平成18年4月15日
天保13年3月10日(1842年4月20日)〜大正11年(1922年)5月19日
静岡県沼津市・沼津市明治史料館でお会いしました。
幕府小普請役の家に生まれ、戊辰戦争に参戦。
明治元年(1868年)静岡藩少参事に抜擢され沼津兵学校を設立した。
明治11年(1878年)キリスト教受洗。
明治23年(1890年)代議士となる。
明治26年(1893年)東洋英和学校校長。
明治28年(1895年)麻布中学校を創立し終生校長を務めた。
江原素六像 (沼津市明治史料館) 江原素六生誕150年記念事業 彫像制作者 西 常雄 江原素六先生顕彰会之建 平成5年(1993)3月 (平成18年4月15日) |
西暦 | 元号 | 年齢 | できごと |
1842 | 天保13 | 0歳 | 3月10日、武蔵国江戸郡角筈で生れる。幼名 鋳三郎。 |
1854 | 安政 1 | 12歳 | 4月、愛住町へ転居。池田福五郎の寺子屋に入門。 |
1856 | 3 | 14歳 | 昌平黌の試験に合格。元服。 |
1859 | 6 | 16歳 | 幕府講武所で西洋式連兵を学ぶ。 |
1861 | 文久 1 | 19歳 | 9月、講武所砲術世話心得になる。 |
1862 | 2 | 20歳 | 5月、講武所砲術教師になる。 |
1865 | 慶応 1 | 23歳 | 5月、長州征伐に従う。 |
1867 | 3 | 25歳 | 12月、砲兵指図役並になる。 |
1868 | 4 | 26歳 | 1月、撒兵頭並になり、4月に撒兵頭に昇進。 |
明治 1 | 10月、静岡藩少参事に任命され、江原素六の名を公に名乗る。 | ||
1871 | 4 | 29歳 | 4月、海外視察者に選ばれ、欧米を旅行する。 |
1875 | 8 | 33歳 | 静岡師範学校長になる。 |
1876 | 9 | 34歳 | 沼津中学校長になる。静岡県会議員に選ばれる。 |
1877 | 10 | 35歳 | キリスト教に接する。 |
1878 | 11 | 36歳 | 第1回洗礼を受ける。 |
1879 | 12 | 37歳 | 駿東郡長に任じられる。 |
1881 | 14 | 39歳 | 大患をわずらう。2度目の洗礼を受ける。郡長を辞す。 |
1882 | 15 | 40歳 | 沼津中学校長を辞し、伝道に専念する。 |
1889 | 22 | 47歳 | 東京へ単身移る。 |
1890 | 23 | 48歳 | 静岡県第7区より立候補し、衆議院議員となる。 |
1893 | 26 | 51歳 | 父、源吾死亡。東洋英和学校長となる。 |
1895 | 28 | 53歳 | 麻布中学校を設立し、その校長となる。 |
1898 | 31 | 56歳 | 衆議院議員を辞す。 |
1903 | 36 | 61歳 | 再び東京で衆議院議員に選ばれる。 |
1904 | 37 | 62歳 | 東京キリスト教青年会理事長となる。 |
1906 | 39 | 64歳 | 家庭学校理事となる。 |
1908 | 41 | 66歳 | 麻布メソジスト教会日曜学校長となる。 |
1911 | 44 | 69歳 | 母、ろく死亡。 |
1912 | 45 | 70歳 | 勅撰議員として貴族院議員となる。 |
1922 | 大正11 | 80歳 | 5月19日永眠する。 |
(沼津市明治史料館・展示解説シートより)
江原素六 |
江原素六は、沼津が誇る偉大な人物です。
幕臣だった素六は、明治維新により、この沼津の地に移住し、沼津兵学校の設立や士族授産(失業した武士に仕事を与えること)に努められました。
それは今日の沼津の教育や産業の基礎を築いたものといえます。
また、愛鷹山払い下げの功績も、地元の人々には忘れることのできない大きな恩恵でした。
素六の活躍は、沼津に限られるものではなく、衆議院議員・貴族院議員・政友会の長老として、中央の政界にも大きな足跡をのこしました。
今の麻布学園や県立沼津西高等学校の創設者でもあり、教育者としても活躍しました。
