独立混成第58旅団

(通称号:威7203)


盟兵団の転戦

1万3千有余名の兵団は、リンガエン湾岸からナギリアン道、更にボントック道へと転戦し、約8ヶ月間の激戦で全滅しました。
生還者はわずか1千名程度だったといいます。


動員

昭和19年6月12日、弘前師団管下(山形・秋田・岩手・青森)の各部隊に動員下令。
この動員は、軍機上、『十号演習』と称され、編成部隊名は『第12派遣隊』と称した。

第12派遣隊

旅団司令部 弘前編成 旅団長 佐藤文蔵大佐(陸士24期)
高級副官 野呂甚太郎大尉(少候13期)
(青森県弘前市出身)
次級副官 田口隆成中尉(幹侯)
(秋田県田沢湖町在住)
独立歩兵第378大隊 山形編成 大隊長 吉田鉄郎大尉(特志)
独立歩兵第379大隊 秋田編成 大隊長 庄司佐光大尉(陸士54期)
独立歩兵第380大隊 弘前編成 大隊長 関吉郎大尉(特志)
旅団砲兵隊 弘前編成 隊長 福永董祐少佐(少候7期)
3個中隊・四一式山砲計18門
旅団工兵隊 盛岡編成 隊長 佐藤直一大尉(幹候)
旅団通信隊 弘前編成 隊長 高橋和平(幹候)

6月14日、各部隊とも召集兵の増員、人事異動入れ替え、軍装整備を行なう。
6月16日、編成を完結し、各隊、宇品港へ向かう。
広島到着後、サイパン島への逆上陸部隊として、連日逆上陸の演習を実施。
6月21日、サイパン島放棄と決定したため、サイパン行きを中止。即時南方軍へ派遣となる。
6月24日、竹中英雄参謀(陸士41期・大分市出身)が着任。
6月25日、名称が『独立混成第58旅団』に改変される。
6月26日、佐藤文蔵大佐が独立混成第58旅団長に補される。
6月27日、各隊乗船。
6月28日、宇品港を出港。

乗船区分

第918丸(東山丸・大阪商船・8,666総トン)) 独立歩兵第379大隊(庄司部隊)主力
旅団砲兵隊の一部(佐藤第1中隊)
第959丸(摩耶山丸・三井船舶・9,433総トン) 旅団司令部
独立歩兵第378大隊(吉田部隊)
独立歩兵第380大隊(関部隊)
旅団砲兵隊主力
独立歩兵第379大隊(庄司部隊)の一部
旅団工兵隊

門司港に寄港し、運航訓練・対潜訓練・退避訓練を実施。
6月29日、船団編成会議
6月30日、10隻船団の洋行訓練を実施。
7月3日、9隻で船団を組み門司港を出港。
7月7日、台湾東海岸沿いに南下中、敵潜水艦と遭遇、反転して基隆港へ入港仮泊。
7月9日、基隆港を出港。台湾の西側を南下。
7月12日、高雄沖で日蘭丸(南洋海運・6,503総トン)、敵潜水艦の魚雷攻撃で撃沈。
他の船舶はルソン島北岸のアパリ港に退避。
7月13日、アパリ港を出港。
7月15日、マニラ港に入港。
当初のセラム島守備の任務を解かれ、第2軍から第14方面軍に転属となり、中部ルソンのリンガエン湾東方地区の防御の任務を与えられる。
佐藤旅団長、少将に昇格。通称号を「盟兵団」と称する。

佐藤文蔵旅団長

山形県鶴岡出身。陸軍士官学校第24期
昭和6年、歩兵第73連隊・大隊長として満洲事変に従軍。
昭和14年、ノモンハン事変に従軍。
その後、歩兵第218連隊長として支那事変に従軍。
昭和15年〜17年、中国戦線を転戦。
昭和18年3月〜水戸連隊区司令官。

進駐
パンガシナン州ウルダネタ 旅団司令部・通信隊・工兵隊
ボソルビオ 独立歩兵第378大隊(吉田部隊)
ビラシス 独立歩兵第379大隊(庄司部隊)
ウミンガン 独立歩兵第380部隊(関部隊)
ビナロナン 旅団砲兵隊(福永部隊)

7月29日、各部隊の名称が変更となる。
旅団司令部=威第7203部隊
独立歩兵第378大隊(吉田部隊)=威第7204部隊
独立歩兵第379大隊(庄司部隊)=威第7205部隊
独立歩兵第380部隊(関部隊)=威第7206部隊
旅団砲兵隊=威第7207部隊
旅団工兵隊=威第7208部隊

昭和19年8月4日、一部改編。
各歩兵大隊は教育隊を編成。
旅団砲兵隊は各中隊から抽出した兵員で1個中隊(のちの第4中隊)を編成。

旅団砲兵隊は、本来は駄馬山砲部隊であったが馬を連れずに出征したため、人力で砲車を索引して行軍した。

(平成17年7月31日追記)


日比友好平和之塔


日比友好平和之塔

フィリピン・ルソン島のアゴー市のシティホールの敷地内に建っています。
このアゴーには初戦、独立混成第378大隊(吉田大隊)が3月まで布陣して戦っていました。


(平成15年4月30日)

碑文

独立混成第58旅団(盟兵団)隷下各部隊戦没将兵11,445柱の英霊此処に眠る
今我等はフィリピン共和国アゴー市当局の好意に依り世界平和と日比両国親善の為に此の塔を建てる

1993年3月30日
盟兵団戦友会
会長 田口隆成
事務局長 市川嘉宏
導師 高橋悟童


陣地移動

昭和19年8月

ラユニオン州アゴー東方ツバオ附近 独立歩兵第378大隊(吉田部隊)
ダモルテス東南地区 独立歩兵第379大隊(庄司部隊)
旅団砲兵隊第1中隊(佐藤隊)・第2中隊(遠田隊)
第3中隊(藤本隊)
パンガシナン州マナオアグ地区 独立歩兵第380部隊(関部隊)
旅団砲兵隊新編第4中隊(竹内隊)

