(通称号:胆兵団)
(南洋第5支隊を改編)
メレヨン島戦没者慰霊碑 (広島県福山市・備後護国神社) (平成22年5月2日) |
碑文
第二次世界大戦の戦局が急を告げていた昭和19年2月数度に亘り上陸した海軍将兵及び3千5百名と同年4月12日上陸した陸軍将兵3千3百名とより成る西カロリン諸島メレヨン島守備部隊は寧日ない米軍機の爆撃に曝されながら日夜防衛築城訓練に挺身したが戦況の悪化に伴い食糧医療品弾薬の補給は意に任せず同年7月サイパン島の陥落に続いてグワム島などの守備部隊が玉砕するに及び補給は全く絶え孤立無援となった
現地自活のための懸命な農耕と漁撈にも拘らずサンゴ礁の土壌は農作に適せず不備な漁具による漁獲は少なく食糧は日を逐うて窮乏し一時は主食1日一人百グラム給養となって生命保持の限界をはるかに割り全島に鼠トカゲ類の影を見ない状態となった■■熱病アメーバー赤痢等の風土病が蔓延し医薬品は欠乏して斃れる者が続出し総員6千8百名のうち爆撃による戦死者を含め実に5千2百名を失うに至った
私達は終戦最初の復員船回航のおかげで痩せ細った身を辛うじてこの島から生還し得たがその中の一部は上陸直後別府病院で亡くなった
この島での1年有半の体験は私達の脳裡深く刻み込まれて終生忘れることは出来ない
終戦から20年を経た今も尚私達は椰子の根元に埋葬した多くの戦友達の慟哭を聞くそして断腸の想を遠く南海の孤島に馳せ遺族の上に思を致せば万感胸に迫って慰問の辞を知らない
茲に生還者一同相寄ってメレヨン会を結成し亡き戦友の英魂を弔慰するため相扶けて陸軍部隊の主力であった南洋第5支隊編成の地福山市を選びこの碑を建つ
昭和41年4月10日
全国メレヨン会一同
副碑 (平成22年5月2日) |
碑文
南洋第5支隊の乗船江りい丸がメレヨン島へ赴くため豊後水道を南進中昭和19年1月11日12時47分島の浦灯台沖に於て敵の魚雷攻撃をうけて撃沈せられ戦死せる将兵198柱の英霊を本慰霊碑に合祀しあり
(副碑・碑文より)
メレヨン島全戦没者銘碑建立について
ここ備後護国神社社頭の「メレヨン島戦没者慰霊碑」は1966年(昭和41年)に建立された
以来メレヨン関係者の戦没者への慰霊鎮魂の象徴となっている
この島での戦況は碑文で明らかなように戦争がもたらす特異な極限の環境であった
しかし戦史には埋没されて多く語り継がれることなく必ずしも後世への戒めとはなっていない
慰霊碑はまことに象徴的に過ぎ 個々の戦没者への鎮魂の証としてはなお十分とはいえない
メレヨン島では地上戦はなく転進もかなわず彼我両軍に見はなされ補給は途絶
守備隊陸海軍七千余の将兵の八割近くが僅か一年有半(1944年3月〜1945年9月)の間にほとんど戦わずして疾病と飢餓に斃れた
その惨状にもかかわらず 戦没者個々の氏名 没年月日などの調査掌握は他の戦場に比べ容易と判断され かねてから 全戦没者銘碑の建立が提唱されていた
しかしこの調査は戦後50年余を経た今日 極めて困難な作業であったが発議後三年にしてようやく可能な限りの確認ができ 慰霊碑の後背に建立することができた
ここに名実ともに メレヨン島全戦没者への慰霊弔魂の証が実現したことになる
広大な太平洋戦域の中で一つの独立した戦場で陸海軍将兵 軍属の全戦没者を刻名した碑は他にその例を見ないのではないか
故郷に残した肉身への切なる想いを断ち切られながらも祖国の繁栄を念じながら 若くして南溟の孤島に散華した戦没者の無念さを思うとき 遺族 生還者ともに断腸の思いで哀悼と悔恨の涙を禁じ得ない
戦争の世紀「二十世紀」はまさに終ろうとしている
「銘」とは深く永く心に刻むことである
このときに当り戦没者お一人お一人の御名を称え その面影を偲び 当時の戦況に思いを馳せ あらためて 碑前に心からなる祈りを捧げ「過ちは繰返しませぬから」の決意を込めて来るべき新世紀への平和の誓いとする
戦没者の中には南溟の孤島メレヨン島守備のため南下中1944年1月11日豊後水道で撃沈された「江りい丸」198名にも及ぶ犠牲者の無念をはじめ メレヨン島から後送されて途中マリアナ海域で戦没した人々 1945年別府に帰還直後祖国の山河を見ながら恢復できず病没された人々も併せて刻名した
その総数五千百有余柱となった
また 海軍司令 宮田嘉信 陸軍旅団長 北村勝三 陸海軍両最高指揮官はその責に殉ぜられたことも特記する
