(通称号:勢8125部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 | |
大阪 | 昭和13年 | 第2軍 | 西部ニューギニア・マノクワリ地区 |
昭和13年10月、バイアス湾上陸作戦に参加。
続いて広東攻略戦にも参加する。
昭和15年1月の南支那派遣軍の南寧付近への駐屯に伴い、欽寧站道、南寧軍橋確保に任じる。
昭和16年12月、マレー作戦に参加してシンゴラに上陸。
カンパル河、スンカイ河などでの迅速な架橋修理で奮戦し感状を授与された。
昭和17年7月、第17軍の南海支隊に配属され、ポートモレスビー攻略戦に参加。
スタンレー山脈を越え、ポートモレスビーを望む地点まで進出したが、軍命令で撤退。
ギルワに陣地を構築。
同地に上陸した米軍と激戦。
2ヶ月後、生存将兵は約50名。(上陸時は1400名)
のちにパラオで再建。
昭和19年1月、第2軍に配属となり、マノクワリに進出。
同地で終戦を迎えた。
独立工兵第15連隊之墓 (和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院) (平成21年4月9日) |
副碑 (和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院) (平成21年4月9日) |
アジア民族の解放と世界平和を祈念しつゝ若き命を散じた英魂を■仰し独工十五の生存者一同今ここに微資を■じてこの碑を建つ。
我等いつか卿等の■下に倶会して徒■を詫び共に人類の発展と平和を■念せん。
昭和46年9月16日
独工十五生存者一同
(碑文より)
マレー進攻作戦 |
昭和16年12月7日深夜、陸軍を乗せた輸送船は、風速15メートルの強風に耐えながら、マレー半島北東部のコタバル沖に錨を投げた。
半島の南端の海上に浮かぶ要塞の島シンガポールを、日本軍はマレー半島の北から攻略を始めた。
直距離にして500キロメートル、その間に駐屯するイギリス軍を撃破した上で、シンガポールの要塞を攻撃する作戦である。
当時、マレー半島には約8万のイギリス兵がいると思われていた。
そこに第5師団、第18師団、近衛師団の3個師団が突っ込んで「何はともあれ、シンガポールへ」の熱気に燃えて南下した。
昭和16年12月11日、第5師団は、最初の第一線陣地を突破して、文字通り破竹の進撃を開始した。
歩兵部隊の全員が、自転車に乗っていたので「銀輪部隊」だと、新聞紙上に報じられた。
激戦を重ねながら南下する銀輪部隊の行動を支えたのが、独立工兵第15連隊であった。
この作戦でこの工兵隊が補修した橋は、250を超える。
例えば山口の歩兵第42連隊の場合、カンパルを越えると、スンカイ川に行く手を阻まれた。
歩兵は渡れても野砲と戦車は渡れない。
そこに昭和17年1月4日の夜、独立工兵第15連隊が到着した。
見ればトラックに架橋に必要な材料を満載している。
「できれば明朝から作業を」という参謀の言を断って、連隊長の横山大佐は、即刻作業にかかった。
1週間の予定は2日で完成し、6日の午前には、まだ裸で作業を続けている工兵隊員たちに見送られて、野砲と18両の戦車はシンガポールに向けて南下し、間もなく昭和17年1月11日、今のマレーシアの首都クアラルンプールは陥落した。
スンカイ橋(推定) (マレーシア) (旅日記参照) (平成26年6月9日) |
そして、昭和17年1月31日朝、マレー半島とシンガポール島を結ぶジョホールバル海峡にかかる橋は、イギリス軍によって爆破されたが、ここでも横山工兵連隊は活躍した。
(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)
(令和2年9月10日 追記)
台湾高砂義勇隊・ポートモレスビー攻略戦 |
昭和17年7月8日、フィリピン・ミンダナオ島のダバオに駐屯していた独立工兵第15連隊(長:横山与助大佐)は、第17軍司令官の命令を受け、歩兵1個大隊と共に南海支隊の先遣隊として、東部ニューギニアのブナ付近に上陸し、陸路スタンレー山脈を越えて、オーストラリアから、海空路によりニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーを攻略することになった。
この全く地図も予備知識のない地区への進撃に対し、東京の中央は、バターン、コレヒドールの攻略い貢献した台湾高砂義勇隊員の中から、当時の高雄州内のパイワン族95名と、花蓮、台東州のアミ族5名を選んで枝元源市中隊長(第2中隊)指揮の下に横山連隊に配属した。
昭和17年7月21日、バサブアに敵前上陸し、ギルワ、ブナを占領した後にココダ飛行場を占領した。
その後、その足でポートモレスビー攻略のため、イスラバ、ギャポ、スタンレー山脈を越え、エポギ、イオリバイヤを占領した。
しかし、我が軍は弾薬食糧がなくてココダ飛行場まで後退し、その後、さらにギルワ、ブナ地区に退いてアメリカ軍との死闘を繰り返した。
昭和18年2月、さらにクムジ河口に後退して、連隊主力は海岸線、第2中隊は各分隊ごとにクムジ河の河口でアメリカ軍と戦闘し、続いてサラモアとラエの海軍飛行場の警備に任じ、連隊本隊は山地の自動車道路の修理に従事した。
その後、連隊はニューブリテン島のラバウルに回航した後、フィリピンに移り、高砂義勇兵の生き残った者30数名は、そこで連隊と別れて台湾に帰還した。
(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)
(令和2年9月10日 追記)
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