独立歩兵第379大隊(庄司部隊)

第1中隊 中隊長 五十嵐粂次郎中尉(北海道歌志内町出身)
第2中隊 中隊長 山本義太夫中尉(和歌山県西牟婁郡出身)
第3中隊 中隊長 佐々木恒助大尉(秋田県平鹿郡川西出身)
機関銃中隊 中隊長 中里範清中尉(福島県いわき市小名浜在住)

第1中隊編成表(8月5日現在)
中隊長 五十嵐粂次郎中尉
指揮班(25名) 班長 大沼儉爾准尉
第1小隊
(46名)
小隊長 葉山元吉少尉
連絡下士官 鈴木喜朗軍曹
第1分隊 分隊長 新宮邦雄伍長
第2分隊 分隊長 白石圭伍長
第3分隊 分隊長 菊地真一郎伍長
第4分隊 分隊長 村上宇吉伍長
第2小隊
(46名)
小隊長 長谷川巖少尉
連絡下士官 小林和夫軍曹
第1分隊 分隊長 山内庄助伍長
第2分隊 分隊長 佐々木義隆伍長
第3分隊 分隊長 阿部静雄兵長
第4分隊 分隊長 坂本貞次伍長
第3小隊
(46名)
小隊長 高橋秋夫少尉
連絡下士官 伊藤季蔵軍曹
第1分隊 分隊長 菊地隆治伍長
第2分隊 分隊長 鈴木真一伍長
第3分隊 分隊長 高野橋八五郎伍長
第4分隊 分隊長 佐々木正男伍長
第4小隊
(46名)
小隊長 渡邊達夫少尉
連絡下士官 三浦六右ェ門軍曹
第1分隊 分隊長 関村長四郎伍長
第2分隊 分隊長 赤津正雄伍長
第3分隊 分隊長 宮城悌二兵長
第4分隊 分隊長 佐藤長治郎伍長
総員:210名

8月22日、第一期陣地構築工事完了。翌日から第二期工事開始。
鉄条網の展開、横穴式陣地の掘削。
セメント等は皆無のため木材での構築となる。

9月、対戦車戦の肉薄攻撃訓練、夜間戦闘訓練を行なう。

兵団再編

9月中旬、大隊長要員として、小出晏大尉・太田正巳大尉・西村勇大尉・金沢正三大尉が司令部に着任。
旅団長命で編成替えを行ない、新設部隊を編成。

独立歩兵第544大隊 大隊長 太田正巳大尉(特志・岐阜県羽島市出身)
独立歩兵第545大隊 大隊長 西村勇大尉(石川県石川郡出身)
独立歩兵第546大隊 大隊長 金沢正三大尉(特志・秋田市土崎出身)
歩兵砲大隊 大隊長 小出晏大尉(陸士54期・鹿児島県安芸郡出身)
速射砲隊 隊長 長野田円次郎中尉(千葉市出身)

旅団砲兵隊の改編

本部 隊長 福永董祐少佐
指揮班 班長 田中正二大尉
第1中隊 中隊長 佐藤
第2中隊 中隊長 佐々木米蔵中尉(岩手県宮古出身)
第3中隊 中隊長 藤本栄治中尉(岩手県東磐井郡出身)
第4中隊 中隊長 竹内敏常中尉(福井県吉田郡出身)
第5中隊 中隊長 遠田
第6中隊 中隊長 柿本結蔵中尉(石川県金沢市出身)

旅団砲兵隊第2中隊編成表(9月20日現在)
中隊機関
(26名)
中隊長 佐々木中尉
指揮小隊長 市川少尉
戦砲隊
(51名)
第1小隊長 成田少尉
第2小隊長 飯田少尉
段列
(46名)
段列長 吾妻少尉
総員:123名

福永少佐

明治25年1月福岡県三井郡(現・小郡市干潟)生まれ。
第一次大戦では砲兵上等兵として青島へ出征、その後、シベリア出兵にも動員される。
ノモンハン事変では伊勢部隊副官として参戦し、受傷。予備役となる。
大東亜戦争で召集となり、旅団砲兵隊長として渡比。この時53歳。
温厚誠実な人柄で、部下に対する思いやりの深い人格者だったという。

旅団司令部挺身破壊隊の編成

竹中参謀の構想
各歩兵大隊から将校1名、下士官3名、兵8名を選抜して6個小隊を編成。隊長は竹中参謀。
挺身隊は実際に米軍が上陸した当初、挺身斬り込みを敢行し、目覚しい戦果を挙げる。
隊員のほとんどが2〜3個の武功章を授与されたという。

各小隊長の消息

小隊長名 消息 小隊隊員
(吉田部隊より)
柴田實義少尉
明治大学商学部卒(甲種幹部候補生)
生還
(兵庫県西宮市在住)
山本伍長、本間兵長
武田一等兵、斎藤一等兵
渋谷二等兵、中島二等兵
今井二等兵、菅原二等兵
渡辺二等兵、計9名
(太田部隊より)
菅野重治少尉
4月にガリアノで戦死  
(関部隊より)
高橋藤男少尉
キャンプ・ワンで戦死  
(金沢部隊より)
泉谷駿一少尉
(秋田市千秋鷹匠町出身)
法政大学・山岳部
2月11日頃ロザリオで腹部貫通銃創により戦死
武功章4個受賞
 