また、熱心なクリスチャンとしての一面も、彼を単なる政治家にとどまらせず、良心的な社会事業家、進歩的な国際人にしました。
政治家・教育家・宗教家としての顔を持つ素六は、多くの人々に影響をあたえており、いまなお、人々から尊敬され愛されています。
江原素六のおいたちと教育 |
素六は、貧しい武士の家に生れましたが、まわりの人々の温かい思いやりと、勉強しようという強い意志と希望をもって、当時としては幕府最高の学校であった「昌平黌しょうへいこう」に入学しました。
父母とともに手内職の房楊枝(歯ブラシ)を作りながら学問に励みました。
その後、幕府から強い要望があり幕末の乱れた政治のもと、徳川幕府の中心を担う武士として活躍しました。
明治維新後、沼津に移り住んだ素六は、沼津兵学校を作ることに努力しました。
さらに、「集成舎」「沼津中学校」「駿東高等女学校」などをつくり、現在の沼津の教育の基礎を築きました。
沼津だけでなく、「静岡師範学校」「東洋英和学校」「麻布中学校」の校長などを務め、教育者として広く活躍しました。
とくに、麻布中学校については、学校をつくったときから亡くなるまで校長の地位にあり、半生を麻布中学校の教育に捧げたといえます。
また、政治家として高等教育会議議員に任命されるなど、日本の教育とも深い関係がありました。
江原素六と事業 |
明治維新は、武士の刀を奪いました。
武士の生活を支えていた俸禄(給料)は、明治9年(1876)に公債(政府が発行した金銭の証書)にきりかえられました。
この公債を元手として士族たちは、商業や農業を始めましたが、その多くは失敗に終わりました。
江戸から移ってきた旧幕臣である静岡藩士族の生活は、特に苦しいものでした。
遠州では、牧の原や三方ケ原の茶園開拓などの大規模な事業が行われました。
沼津では「開墾・牧畜・養蚕・石の切り出し・タバコ製造・製茶・製紙・製靴・運送」など、さまざまな事業が行われました。
その中心となったのが、江原素六らの士族でした。
事業の多くは失敗しましたが、これらは、時代を先取りしたものであり、素六らの先をみる目は高く評価されています。
素六は、士族が事業をおこすリーダーであったばかりでなく、地元の農民にとっても大恩人でした。
それは、愛鷹山官有地の払い下げにより、地元に大きな利益をもたらしてくれたことで、これは大きな功績といえます。
愛鷹山払い下げ運動 |
愛鷹山は、江戸時代からの入会地として、地元農民の生活を支える大切な財産でした。
しかし、入会地は所有者がはっきりしなかったため、地租改正にともない、明治7年(1873)には国有地にされてしまいました。
これに対し、地元農民は引き戻し運動をおこし、江原素六にお願いし、明治16年(1883)には、20年間無償で貸してもらう許しをとりつけることができました。
しかし、この借りている土地は明治22年(1889)に、突然皇室の土地御料林(皇室領)とされ、またも農民たちは締め出されてしまいました。
そこで、再び江原素六にお願いし、地元農民も一緒に東京までお願いに行き、ついに、明治32年(1899)には払い下げに成功しました。
このことを記念して、少年自然の家付近に、「愛鷹山払い下げ記念碑」が建てられています。
江原素六と政治 |
素六は、宗教家・教育家であったばかりでなく、政治家としても社会を明るくするために、大きな働きをしました。
地元での政治活動は、明治9年(1876)に「県会議員」、明治12年(1879)「駿東郡長」に任命されたのに始まります。
明治15年(1882)に、板垣退助と出会ったことがきっかけで、自由民権運動にも関係を持つようになりました。
その後、しばらくキリスト教を広めるために努力して、政治から離れていましたが、明治23年(1890)の第1回の衆議院議員選挙に当選し、国の政治に参加することになりました。
その後、衆議院議員に6回当選し、その後、貴族院議員に転じるなど国政に参加し、自由党―憲政党―政友会の幹部として活躍して、立憲政治発展のために努力しました。
