藤田東湖像 平成17年2月6日再訪問

藤田東湖 ふじた・とうこ

文化3年3月16日(1806年5月4日)〜安政2年10月2日(1855年11月11日)

茨城県東茨城郡大洗町 「幕末と明治の博物館」の敷地でお会いしました。


藤田東湖は文化3年(1806年)3月16日に後期水戸学の創唱者である藤田幽谷の次男として生まれました。
水戸藩の藩主継承問題では徳川斉昭なりあきの擁立に尽力、斉昭が藩主に就任すると腹心として藩政の改革を推進しました。
弘化元年(1844年)斉昭が幕府から隠居謹慎を命じられると東湖も蟄居幽閉の処分を受けました。
嘉永6年(1853年)斉昭が幕政参与となるや側用人として藩政に復帰しましたが、安政2年(1855年)10月2日の夜「安政の大地震」で圧死してしまいました。


藤田東湖像

藤田東湖像



藤田東湖像
(茨城県東茨城郡大洗町・幕末と明治の博物館)




(平成17年2月6日再訪問)

藤田東湖先生銅像

東湖先生は、水戸学を世に広めた学者であり又秀れた政治家でもあった。
藩主徳川斉昭を助け国政に尽力し、その思想は明治維新をうちたてる原動力となった。
安政2年(1855年)の大地震のため50才で歿した。
この銅像は、昭和16年に当町出身の飛田勝造氏が先生の偉業を天下に伝えるため、建立し寄付されたもので袖ヶ浦を眼下に見る高台(現在の磯浜小学校)にあったが、昭和30年この東光台(地)に移転されたものである。

大洗町商工観光課

(説明板より)


【藤田東湖】 

東湖は文化3年(1806年)、水戸藩の学者・藤田幽谷の二男として、水戸城下の上梅香うわばいこう(梅香)に生まれた。
母は藩士・丹武衛門たんぶえもん一言の娘・梅うめ
14歳の時に父に従って初めて江戸の地を踏み、亀田鵬斎かめだほうさい太田錦城おおたきんじょうに儒学を、岡田十松おかだじっしょうに撃剣を学んだ。
20歳過ぎから、「文武の道は、おのおの相待ちて用をなす。武有りて文無ければ、則ち武の用もまた大なる能あたわず」と反省し、武芸だけではなく学問にも身を入れて取り組むようになった。
翌年、父の死に遭って家督(200石)を継いだのち、24歳で彰考館しょうこうかん(『大日本史』の編纂局)の総裁代役に昇進する。

このころから、病弱な8代藩主・徳川斎脩なりのぶの後継をめぐって、門閥派と、幽谷の門人を中核とする改革派の対立が表面化した。
東湖はおのずから改革派の中心人物となり、斎脩の重態を知るや同志40人余と、決然として願いなく江戸に出て、斎脩の異母弟・敬三郎(斉昭)の襲封に奔走した。
9代藩主となった斉昭が、早速、藩政の改革に着手すると、東湖はいったん無願出府を咎められて処罪されながら、まもなく許されて郡奉行こおりぶぎょうに抜擢される。
以後、水戸藩9代藩主・徳川斉昭のブレーンとして、御用調役ごようしらべやく・側用人そばようにんなどの要職を歴任し、斉昭の推進する政治改革(天保改革)実現に尽力し、軍備の充実、藩内の総検地、藩校・弘道館の建設、寺院の整理などに取り組んだ。
また、藩校・弘道館の建学趣旨を宣言した『弘道館記』を起草するとともに、その解説書である『弘道館記述義』をはじめ、『回天詩史かいてんしし』、『常陸帯ひたちおび』、「和文天祥正気歌ぶんてんしょうせいきのうたにわする(正気歌)」などの著作により、水戸学の声価を全国に高める中心的役割を果たした。

弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革政治の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を受けると、改革派の有力者は連座して処罰され、東湖もこの時に役職を奪われて蟄居となり、江戸小石川(文京区)藩邸内の一室に幽閉された。(39歳)
翌年に本所小梅村の下屋敷(東京都墨田区向島)に移り、42歳からは水戸城下横竹隈よこたけくま(柳町2丁目)の蟄居屋敷に住むことを許されたが、晴れて自由の身となるのは嘉永5年(1852年)、47歳の時であった。
翌6年、ペリー提督の浦賀への来航により、対外的緊張が一気に高まると、斉昭は幕府の海防参与に任じられ、これに伴い東湖も斉昭の特命を受けて江戸に上り、海岸防禦御用掛かいがんぼうぎょごようがかりを命じられる。
以後、斉昭のもとで海防問題の処理に忙殺されながらも、佐久間象山、西郷隆盛らと交わり、彼らに強い感化をあたえる。

