人の子どもたちと八枝夫人、そして家と3万冊の蔵書を失います。
しかし、昭和24(1949)年、仙台市名誉市民に推され、晩年には詩人として初めて文化勲章を受章。
空襲で焼けた家の跡には、教え子や支援者たちの手で「晩翠草堂」が建てられました。
昭和27(1952)年8月、青葉山の仙台城天守台址に「荒城の月」の碑が完成し、晩翠は病をおして除幕式に出席しましたが、10月19日、急性肺炎で満80歳の生涯を終えました。

(「仙台歴史ミュージアムネットワークシート 仙台文学館歴ネットbV−1」より)

土井晩翠の詩集

【土井晩翠の詩集】
晩翠は、旧制二高在学中から満80歳で亡くなるまで詩作に情熱を傾け、7冊の詩集を刊行しました。
その詩のなかには、膨大な読書を通じて得た知識、教養が自在に織り込まれています。
そのために難解な面もありますが、学者であり詩人であった晩翠自身の理想が、格調高い言葉によってうたいあげられた詩の世界は、読む者に力強さを感じさせます。

『天地有情』 明治32(1899)年 博文館
雑誌に発表した詩41編のほかに、ヨーロッパの文学者たちによる詩論や詩人論の翻訳が附録として掲載されており、晩翠の外国文学の教養、詩に対する考え方も知ることができる。

『暁鐘ぎょうしょう』 明治34(1901)年 有千閣・佐養書店
「万里長城の歌」などの長詩、晩翠が愛読したユーゴーの訳詩、旧制二高赴任後に仙台で作られた作品などが収められている。

『東海遊子吟とうかいゆうしぎん』 明治39(1906)年 大日本図書株式会社
明治34年から3年間滞在したヨーロッパでの経験がもとになっている。

『曙光しょこう』 大正8(1919)年 金港堂
「釈迦牟尼とトルストイ」などの詩のほか、唱歌や短歌も収められている。

『天馬てんばの道に』 大正9(1920)年 博文館
イタリアの詩人・ダヌンチオが東亜旅行を決定したことに感動して、一晩で構想を得た詩集。

『アジアに叫ぶ』 昭和7(1932)年 博文館
戦争前夜の社会状況を反映した詩や、野口英世をたたえる詩などが収められている。

『神風かみかぜ』 昭和12(1937)年 春陽堂書店
イギリス国王の即位を祝うため、日本人飛行士が「神風」という飛行機でイギリスに渡ったことへの感動をうたった詩集

(「仙台歴史ミュージアムネットワークシート 仙台文学館歴ネットbV−2」より)

(平成31年1月30日 追記)




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