(西村部隊より)
奈良岡雅夫少尉
1月にビンダイで戦死  
(庄司部隊より)
高橋秋夫少尉
1月、ロザリオ橋梁斬り込みで腹部に負傷。
野戦病院へ後送。生還
 

(平成17年7月31日追記)


「サマール島作戦」(レイテ参戦)の命下る

命令の要旨
旅団はマニラに移動後、サマール島中央部のカトバロガンに上陸し、同島を南下してレイテ島のタクロバン方面を攻撃する。

この命令により、各大隊は構築中の陣地を放棄して、ダモルテス駅附近に軍需品を集積し、一方で貨車に積み込むなどの大混乱をきたしました。

ダモルテス駅



ダモルテス駅


現在は廃墟と化しています。

旅日記を参照ください。)

(平成15年4月30日)

しかし、列車による出発直前に作戦中止命令が発せられ、前任務の続行を命じられました。
この上層部による無定見な命令のおかげで約2週間という時間を空費、移動の為に多量の物資を処分するなど、戦う前に多くの”損失”を出してしまいました。
旧陣地に戻り陣地構築の再開をしますが、いつまた移動命令が出るかわからないので、その作業には身が入らなかったようです。

結局、旅団のレイテ島派遣は中止されましたが、独立混成第380大隊(関大隊)のみがレイテ島に送られることになり、関大隊はレイテ島で全滅しました。
生還者は4名だけだったといいます。


レイテ派遣部隊

昭和19年12月7日、マニラを出港。
12月12日、レイテ島北西岸のサンイシドロに上陸。
レイテ作戦部隊の収容に当って善戦敢闘し勇名を馳せた。

独立歩兵第380大隊(関部隊)
大隊本部 大隊長 関吉郎大尉
副官 川越由次郎中尉(福島県会津若松市出身)
本部付 遠藤荘一郎軍医中尉(秋田県由利郡出身)
松田直明主計中尉(京都府加茂町出身)
三浦禎一兵技少尉(青森県三戸出身)
第1中隊 中隊長 小野武雄中尉(青森県尾上町出身)
小隊長 石井一郎少尉(青森市出身)
工藤英七少尉(青森県弘前市出身)
山口敏光少尉(青森県大鰐町出身)
第2中隊 中隊長 菅原龍夫大尉(岩手県西磐井郡出身)
小隊長 小倉光三郎少尉(青森県西津軽郡出身)
河津達也少尉(青森県弘前市出身)
斎藤博少尉(青森県弘前市出身)
第3中隊 中隊長 民谷栄之助大尉(秋田県大曲市出身)
小隊長 佐藤積三少尉(岩手県西磐井郡出身)
高畑栄蔵少尉(青森県南津軽郡出身)
機関銃中隊 中隊長代理 及川惣助少尉(岩手県和賀郡出身)
中隊付 原田徳夫少尉(岩手県福岡町出身)
連隊砲 小隊長 棟方茂郎少尉(青森県南津軽郡出身)
速射砲 小隊長 築場仁兵衛少尉(青森県北上郡出身)
総員1,290名・生還者4名
旅団砲兵隊・第6中隊(柿本中隊)
中隊本部 中隊長 柿本結蔵中尉
中隊付
(小隊?)
将校
(小隊長?)
阿部一男中尉(山形県新庄市出身
藤田竹太郎少尉(青森県五戸町出身)
佐々木貞茂少尉(秋田県雄勝郡出身)
村井大八少尉(東京都出身)
総員122名・生還者5名
山本工兵小隊

12月8日、盟兵団主力のレイテ転用が中止となる。

配属部隊

12月8日、以下の部隊が配属となる。

野戦重砲第12連隊・第1大隊 大隊長・長縄田少佐 三八式15糎榴弾砲12門
独立重砲第4大隊 大隊長・大石正義中佐(陸士35期) 七年式30糎榴弾砲2門
独立重砲第20大隊 大隊長・大井勇三中佐 八九式15糎加農砲2門
第12海上挺進基地隊  
海上挺進第12戦隊(漁撈隊) 隊長・高橋功大尉  

12月上旬、前橋陸軍予備士官学校生徒隊45名(幹候11期)が見習士官として配属となる。
(内訳:砲兵14名、歩兵・通信31名)
のちに生還したのは4名のみ。
また、この頃、旭兵団の野戦病院(病院長:小野軍医少佐)が配属となり、ロザリオに野戦病院を開設した。

12月下旬、拠兵団要員(武田隊)の村瀬和男中尉以下百数十名、将校約40名が配属となる。

12月25日から翌年にかけ、北サンフェルナンド港ポロ埠頭にて、旭兵団第3梯団および虎兵団の揚陸作業を行なう。

昭和20年1月時点での配備状況

キャンプワン 旅団司令部
ツバオ 独立歩兵第378大隊(吉田部隊)
旅団砲兵隊第4中隊(四一式山砲3門)
ダモルテス 独立歩兵第379大隊(庄司部隊)
旅団砲兵隊第1中隊・第3中隊(四一式山砲各3門・計6門)
旅団歩兵砲隊(四一式山砲12門)
旅団速射砲隊(47粍速射砲6門)
北サンフェルナンド 独立歩兵第544大隊(太田部隊)
旅団砲兵隊第2中隊(四一式山砲3門)
アガット 独立歩兵第545大隊(西村部隊)
ロザリオ 独立歩兵第546大隊(金沢部隊)
旅団砲兵隊第5中隊(四一式山砲3門)
旅団工兵隊(火炎放射器15・軽浮舟20)
旅団通信隊
ロザリオ・カタギンテンガン 野戦重砲第12連隊第1大隊(三八式15糎榴弾砲12門)
ロザリオ北西 独立重砲第4大隊(七年式30糎榴弾砲2門)
ロザリオ南西 独立重砲第20大隊(八九式15糎加農砲2門)