安政元年(1854年)、側用人兼務、翌2年には学校奉行兼務となり、600石を給するまでに昇進したが、この年の10月2日、江戸を大地震が襲った。
家族はそろって庭へ避難したが、母が大切な品を取ってくると縁側に戻ったため、東湖がとっさに母を抱きかかえて外に出ようとした瞬間、梁が頭上に落ちた。
母は助かったが、東湖は即死した。
享年50歳。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月2日 追記)







大津漁港 
(茨城県北茨城市大津町)




(平成18年9月28日)

異国人上陸

文政7年(1824年)3月28日、2そうの英国捕鯨船が、常陸大津浜沖に現れて碇泊、鉄砲を持った11名の船員が2隻のボートに分乗して富岡海岸に上陸してきた。
はじめて見る巨大な黒船と異人の姿に村人たちは驚きあわて、平和な浜は忽ち大騒ぎとなった。
急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢によって船員は捕らえられ浜辺の民家に監禁されたが、一部の船員が逃亡を企てたゝめ洞穴に押し込めた。
沖合の本船は数十発の大筒空砲を轟かせ威嚇しながら船員の身柄引渡しを要求したが、拒否された為、上陸船員を残して退去、その後数日して、こんどは5そうの船団となって現れたが再び退去した。
水戸藩からも出陣の兵が送られ幕府代官の下向によって取調べが行なわれた。
結果船内に病人が出て、野菜等の補給の為の上陸とわかり、6月10日薪、水、食糧など給与し、ボートにて退去させた。
この事件を知った水戸の藤田幽谷は一子東湖を大津浜に送り異人たちを斬るべく計ったが時すでに釈放のあとで果たせなかった。
「常陸なる大津の浜にイギリスの船を、つなぐと君はきかずや」の一首はその時の歌である。
異人たちは20日ほどの囚われの中で画をかき、相撲などとって里人と親しくなった。
洞穴のそばに梅の老木があった。
人呼んでイギリス梅という。
昭和のはじめに枯死し、今は面影をとゞめていない。
これ以後も常磐沖には、外国船が出没し、沿岸各藩の海岸防備は厳重をきわめた。
嘉永6年ペリーの浦賀来航に先立つ約30年前の事件であった。

北茨城市
茨城民族学会北茨城支部資料提供

(説明板より)


正気の碑 東京都墨田区向島の墨田公園は水戸藩小梅邸(下屋敷)でした。
ここに「正気歌」の碑が建っています。

正気歌の碑
江戸末期の尊皇攘夷論者として知られている水戸藩士・藤田東湖の歌碑です。
日本古来の国体を賛美した「正気の歌」は弘化2年から3年間、小梅の水戸藩下屋敷に幽閉されていた時に作られたものです。
この歌は水戸藩のバイブルとなり、幕末志士たちを鼓舞し、明治・大正・昭和の初期まで愛国の士の血をわかせました。
この碑は昭和19年6月に東湖会が建立しました。






水戸徳川家下屋敷 小梅別邸跡
(東京都墨田区向島・墨田公園)



(平成22年10月3日)

【墨田公園水戸邸跡由来記】

コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル
徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ
コノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ
弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ
ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府の管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 
明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル
昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ  シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ
昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ 後世ニ伝エルモノデアル
    
昭和五十四年四月

(由来碑・碑文より)




墨田公園
(東京都墨田区向島)




(平成22年10月3日)

【弘道館記述義こうどうかんきじゅつぎ

藤田東湖が著した『弘道館記述義』は道徳論を展開したといわれる。
東湖は、内憂外患の今こそ、日本人が潜在的に備えているはずの正気せいき(道義心)を存分に発揮し、国家の統一を強め、直面する危機を乗り越えるべきと主張した。

嘉永6年(1853年)のペリー来航を機に海防参与に就任した徳川斉昭は、腹心の東湖を江戸に呼び寄せる。
この江戸在勤中、東湖は横井小楠橋本佐内佐久間象山らと積極的に交わった。
西郷吉之助(隆盛)もその一人で、西郷は東湖宅を訪れた際の感動を「心に少しも曇りのない清らかな心になり、帰り道を忘れてしまうほどだった」と記している。

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月7日追記)


泉が森納涼詩の碑



藤田東湖泉ヶ森納涼詩の碑
(茨城県日立市水木町2−22−1・泉ヶ森)





(平成18年6月29日)






藤田東湖泉ヶ森納涼詩の碑
(茨城県日立市水木町2−22−1・泉ヶ森)







(平成18年6月29日)

藤田東湖泉ヶ森納涼詩

冽々れつれつたる寒泉かんぜん  深樹しんじゅの下もと
炎天えんてん六月ろくがつ  颯さっとして秋の如し
あにただに一時いっときの熱を駆逐するのみならんや
洗い尽くす  乾坤けんこん万古ばんこの愁うれ

