枝吉神陽 えだよし・しんよう

文政5年5月24日(1822年7月12日)〜文久2年8月14日(1862年9月8日)


誕生地跡



誕生地跡

(佐賀県佐賀市鬼丸町7−18・佐賀県社会福祉会館)





(平成20年11月24日)

枝吉神陽生誕地

枝吉神陽、1822(文正5年)1863(文久3年)は本名種経。
枝吉種彰(号南濠)の長男としてこの地に生まれ、幼時より神童ぶりを発揮し、20才にして江戸の昌平黌しょうへいこうに学んだが学才群をぬき、たちまち舎長に推された。
26才の時帰郷して弘道館教諭となり、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ、同志を集め「義祭同盟」を結成し、藩内尊皇運動の推進力となった。
この「義祭同盟」からは明治維新に際し、幾多の人材を輩出したが、彼らに与えた影響の大きさにおいて「佐賀の吉田松陰」と呼ぶにふさわしい偉大な指導者であった。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)


弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)

義祭同盟之碑



義祭同盟之碑
(佐賀県佐賀市・楠神社)





(平成20年11月24日)

明治維新佐賀勤王家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850)本庄村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。
これが佐賀勤王論の始まりである。
佐賀藩の重役執政安房あわは義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
この同盟に参加したのは副島種臣江藤新平大隈重信等実に多くの志士たちであった。
この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発、悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。
これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。
ここに同盟結成百五十周年を記念し当時の志士たちの計り知れない労苦を偲び、遺された偉大な功績を稱えてこの顕彰碑を建立するものである。

平成12年5月吉日
長沼冨士男謹識
宮司謹書

(碑文より)

楠神社



楠神社
(佐賀県佐賀市白山1−3−2・竜造寺八幡宮の脇)





(平成20年11月24日)

本邦創祀正一位 楠くすのき神社由緒沿革

楠神社は安政3年(1856年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。
楠公なんこう父子櫻井の驛訣別の像が祀ってある。
この木像は寛文2年(1662年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の仏師法橋宗而に製作を依頼して同3年佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀った。
それから180年後佐賀藩校、弘道館教■枝吉神陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永3年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。
これが義祭同盟の起りであり、佐賀勤王論の始まりである。
開明的な10代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政安房は自ら盟主となり、安政5年5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義勇(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。
大隈重信(総理大臣)17才、久米邦武(東大名誉教授)16才はこの時最年少者として初めて参加、この境内で日本一君論いっくんろんを論じ合った。
大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。
こうして楠公父子の神霊に育くまれて明治維新の志士たちが生まれた。
この楠公父子の像が佐賀に始めて祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子之墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと29年実に我が國初の楠公を祀った神社である。

非理法権天ひりほうけんてん
楠正成がその旗に印せし文字
非は理に勝つこと能あたわず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、権は天に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく

(説明板より)




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