米軍上陸

昭和20年1月9日、サンファビアン・マビラオ・リンガエン方面に対し、猛烈な艦砲と空爆が開始され、10時頃からサンファビアン・リンガエン附近に米軍が上陸を開始。

金沢部隊の戦い

米軍の上陸に際し、独立歩兵第546大隊(金沢部隊)配属の旅団砲兵隊第5中隊(遠田隊)の石原小隊(小隊長:石原真少尉=山形県西田川郡出身)は、サンファビアン北方マビラオの前進陣地から敵上陸用舟艇を狙い撃ちし、わずか30分で140発を発射。
上陸用舟艇7隻、水陸両用戦車6両、小型輸送船1隻を撃沈した。

独立歩兵第546大隊(金沢部隊)総員:760名
大隊本部 大隊長 金沢正三大尉
1月18日頃ダモルテス方面へ行き行方不明
 
副官 川畑武夫中尉(石川県江沼郡出身)
1月12日夜間斬込みで行方不明
 
後任副官 阿部英一少尉(秋田県雄勝郡川連出身)
着任早々負傷して後退。
 
第1中隊 中隊長 森田嘉章中尉(当時41歳) 将兵=庄司部隊からの転属
第2中隊 中隊長 加藤政治中尉(大阪市東淀川区出身)
1月18日頃戦死
将兵=庄司部隊からの転属
旅団予備隊
第3中隊 中隊長 大島武助中尉(東京都北多摩出身)
1月10日、敵情視察の帰りに敵弾を受け戦死
将兵=宇都宮師菅区の召集者
混乱の中で全滅
生存者22名は森田中隊へ編入
指揮班長 佐藤曹長  
第1小隊長 設楽義作少尉(群馬県勢多郡出身)
大正10年度の1年志願の老少尉、元村長
1月11日頃全滅
第2小隊長 佐藤忠雄少尉(秋田県雄勝郡出身) 1月9日斬込みで全滅
第3小隊長 田村  
銃砲隊長 隊長 日野茂雄中尉(東京都麻布区出身) 将兵=宇都宮師菅区の召集者

大隊長・金沢正三大尉

大正3年秋田県土崎港町生まれ。土崎商業学校卒。
秋田北部17部隊入営後、幹部候補生に合格。機関銃中隊長として勤務。
現役志願して特別教育を受け大尉に昇進。
昭和19年、南方派遣要員と決定するや周囲の勧めで結婚。
新婚1週間後に比島に派遣される。

旅団砲兵隊第5中隊(遠田隊)
指揮小隊 小隊長 伊藤四郎中尉(のち中隊長)(東京都葛飾区在住)
第1小隊 小隊長 柳瀬小満男少尉(北海道中川郡出身)
1月10日敵に包囲され全滅
第2小隊 小隊長 石原真少尉(山形県西田川郡出身)
1月13日本陣へ向け出発時、敵弾を受け戦死

1月9日にサンファビアンとアラカンの中間に上陸し、金沢大隊を圧迫した米軍は、マッカーサー司令官隷下の第6軍(191,000名)であった。
戦闘開始3日目で手兵全てを失った金沢大隊長は、旅団予備隊の第2中隊(加藤中隊)を指揮して遠田砲兵隊陣地附近の217高地に新たに布陣した。

1月13日、鋸山陣地にて敵を迎え撃つ。
米軍は米第43師団の3個連隊。
大隊はよく防戦しこれを撃退。
このため米歩兵第158連隊長は更迭される。
金沢部隊の生存者はわずか50数名。

独立歩兵第379大隊(庄司部隊)の戦い

1月16日、各中隊は連日の攻撃に耐え、第一線陣地を死守。
1月20日頃、敵・味方が入り乱れ戦線が錯綜する。

第1中隊(五十嵐中隊)
国道3号線を東進する敵戦車を速射砲・肉薄突撃により擱座させる。
第2中隊(山本中隊)
米歩兵第63連隊を配属の速射砲・機関銃で再三撃退する。
1月20日兵力の3分の1を失うと共に山本中隊長戦死。
第3中隊(佐々木中隊)
1月18日には殆ど全滅状態。
2月25日佐々木中隊長戦死。

1月下旬には大隊の兵力の3分の2を失う。

独立歩兵第545大隊(西村部隊)の戦い

1月22日、アガット東方にあった西村部隊は、進攻してきた米歩兵第169連隊に反撃を加えるが失敗。
1月下旬、旅団に配属となった旭兵団の歩兵第71連隊(連隊長・二木栄蔵大佐)の指揮下に入る。
2月5日、米軍、キャンプワンの大隊正面を猛攻。
西村大隊長、佐藤一大尉(第1中隊長)戦死す。

漁撈隊の戦い

1月9日、海上挺進第12戦隊(漁撈隊)(隊長:高橋功大尉)はリンガエン湾西岸スアルにいたが、70隻の『マル八』をもって停泊中の米艦船群に突入。
隊長以下78名が玉砕した。
戦果:駆逐艦1隻、兵員輸送艦1隻、戦車揚陸艦LSTを撃沈

旅団砲兵隊第1中隊(佐藤隊)の戦い

ダモルテスに上陸した米軍の正面に配置されていた独立歩兵第379大隊(庄司部隊)第1中隊(五十嵐隊)に配属され、水際に陣地を築いていた。
1月11日、上陸用舟艇3隻を撃沈する。
1月11日夜、水際陣地から既設の前進陣地に陣地変更する。
1月16日、前進陣地が破壊され死傷者多数。主陣地に陣地変更する。
1月18日、第1小隊(木村隊)の火砲が破壊さ、小隊長・分隊長が負傷し後退。
1月19日、中隊は2門の火砲で応戦し、幾度か敵を撃退する。
1月26日、中隊の全火砲が破壊され、後退。
編成当初からの中隊の生存者は十数名。
最後まで第一線で戦い、ダモルテス北東数十km地点で終戦を迎える。