冽々(手の切れるように冷たい)
炎天六月(土用の最中さなか 六月は新暦の七月)
乾坤(天と地 この世)

嘉永6年6月3日(1853)ペリー来航。
藤田東湖(48歳)はその頃、湯岐ゆじまた温泉(現福島県東白河郡塙町湯岐・和泉屋旅館)で高血圧の治療に専念、約1ヶ月逗留後、6月19日泉ヶ森を尋ね納涼詩を詠む。
同年7月7日、急使により江戸に上り、斉昭の参謀格として海岸防禦御用掛りの任に当たっていたが、安政2年(1855)の江戸の地震で圧死する。

平成17年4月
前氏子総代 内山俊男
氏子総代 内山信也
       内山義人

(説明板より)

泉が森



泉ヶ森

(茨城県日立市水木町2−22−1)





(平成18年6月29日)

茨城県指定文化財(史跡第23号)
昭和44年12月1日指定

泉ヶ森

こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。
泉が森については、奈良時代に編さんされた、「常陸国風土記ひたちのくにふどき」に次のように記されています。

此より東北のかた二里に密筑みつきの里あり。村の中に淨泉いずみあり。俗くにひと、大井おおいと謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、遠邇おちこちの郷里むらさとより酒と肴さかなとをもちきて、男女会集つどいて、休いこい遊び飲さけのみ楽しめり。(原文は漢文)

密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。
周囲が50メートルほどある泉のほぼ中心部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。
水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。
泉神社は、平安時代初期の編修である延喜式えんぎしき神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命あまのはやたまひめのみことを祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。
ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。
また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行っていた、古い時代の名残りとみられる珍しい行事です。

日立市教育委員会

(説明板より)


藤田東湖護母致命の処



藤田東湖護母ごぼ致命ちめいの処ところ

(東京都文京区後楽1丁目)





(平成18年3月11日)

藤田東湖護母ごぼ致命ちめいの処ところ

後楽1−3−40(東京都指定旧跡)

幕末の勤皇家 藤田東湖(1806〜55)は、水戸藩士で、藩主徳川斉昭の信任も、きわめてあつかった。
弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居ちっきょの身となった。
後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰づめを命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人そばようにんとなった。
安政2年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。
東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。
東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。
東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。
しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。
その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅かくふく工事のため道の中になってしまった。
そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。

平成11年3月
文京区教育委員会

(説明板より)


藤田東湖先生護母致命之處の碑 「藤田東湖先生護母致命之處」の碑

東京都文京区の小石川後楽園(水戸藩邸跡)内にあります。
東湖は安政の大地震の時に母親を助けようとして家の下敷きになって圧死してしまいました。
石碑は圧死した現場からは少し離れたところに建っています。
ここには西郷隆盛も教えを乞いに訪れたといいます。

【安政の大地震】

安政2年10月2日、江戸に起こった大地震はこの日、圧死者25,039人を出す大惨事となった。
水戸藩小石川邸内の死者は46人、負傷者は84人だった。

(参考:坂田暁風著 『城東歴史散歩』 茨城新聞社出版局制作 平成13年発行)

(平成23年7月28日追記)


東湖神社



東湖神社
茨城県水戸市・常磐神社境内




(平成16年1月12日)

東湖神社

御祭神:藤田東湖命(1806〜1855)幕末の水戸学者・藤田幽谷ゆうこくの子・本名彪たけき
御例祭:5月4日
御神徳:学業成就・知恵授け

父幽谷の水戸学を受け継いで実践し、斉昭なりあき公を助けて藩政改革、兵器軍艦の建造に活躍。
公の幕政参与に従って海防策を建言するなど、その活動は幕府からも注目された。
その著「弘道館記述義」は会澤正志斎あいざわ・せいしさいの「新論」と共に水戸学を代表する文献として、全国に広く伝写され、明治維新の志士達の教典となった。
安政の大地震で老母をかばい亡くなられた。
斉昭公への忠誠と共に、藤田父子の水戸学に残された足跡は大きい。

(説明板より)


藤田東湖の墓



藤田東湖の墓

(茨城県水戸市松本町13−34・常磐共有墓地)





(平成20年6月30日)

藤田東湖

幕末全国の志士から敬慕された藤田東湖は幽谷の子として水戸の梅香で生れ名を虎之助、彪と称した。
若い時から文武の学に励み英気に富んだ。
父の没後烈公斉昭の片腕となって、弘道館創立をはじめ画期的改革を断行した。
恐れた幕府が烈公に隠居謹慎を命じた時彼も幽閉されたがこの機に著わした弘道館記述義、常陸帯、回天詩史、正気歌は全国の読者を感奪させた。
後 烈公と江戸で国防のために活躍中安政大地震に遭い不幸50歳で没した。

水戸市教育委員会

(説明板より)


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