素六の考え方も、温かみのある自由主義者として終始し、その立派な人柄とぜいたくをしない生活態度で、一生をつらぬきとおしました。
江原素六と宗教 |
素六が最初にキリスト教を信ずるようになったのは、明治11年(1878)素六36歳のときでした。
カナダ、メソジスト教会宣教師であり、沼津中学校の先生であったミーチャムからキリスト教の教えを受けました。
しかし、この頃はまだ、深い信仰心を持つことはできなかったようです。
ところが、明治14年(1881)にたくさんの血を吐いて、危篤状態になりながらも、運よく命をとりとめるという体験がきっかけとなって、ふたたびキリスト教の教えを教えを受け、それからあとは、熱心なクリスチャンとして、キリスト教の教えを広める努力をしました。
やがてその活動は、中央にまで広げられ、「キリスト教青年会」「日曜学校」「家庭学級」「白十字会」「林間学校」「鉄道青年会」「軍人後援会」などさまざまな社会事業にも努力をし、多くの人々に多大な感化を与えました。
江原素六の家庭生活 |
道徳と武士道精神、さらに、キリスト教のかたい信仰に基づいた素六の生活は、質素で、自分に対しても厳格でした。
父母を大切にし、その老後の面倒をよく見、子供の教育には、深い愛情に基づく厳しい躾をもってあたりました。
日常生活は、贅沢をしないで勉強に励みました。
60歳を過ぎても、冬に火鉢を使うことはまれで、座布団のかわりに、いらない紙で作った敷布を使っていたほどでした。
また、旅行のときは、現在のグリーン車の優待券を持っていながら、普通車に乗り、誰とでも気やすく話をしました。
徹底した几帳面さは、日記や小遣い帳、新聞の切り抜きのスクラップブックなどによくみられます。
日記は、明治の初めからずっと一日も欠かさずつけていました。
また、金銭に対してもきわめて正しく、小遣い帳には、あらゆることが記録されていました。
新聞の切り抜きは、つねに、政治家・教育者としての勉強を怠らなかったことを、よく物語っています。
(沼津市明治史料館・展示解説シートより)
沼津市明治史料館 (静岡県沼津市西熊堂372−1) (平成18年4月15日) |
展示内容
江原素六コーナー
沼津の歴史コーナー
沼津兵学校コーナー
利用案内
開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:毎週月曜日(祝日は開館)・祝日の翌日・毎月最終平日・年末年始
観覧料:大人200円
交通:JR沼津駅南口富士急バス2番線(江原公園経由)乗車「明治史料館前」又は「江原公園」バス停下車
訪問記 |
史料館内部は原則撮影禁止ですが、申請書を出せば撮影許可をもらえる場合があります。 HPに使用したい旨伝え、私が見学中に私のHPを確認してくれるよう伝えたところ、確認してくださったのか、職員の方が親切にも再三申請書を書くことを勧めてくださいました。 しかし、次に行かねばならない場所もあり、とにかく急いでいたので、ご親切をお断りしてしましました。 申し訳ございませんでした。 ここには、素六邸の一部を復元したものや、沼津海軍工廠で作られた「電波深信儀(レーダー)」など撮影したいものがあったのですが・・・ 次回、機会がありましたら再訪問したいと思います。 この場を借りて、改めて親切に声をかけてくださった職員の方に御礼を申し上げます。 |
平成18年4月15日
静岡県沼津市・江原素六先生記念公園でお会いしました。
「江原素六翁」像 初代の銅像は昭和10年に建立されたようです。 その後、戦時供出。 再建は昭和30年のようです。 (平成18年4月15日) |
江原素六先生記念公園 (沼津市西熊堂にしくまんどうあたり) 以前は国道1号線バイパス沿いにありましたが、平成11年5月に現在地に移転しました。 もよりのバス停=「高砂町北」 (平成18年4月15日) |
江原素六の墓 (憩の園共同墓地) (平成18年4月15日) |
江原家の墓所 (憩の園共同墓地) (平成18年4月15日) |
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