土居通夫像 平成20年6月18日

土居通夫 どい・みちお

天保8年4月21日(1837年5月25日)〜大正6年(1917年)9月9日

大阪市中央区・大阪商工会議所前でお会いしました。


伊予国(愛媛県)生まれ。
明治2年、五代友厚の紹介で大阪府外国事務局御用掛となる。
明治5年、司法官となる。
明治17年、官を辞し、鴻池こうのいけ家の顧問となり、実業界に入る。
明治28年(1895年)に大阪商業会議所会頭に就任。
以後、22年間にわたり会頭職を務めた。
大阪電灯・明治紡績・阪鶴鉄道・京阪電鉄などの社長も歴任した。


土居通夫君像



土居通夫君像
(大阪市・大阪商工会議所前)





(平成20年6月18日)

碑文

君諱通夫宇和島藩士本姓大塚出■土居氏嘉安以降國家多事君深憂之脱藩變姓名奔走近畿與諸藩士締交規畫多数藩命復士籍而卜居大阪明治初官于外國事務局轉法官叙従五位十七年辞職勇退■設會社電燈紡績等皆有益于衆為商業會議所會頭者二十二年握枢應機巨細得宜時或航于欧美探訪事情其遊清國齢■七十視察大利于一市市之商工勃興君力居多焉大正四年秋大禮告成君以有功膺賞叙勲三等授旭日中綬章六年九月九日卒享年八十一病■持旨叙正五井君天資温厚能容人皆倚頼欲■事興社者必請君弁■官亦多相諮謀兼嗜文雅號無膓■互施至■■人是以衆追慕不措議製此像徳望遂以無■己
大正七年戌年六月 正五位 藤澤南岳撰
梧■湯川亨書

(碑文大意)

君の諱いみな(本名)は通夫、宇和島藩士、本姓は大塚であるが土居家をついだ。
嘉永、安政以降の日本の行末を案じて脱藩、姓名を変え近畿に出て諸藩の志士と交った。
のち、藩命によって士籍に復し大阪に住み明治新政府の外国事務局につとめ従五位に叙せられた。
明治17年辞職して電灯会社紡績会社などを興した。
商業会議所の会頭には明治23年就任、その運営よろしきを得、欧米に外遊し70才をこえる高齢ながら清国をも訪ねた。
大正4年秋、即位の大禮にあたり、勲三等旭日中綬章を授かる。
大正6年9月9日、81才で卒したが、特に正五位に段せられた。
温厚な性格で、人の意見をよく聞き容れ誰からも信頼された。
また、無膓と号する文雅の人でもあった。

※ 銅像の「碑文大意」の資料は商工会議所職員様のご厚意によりご提供頂きました。ありがとうございました。

銘板・碑文

第7代会頭土居通夫君の銅像は大正7年11月建立せられし処昭和17年11月金属類回収令によりて供納す
今や大阪経済界の使命愈々重きを加ふるの秋先覚の遺功景仰の念更に切なるものあり
茲に議員相計りて君の銅像を再建し以て欽風敬慕の記念とす

昭和31年5月
大阪商工会議所


土居通夫

天保8年(1837年)、宇和島伊達家の藩士・大塚南平の六男として、宇和島市内元結掛浜の町に生まれた。
故あって大塚家の里方土居家を相続し、土居彦六といい、幼時から文武の道に励んだ。
嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀入航以来、国内の議論は開港と攘夷の二派に分かれ、天下騒然としていた。
通夫はこの時にあたり、志士・田中幸助、坂本龍馬等と往来して国事を論じたという。
慶応元年(1865年)脱藩して大坂に行き志士と交わる。
薩摩の田中幸助と連絡して京都に入り込み、宇和島藩の兵糧周旋に奔走し、その手腕を買われ、明治になると大阪府の権少参事となった。
以後累進して、明治15年(1882年)大阪控訴裁判所判事となり、従五位に叙せられた。
のち、感ずる所あり、官を辞して実業界に入る。
明治20年(1887年)12月、大阪電灯会社を設立して取締役社長となる。
その後、日本生命取締役、大阪商業会議所会頭、大阪米穀取引所理事、宇治川水力電気取締役、大日本麦酒取締役、京阪電軌会社社長、大阪毎日新聞相談役、大阪実業協会会長、中央電気協会会長等々、財界・事業界の各方面に関係して経営画策するとこと多く、大阪において財界の巨頭となり、公共のことに尽くし、商業道徳の向上に努力した。
明治27年(1894年)大阪市より選ばれて衆議院議員となる。
明治33年(1900年)欧米を漫遊。
明治42年(1909年)米国太平洋沿岸商業会議所連合会代表者の招きに応じて、渋沢栄一と共に渡航した。
多年実業界に尽くした功労により、従五位勲三等に叙せられ、旭日中綬章を下賜された。
大正6年(1917年)9月9日、81歳で没した。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月30日追記)




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