旅団砲兵第3中隊(藤本隊)の戦い

1月11日、戦車、装甲車を先頭に海岸伝いに進撃してきた米軍に対し距離1,000mで、第3小隊(四一式山砲1門)が砲撃開始、敵を撃退する。
まもなく第3小隊陣地が敵観測機により発見され、集中爆撃を受け始める。
1月13日、第3小隊長・佐藤良則少尉(山形県山形市出身)以下全員戦死する。
指揮班が水際陣地を棄て後退。
主陣地の第1小隊、第2小隊が一斉射撃を開始する。(四一式山砲2門)
『タ弾』を使用し敵戦車を撃破する。
上陸地点からダモルテス方面への突破を阻止する。
1月16日、藤本中隊長が戦死し、前進陣地が全滅する。
後任中隊長・神戸文雄中尉(名古屋市出身)が着任するも、負傷後退、隊員の殆どが戦死。
3人目の中隊長として田中正二大尉(青森県浪岡町出身)が着任。
総員124名のうち生存者28名(うち負傷者11名)
1月31日午前零時より早撃ちの一斉射撃を行い、砲弾約400発を撃ち尽くし、最後の各1発で2門の砲を自爆して敵の重囲から脱出する。
しかし、敵中脱出の10日間で行方不明者9名を出し、第3中隊は壊滅状態となった。

第3中隊(藤本隊):124名
中隊長 藤本栄治大尉(岩手県東磐井郡小梨村出身)
1月16日アパンガット川近くの竹やぶの中で戦死
第1小隊長
(指揮小隊長)
中岫喜徳郎中尉(青森県上北郡七戸町出身)
1月25日陣地内で狙撃により肩に負傷し後送。
のち、庄司部隊に配属
第2小隊長 金子太郎少尉(山形県米沢市門東町出身)
1月25日陣地内で狙撃により足に負傷し後送。
第3小隊長 佐藤良則少尉(山形県山形市出身)
1月13日、全滅。

旅団砲兵第5中隊(遠田隊)の戦い

1月末、キャンプワンにて山砲2門・大隊砲1門受領。
キャンプワン西方1キロのウジアオに陣地占領。
2月2日の戦闘で火砲1門失い、遠田中隊長は迫撃砲弾により戦死。
後任中隊長に伊藤四郎中尉就任。
旅団砲兵部隊指揮下から歩兵砲大隊(小出大隊)へ配属となる。

旅団工兵隊の戦い

戦闘前から、旅団司令部の陣地構築、架橋作業、道路構築、各陣地構築指導で繁忙。
戦闘開始時、ダモルテスから国道3号線を東進する敵戦車に対し、爆薬、火炎放射器をもって攻撃。
多大なる戦果を挙げる。
1月28日、佐藤部隊長(中隊長)以下多数の戦死者を出し、ロザリオが敵手に帰す。

独立歩兵第544大隊(太田部隊)の状況

北サンフェルナンドに於いて林支隊(支隊長:林安男大佐)の中核部隊となる。
第1中隊(平久保忠雄大尉)・第2小隊(石川梅之少尉)=マラカン方面輸送路確保のため展開。
第2中隊(堀田正平中尉)・第1小隊(北島正吾少尉)=マンカヤン鉱山警備に派遣。
1月12日、堀田中隊は兵団予備としてキャンプワンへ赴く。
3月21日、太田部隊及び配属砲兵(佐々木山砲隊)北サンフェルナンドを脱出。

夜襲反撃

1月13日夜、第14方面軍参謀長武藤章中将来陣し方面軍命令を伝達。
盟兵団から1個大隊以上、旭兵団から2個大隊、撃兵団から重見旅団(戦車旅団)を合わせ、夜襲をもって挺身攻撃をかけるというもの。
1月16日、挺身斬込みを敢行。

独立歩兵第545大隊(西村部隊)佐藤中隊
石山工兵小隊
奈良岡旅団挺身隊
長:佐藤一中尉(栃木県上郡加郡出身)
長:石山彰少尉(東京都世田谷区出身)
長:奈良岡雅夫少尉(青森市浦町出身)
アラカン集積所の弾薬・糧秣・兵員幕舎を爆破。
味方の損害は軽微。
独立歩兵第545大隊(西村部隊)飯島中隊
中村工兵小隊
高橋旅団挺身隊
長:飯島敏雄中尉

長:高橋秋夫少尉(岩手県在住)
中村工兵小隊は火炎放射器で敵に多大な損害を与える。
飯島中隊は前進途中敵の妨害に遭い斬り込み不成功。
1月18日に再攻撃し、飯島中隊長戦死する。
高橋旅団海上挺身隊 長:高橋洋一郎少尉(宮城県登米郡在住)
水泳の得意な沖縄出身者6名を選抜。
ラボンから海上を泳いでマビラオに上陸して戦果を挙げる。
独立歩兵第544大隊(太田部隊)大橋中隊
八幡特別攻撃隊
長:大橋伊衛蔵中尉(群馬県相生市出身)
北サンフェルナンドから『大発』で発進。
大橋中隊は上陸地点を間違い、アゴー附近に上陸。戦闘に不参加となる。

重砲第4大隊(大石重砲隊)の戦い

1月7日、敵艦砲射撃により砲弾が誘爆し、奈須小隊の1門が使用不能となる。
残る1門で敵上陸地点附近を砲撃し多大な損害を与えるが、まもなく爆撃を受けて使用不能となる。
やむなく砲を放棄し庄司大隊と協力して歩兵的戦闘を行なうことになる。

