道元 どうげん

正治2年1月2日(1200年1月19日)〜建長5年8月28日(1253年9月22日)


京都生まれ。
父親は内大臣源通親、母親は摂政太政大臣藤原基房の娘・伊子。
幼少の時、父母に死別し、13歳で比叡山で出家。
天台教学を学んだ。
人は本来、仏であるのに修行しなければならないという疑問を解くために山を下り、栄西の弟子・明全みょうぜんに参じた。
貞応2年(1223年)明全とともに入宋、5年間の滞在中に天童山の如浄に参じ、得悟した。
帰国後『普勧坐禅儀』を著し、坐禅の方法などを説いた。
一時、建仁寺に身を寄せたが深草に移り、天福元年(1233年)興聖寺を開き、主著『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』の著述を開始。
禅の宣揚に努めた。
その間、比叡山・東福寺などの圧迫があったため、寛元元年(1243年)門弟・波多野義重の招きで越前に移り永平寺を開いた。
出家主義に基づく厳しい修行のもとに教団を形成した。
晩年は弟子・懐奘えじょうに寺を譲り、京都で没した。


道元・修行の遺跡



道元禅師 修行の遺跡
(京都市・建仁寺)





(平成19年3月7日)

道元禅師 修行の遺跡

日本の曹洞宗開祖道元禅師(1200〜1253)は、建保元年(1213)4月比叡山で出家し、やがて建仁寺御開山栄西禅師(1141〜1215)の高弟明全和尚(1184〜1225)に建保5年(1217)8月師事して前後9年、その間、栄西禅師の遺風に浴し、師資相承の一偈を伝授され、貞応2年(1223)2月、和尚に随侍して入宋すること5年、慶元府、景徳寺の天童如浄禅師(1163〜1228。ほかに異説あり)に就いて参学の大事を究尽し、再び建仁寺に入り、報恩の至誠を捧げ、寛喜3年(1231)山城深草に移居した。

平成10年10月吉日
駒沢女子大学学長 文学博士 東 隆眞

(説明板より)

建仁寺・勅使門



建仁寺
(勅使門)
(京都市東山区小松町584)





(平成19年3月17日)

建仁寺けんにんじ

東山とうざんと号する臨済宗建仁寺派の大本山である。
建仁2年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明庵栄西みんなんようさい禅師により創建され、寺名は年号をとってこのように名付けられた。
以後、正嘉2年(1258)に円爾弁円えんにべんえん、正元元年(1259)には、蘭渓道隆らんけいどうりゅうが住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第三位を占めるに至った。
勅使門は、俗に「矢の根門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長4年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。
寺宝としては、俵屋宗達たわらやそうたつの代表作、紙本金地著色風神雷神図、海北友松かいほうゆうしょうの紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。
また、毎年4月に方丈で行われる「四頭よつがしらの礼れい」は、禅宗寺院の茶札の古態を今に伝えている。

京都市

(説明板より)




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