独立歩兵第11連隊

(通称号:泉5314部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
昭和10年 第26師団 ルソン島

盧溝橋事件勃発後、支那駐屯軍を救援。
平津地方の作戦を担当した後、チャハル作戦に従事。
当初の独立混成第11旅団から第26師団に編合され、大同南方地区の警備につく。
晋察冀辺区における作戦にしばしば参加。

昭和19年秋、フィリピン・ルソン島に転出。
一部はレイテ島に上陸して米軍と交戦の末、玉砕。
連隊主力はルソン島で米軍と交戦し、ほぼ全滅に近い打撃を受けたまま終戦を迎えた。


独立歩兵第11連隊戦没者慰霊碑



獨立歩兵第11聯隊戦歿者慰霊碑
(愛知県名古屋市千種区城山町・相応寺)


昭和32年3月24日建之


(平成21年4月6日)

慰霊碑建立の由来

獨立歩兵第11聯隊(泉5314部隊)は昭和10年2月熱河承徳に於て編成
支那事変起るや南口 居庸関を突破して蒙彊に進出
本部を朔県に駐め晋北内蒙一帯の鎮護に任じた
大戦末期の昭和19年8月 部隊は國軍の精鋭として比島決戦に投入せられ 主力(本部諸隊 第1 第3大隊)はルソン島 第2大隊はレイテ島に於て来攻せる優勢な米軍を邀撃し 終戦に至るまで殊死敢斗を続けたが竟に力尽き 南溟瘴癘の地に全滅的終焉を遂げた
部隊人員の大多数は本県出身者である
戦后 生存者の間に戦陣に殪れた非命の戦友を悼む至情翕然として起り 愛知県有志の非常の努力により昭和30年2月泉会が結成せられ 続いて32年3月 此の地に慰霊碑の建立を見た
尓来毎年春分の日会員全國より参集して英霊の鎮魂を祈念している

昭和59年3月吉日
初代泉会会長 諫山春樹

(副碑・碑文より)

相応寺



相応寺
(愛知県名古屋市千種区城山町1−6)





(平成21年4月6日)

相応寺

宝亀山と号し、浄土宗鎮西派。
寛永20年(1643)尾張藩祖徳川義直が、母相応院おかめの方の菩提のため建立した。
慶安3年(1650)義直の遺体を当寺に安置して供養し、のち定光寺に葬った。
山門額と本堂の額は義直の直筆で、本堂は寛永20年創建当時のものである。
この寺はもとは東区山口町にあったが、昭和の初めにこの地に移された。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【独立歩兵第11連隊】

昭和19年8月〜9月 マニラ及び北サンフェルナンド上陸
昭和19年8月22日 主力、北サンフェルナンド着
昭和19年9月下旬 バレル湾(第1大隊)、ディンガラン湾(第3大隊)着
昭和19年10月31日 レイテ先発隊マニラ抜錨
昭和19年11月8日 レイテ派遣本隊マニラ抜錨
昭和19年12月下旬 藤黒大隊編成要員転属
昭和20年1月10日 移動開始、ボンガボン〜リザール〜カラングラン
昭和20年2月上旬 カラングラン周辺陣地構築
昭和20年2月中旬〜6月下旬 バレテ攻防戦に参加
昭和20年7月1日〜8月中旬 誠心山撤退〜デトヨン河流域〜ピナパガン集結
昭和20年9月19日 武装解除〜ジョネス

アパカ附近の合木隊(第9中隊)の投降
10月にビトロック、11月にカラングアン

レイテ派遣第2大隊
昭和19年11月2日 オルモックで海没、人員のみ上陸
              アルベラ、マラオ山、ハロ、ナグアン山附近で戦闘
昭和20年7月3日 消息を絶つ

(参考:村田三郎平著 『最前線爆雷製造部隊』 風媒社 1977年第1刷)

(平成23年10月23日追記)



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