野戦重砲第12連隊第1大隊(縄田部隊)の戦い

第1大隊
大隊本部 大隊長 縄田文弐少佐
1月14日敵の砲弾により負傷
副官 塩沢明寿(生還・故人)
第1中隊 中隊長 斎藤九郎中尉
第2中隊 中隊長 館正憲大尉
1月17日戦死
第3中隊 中隊長 鈴木惣一郎中尉

1月13日、射程圏内に入った敵に対し第2中隊・第3中隊各2門が砲門を開く。
集中砲火により敵に相当な損害を与える。
1月15日、敵が後方に廻り弾薬補給路が遮断される。
1月17日、協力歩兵大隊(庄司大隊)に撤退の通告をする。
各中隊は火砲の処分をし、本陣地に撤退。
この戦闘での戦死者:大隊本部7名、第2中隊49名、第3中隊25名、合計81名

追加配属部隊

1月17日、第19師団(虎兵団)の歩兵第75連隊(連隊長:名越透大佐)
連隊本部及び第2大隊(大隊長:光田悦郎少佐)
1月下旬、旭兵団の歩兵第71連隊(連隊長:二木栄蔵大佐)
12月に北サンフェルナンドで編成された臨時歩兵第9大隊日高部隊(部隊長:日高高信少佐)
12月末、第100師団(拠兵団)要員の岐阜編成の武田隊(武田正一中尉指揮)の約200名が、日高大隊・太田大隊に編入され、日高大隊の第3中隊岩佐隊(岩佐恵龍中尉)と司令部付村瀬中隊(村瀬和男中尉)を形成

1月9日〜2月中旬の経過

独歩545大隊(西村部隊) 大隊長以下戦死
臨歩9大隊と合体し、日高少佐が大隊長となる
独歩546大隊(金沢部隊) 大隊長以下殆ど戦死
2月下旬に森田第1中隊以下が庄司部隊に編入。
独歩546大隊の名は消滅する。
独歩379大隊(庄司部隊) 第2・第3中隊全滅
第1中隊のみ半減して残存。
独歩378部隊(吉田部隊) 戦闘正面にいなかったので損害軽微
臨歩9大隊(日高大隊) 独歩545大隊(西村部隊)と合体。
日高少佐が大隊長となり、臨歩9大隊消滅する。

転進

昭和20年2月11日、転進命令受領。
2月22日から虎兵団と交替して、ナギリアン道全域の守備を担当することになる。

ナギリアン道

2月26日の配備

独歩379大隊(庄司部隊) 独歩544大隊(太田部隊)・大橋中隊配属
サブラン東方高地
福永砲兵隊(佐々木山砲中隊) モングロ西側高地
独歩378部隊(吉田部隊) 大橋中隊左翼(828高地)〜ロンボイ山、アプニー山の地区
独歩545大隊(日高部隊) バナンガン東方高地
小出歩兵砲大隊 日高部隊陣地内に配備
野戦重砲第12連隊・縄田大隊 カロット
野戦重砲第12連隊・宮本大隊 (宮本信太郎少佐)
ヤグヤガン
バギオで受領した改造三八式野砲4門
重砲第4大隊(大石大隊) 砲なし。
イリサン附近の本道沿いに陣地構築
旅団工兵隊 (黒田久男中尉・大阪市大淀区在住)
イリサン附近に展開
野田速射砲隊 イリサン附近に展開

3月半ば、見習士官数十名が兵団に配属となる。

3月28日・追加配備

独歩544大隊(太田部隊) サブラン=モングロの本道上
独歩544大隊(太田部隊)・第1中隊 (平久保忠雄中尉・栃木県上都賀郡出身)
サブラン附近に展開

独立歩兵第378部隊(吉田部隊)の戦い

主力はアンリンガイから東、ガリアノ〜アシン街道を扼して陣地を占領。
3月27日から敵の猛撃を受ける。

中野隊 (中野正一大尉・山形県鶴岡市出身)
カバ東方
3月25日頃から猛攻を受ける
平田隊 (平田恒夫大尉・長野県下伊那郡出身)
ガリアノの東ロンボイ山麓
3月27日頃から熾烈な砲爆撃で損害続出
山口隊 (山口盛一大尉・岩手県下閉伊郡出身)
平田隊の右翼に布陣
平佐機関銃隊 平佐政勝中尉・北海道札幌市出身)
街道沿いに布陣
旅団砲兵隊・第4中隊 (竹内敏常中尉・福井県吉田郡出身)
砲2門で援護態勢
4月11日頃、火砲2門を失い竹内中隊長は自決。

4月11日、ガリアノ方面の敵を包囲攻撃するため挺身斬り込みを実施を準備中に敵の攻撃を受け中止。
4月13日、ビルビルの828高地に攻撃をかけるが壊滅的な打撃を受けイリサンに後退。

旅団挺身隊の再編
第1中隊 中隊長:岩永正男中尉(静岡県富士郡相野村出身)
編成=既存の旅団挺身隊の生存者
柴田実義少尉(負傷)・菅野重二少尉・高橋洋一郎少尉等
第2中隊 中隊長:神戸文男中尉(戦死)
編成=旅団砲兵隊第3中隊残存兵力を主体とする
第1小隊長:浜田佶見習士官
第2小隊長:熊谷練司見習士官(戦死)

独立歩兵第544大隊(太田部隊)の戦い

4月10日から猛烈な砲撃を受ける。
サブラン第一線の平久保中隊の陣地に敵が侵入(平久保中隊長戦死)
続いて大橋中隊陣地も突破される。(大橋中隊長戦死)
太田大隊本部は敵に包囲され連絡不能となる。