2000年(平成12年)10月
中国地区 メレヨン会 銘碑建設世話人会
(説明プレートより)
メレヨン島防禦配備要図 独立混成第50旅団
(ミクロネシア連邦共和国 ウオレアイ環礁)
オッタカイ島 陸軍(333大隊)504名 海軍445名 合計949名 |
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機銃 久住呂幸一中隊 89名 | |
三中隊 河瀬伝三中隊 後 笹谷五郎中隊 | |
機関銃中隊 梅村暢三中隊 | |
歩兵砲中隊 田坂行雄中隊 | |
333大隊本部 大隊長 中島平吾 副官 大島真一 主計 川口義雄 軍医 浅井得ニ |
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216設営隊 北脇泰夫中隊 300名 | |
1中隊 宮島中隊 | |
2中隊 小関信章中隊 |
スリアップ島 陸軍(331大隊)554名 海軍80名 合計634名 |
機銃 80名 井原拓治中隊 |
2中隊 田淵宗長中隊 |
3中隊 岡田義夫中隊 |
機関銃中隊 田口快三中隊 |
工兵4中隊 松尾重次隊 |
歩兵砲中隊 田中藤雄中隊 |
331大隊本部 大隊長 鳥井弥之助 副官 北尾義人 主計 森田友高 軍医 市川秀夫 |
1中隊 高橋量己中隊 |
タガイラップ島 陸軍332名 海軍124名 合計456名 |
335大隊(206名)本部 大隊長 飯島敏光 副官 富塚喜一郎 主計 木村章井 後 瀬尾英夫 軍医 市川秀夫 |
1中隊 泉虎雄中隊 |
船舶 西村日吉中隊以下を含む126名 碇泊場司令部メレヨン支部 船舶工兵小隊 船舶固定無線 |
水平砲 畠山忠三郎中隊 54名 |
砲兵3中隊 加藤浅ニ中隊 |
高角砲 桜林幸義中隊 後 西口敬之助中隊 70名 |
マレヨン島 陸軍 名 海軍120名 合計 名 |
療養所 鈴木稔軍医 |
335大隊2中隊 桑江良逢中隊 |
砲兵2中隊 高橋名右門中隊 |
機銃 90名 及川信三中隊 |
電探 30名 堀田文男中隊 |
フララップ島 陸軍合計1307名 |
速射砲小隊 |
野砲隊大隊(322名)本部 大隊長 一色佐六 副官 松浦仲平 主計 入佐信 軍医 宮本末雄 大隊指揮班長 依田多計士 |
工兵隊 土井繁中隊 |
旅団司令部(52名) 旅団長 北村勝三 副官 北尾定 参謀 伊藤清 経理 多田俊 軍医 鈴木武一郎 |
通信隊 135名 新谷隊 |
334大隊(538名)本部 大隊長 山崎哲 副官 安藤昭 主計 瀬尾英夫 軍医 真田敏夫 後 田原一夫 |
小笠原善勝中隊 |
9中隊 阿部中隊 |
戦車隊 64名 秦十郎中隊 |
速射砲小隊 |
10中隊 斉藤豊夫中隊 |
機関銃中隊 池内義一中隊 |
歩兵砲小隊 |
フララップ島 海軍合計2620名 |
堀田隊 電探 |
機関工作 40名 |
水雷小銃 30名 |
村木隊 海上防備小銃 77名 |
上野隊 小銃 60名 |
岸田隊 4施設 800名 |
森隊 医務 30名 |
梅谷隊 主計 20名 |
高村隊 高角砲 探照 60名 |
本部 葛原隊 16名 |
東山隊 機銃 90名 |
古賀隊 迫撃砲 44名 |
航空隊 有村隊 60名 |
斉藤設営隊 970名 |
平塚隊 高角砲 60名 |
千葉隊 機銃 合計60名 |
パリアウ島 陸軍高射砲142名+歩兵 砲兵の一部+海軍186名 合計328名+ |
高射砲 142名 横山秀夫中隊 |
高角砲 186名 新土居良平隊 後 桜林幸義小隊 |
砲兵4分隊 長船分隊 |
砲兵3分隊 巌分隊 |
砲兵1中隊 藤沢勝一中隊 |
332大隊3中隊の1個小隊 田中大祐中隊 |
地区隊 3名 |
ラウル島 陸軍(332大隊)516名 砲兵1個小隊 |
砲兵1個小隊 真野甚一小隊 後 柿本■ニ小隊 |
機関銃中隊 渡辺治中隊 (江りい丸で戦死の杉原道治中隊の予定) |
1中隊 佐藤満雄中隊 |
332大隊本部 大隊長 岩田蔦郎 副官 歌之原実之 主計 池田丈ニ 軍医 仲村傑 |
2中隊 片山正夫中隊 後 藤原猛中隊 |
速射砲中隊 竹下繁中隊 |
(銘板より)
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