野戦重砲第12連隊・縄田大隊の戦い

3月下旬から平久保隊の援護射撃を行なう。
4月12日、第一線が突破され、敵戦車の猛攻を受ける。
4月13日、第3中隊長・鈴木中尉戦死。
4月15日、15糎榴弾砲3門全てを破壊され、イリサンまで撤退。

旅団工兵隊(黒田中隊)

黒田中尉
佐藤隊長の後任としてイリサンで着任。
昭和18年以来、ラバウル・サラモア・ラエ・サラワケット・ニューギニアの戦場で戦う。
マラリア等の重疾患のためマニラに後送。
たっての希望で第一線中隊長に任命される。
着任当時は、工兵隊は石山少尉以下50名弱。(実働人員は30名弱)
4月15日、大腿部貫通破片創で後退、7月に再び復帰する。
当時40歳。

配属部隊

4月15日、旅団司令部はバナンガン東方山地に転進。

虎兵団・輜重兵第19連隊(連隊長:誉田秋二郎中佐)・鈴木中隊配属となり、イリサンの赤屋根高地附近を占領。
4月16日、誉田連隊長、鈴木中隊長、迫撃砲弾を受け戦死。
臨時歩兵第12大隊(大隊長:駒倉勇少佐)が配属となり、敵戦車阻止の任務に就く。
4月14日、臨時歩兵第15大隊(大隊長:上村三太夫中佐)が配属となる。
4月21日、上村大隊長戦死。部隊は殆ど潰滅する。

イリサンの戦闘

4月22日頃の日本軍の配備状況

北の高地 盟兵団指揮
捜索第16連隊(連隊長:日比知大佐)
独歩545大隊(日高部隊)
および配属諸隊
南および西 歩兵第71連隊(連隊長:林安男大佐)指揮
旭兵団・工兵第23連隊(連隊長:水野捷海中佐)
野戦重砲第12連隊・岡田部隊
虎兵団・輜重兵第19連隊

4月23日、米軍の猛攻を受ける。
各部隊とも連戦につぐ連戦で疲労困憊。
ろくに防御施設のない陣地で敵と対峙し、猛攻を受ける。
更に他の戦場で損耗を尽くしたため重火器もない状況であった。
遂にイリサンは敵手に渡る。

イリサン地区に投入された部隊名は多いが、これら諸部隊が全てイリサンの戦闘に加わったわけではない。
バギオには検問所が設けられ、前線から退く将兵を捕捉しては、小部隊を編成して前線に送り返していた。
しかし、臨時編成の部隊は殆どが各兵科混合で、指揮系統もはっきりしていない。

4月23日夜、旅団司令部は隷下各部隊に転進命令を下達。

独立歩兵第378部隊(吉田部隊)の状況

吉田部隊には4月23日の撤退命令が届いていなかった。
4月下旬までロンボイ山で抵抗を継続。(山口中隊長・平佐中隊長戦死)
5月3日頃の兵力:大隊本部・第1・第2・第3中隊残存兵、大隊長以下約100名
兵団を追及して脱出。
5月15日、アムサルサルの西方で米軍と衝突。
吉田大隊長が迫撃砲弾の直撃弾を受け戦死。
5月17日頃の兵力:中野中隊長以下約70名
5月23日、カバンガンの南西5キロ附近の部落で敵襲に遭い、中野中隊長、足に負傷(翌日自決)
5月27日、米比軍に襲われ、小林少尉以下約20名が戦死。生存者8名となる。
6月2日、盟兵団司令部に到着時の生還者は4名のみ。
事実上、吉田大隊は消滅。

大隊長・吉田鉄郎少佐

大正3年1月1日岩手県川内生まれ。
盛岡商業学校卒業後、現役兵として入隊。
その後、幹部候補生から現役志願した凖52期生。
昭和17年5月に結婚
真面目な性格、指揮能力抜群と多くの部下から慕われていた。
31歳で戦没。

ボントック道

4月25日、22キロ地点附近に兵団司令部を置く。

日本軍の配備状況

16キロ地点附近 臨時第1歩兵隊(卜部訴一大佐)指揮
臨時歩兵第10大隊(梅沢中尉、のち橋本義延大尉)
臨時歩兵第11大隊(梅野淳大尉)
旅団砲兵隊の1個小隊(市川少尉)
独歩379大隊(庄司部隊)
21キロ地点以東 第23師団・野砲兵第17連隊(連隊長:吉冨徳三大佐)指揮
独歩525大隊(日高部隊)
小出歩兵砲隊
臨時歩兵第12大隊(駒倉部隊)
アトック附近〜南方 捜索第16連隊(連隊長:日比知大佐)指揮
独立重砲第4大隊(大石部隊)
臨時歩兵第6大隊(宮下部隊)
25キロ地点附近 旅団直轄部隊として福本部隊を編成。
福本部隊(福本少佐)指揮。(旅団工兵隊生存者を含む)
吉冨部隊の後方に位置する。
30キロ地点附近 旅団砲兵隊(福永部隊)
トヤンガン山附近 独歩544大隊(太田部隊)

臨時第1歩兵隊・卜部大佐

明治28年生まれ、福岡県糸島出身。陸士29期生。
昭和12年、日支事変に大隊長として参戦、大腿部盲貫銃創を受ける。
昭和17年1月、マニラ軍政監部勤務。
昭和19年11月、第14方面軍司令部付、捷号作戦連隊長要員としてバギオで待機。
昭和20年1月18日付で臨時第1歩兵隊本部に着任。
5月21日頃、部隊を率いて敵陣に斬り込みに行き行方不明。部隊は消滅。

4月下旬から5月20日頃までは、砲爆撃は連日であったが、特に米軍の進攻もなく、各部隊は食糧の確保と陣地構築ができた。

吉冨部隊
21キロ地点から25キロ地点の道路破壊を担当。
のち、6月中旬には31キロ地点以北の道路破壊を担当する。

庄司部隊
5月20頃、猛烈な砲爆撃により、31キロ地点へ転進。

日高部隊
5月24日、21キロ地点三叉路に敵戦車。
22キロ地点南側の小出歩兵砲隊の伊藤中隊(伊藤四郎中尉)が山砲でこれを攻撃するが、敵自走砲に発見され、虎の子の山砲1門を破壊される。
日高部隊は激戦の末、一時は撃退したが、敵の猛砲撃により陣地が破壊され、損害続出となる。

旅団司令部
31キロ地点から39キロ地点に移動。

捜索第16連隊・今井隊
6月17日、敵は戦車を先頭に29キロ地点に進出。
兵20名ほどで夜間斬り込みを敢行。
敵は22キロ地点まで後退する。

太田部隊
37キロ地点附近の道路を破壊。

この頃の兵力は緒戦時と比較すると約8割減となっており、無傷の兵は数えるほどしか残っていなかった。
食糧調達で行方不明になったり、ゲリラに殺害されたり、遊兵になる者が出たりと、第一線の兵力は漸減した。
また、マラリヤ患者も続出、塩も欠乏、どの兵もやせ衰える。

国道放棄

7月5日、軍と旭兵団命令により、盟兵団は旭兵団の配属を解かれ、虎兵団に配属となる。

この頃、米軍は戦車とともに道路を修理しながら33キロ地点の庄司部隊(金沢部隊・福永部隊を含む)正面を攻撃してきた。
庄司部隊は善戦したが突破される。
7月中旬、米軍が35キロ地点から吉冨部隊本部附近に突入。
多数の兵が糧秣収集のため後方へ行っていたため陣地を占領される。
更に、米軍はトヤンガン山を攻撃。
同地を守備していた太田部隊および配属部隊は善戦、一時は撃退したが、7月15日に奪取される。

7月16日、盟兵団司令部は複郭陣地への転進を各部隊に下令して53キロ地点へ転進。

7月17日頃、47キロ地点の小出歩兵砲隊が攻撃を受け始める。
小兵力ながら善戦したが、伊藤中尉が負傷し、18日には突破される。

複郭陣地における盟兵団の軍隊区分

吉冨部隊 吉冨部隊・橋本部隊
日比部隊 日比部隊・庄司部隊・太田部隊・宮下部隊
直轄部隊 小出歩兵砲隊・中野憲兵隊・福本部隊

各部隊は兵力の激減と共に装備は殆どなく、部隊としての戦力はなかった。(数十名に小銃数丁)
更に、糧秣は殆ど入手不可能な状態であった。
兵団参謀部では、3人一組で、ゲリラ戦を行なうよう各部隊に通達。

終戦

7月27日を期して、兵団司令部は旅団の全力をもって最後の夜襲を敢行することを決定する。

7月21日、第19師団(虎兵団)命令により盟兵団の竹中参謀が師団司令部に出頭。
7月25日、竹中参謀が終戦の詔書を持参して帰着。
よって、最後の夜襲のは中止となる。
この時点で、橋本部隊は第23師団(旭兵団)へ復帰させ、捜索第16連隊(日比部隊)は盟兵団に編入となる。

9月11日、カバヤンにて佐藤旅団長以下1,000名が武装解除となる。

(平成17年7月31日追記)


損害

部隊 部隊長名 総員数 戦没数  
旅団司令部 旅団長 佐藤文蔵少将 818 596  
吉田大隊
(独立歩兵第378大隊)
大隊長 吉田鉄郎少佐(戦死) 1,506 1,415  
庄司大隊
(独立歩兵第379大隊)
大隊長 庄司佐光大尉 1,918 1,638  
関大隊
(独立歩兵第380大隊)
大隊長 関 吉郎少佐 1,361 1,285 昭和19年11月
レイテ島にて玉砕
太田大隊
(独立歩兵第544大隊)
大隊長 太田正巳少佐 1,731 1,450  
西村大隊
(独立歩兵第545大隊)
大隊長 西村 勇少佐(戦死)
(後任:日高信男少佐)
1,453 1,347 (後に日高大隊)
金沢大隊
(独立歩兵第546大隊)
大隊長 金沢正三少佐(戦死) 760 739  
福永大隊
(旅団砲兵隊)
大隊長 福永董祐中佐 974 803  
佐藤隊
(旅団工兵隊)
中隊長 佐藤直一少佐(戦死)
(後任:黒田久雄大尉)
468 407 (後に黒田隊)
小出大隊
(旅団歩兵砲隊)
大隊長 小出 晏少佐 670 565  
野田隊
(旅団速射砲隊)
中隊長 野田円次郎大尉(戦死)
(後任:大滝伝次少尉)
174 156 (後に大滝隊)
臨時開拓勤務第20中隊 中隊長 小川正太郎(戦死)
(後任:岩崎三男治中尉)
70 54  
大石大隊
(独立重砲第4大隊)
大隊長 大石正義中佐 532 389  
日比連隊
捜索第16連隊
連隊長 日比 知大佐 790 601 昭和20年4月より
盟兵団指揮下

総兵力(レイテ派遣含む) 13,225名
戦没者(生死不明者含む) 11,445名
生還者 1,780名

(平成17年6月24日追記)


慰霊碑


盟兵団 宮下大隊
比島方面戦歿将兵慰霊之碑
バギオ会

(フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺)




(平成18年11月2日)
比島寺



比島寺

(フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン)


旅日記参照)


(平成18年11月2日)



リバイバル戦記コレクションS
証言・昭和の戦争
「鬼兵団」ルソンに散る
光人社 1991年発行 1,600円



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